第22話

 最初に動いたのは、高木さんだった。

「西町さん」

 私はうつむいたまま、聞こえている、という合図のために頷いた。

「俺、ここにいたほうがいいですか?」

 私は即座に首を振った。高木さんが笑う気配がした。

「じゃあ、俺はこれで。失礼します」

 口を開くと嗚咽が漏れそうで、私はできるだけ深く、頭を下げた。

「おやすみなさい」

 そう言うと、高木さんは足音とともに遠ざかって行った。その音がすっかり雪の作る静寂に埋もれてしまっても、私はまだ泣き止むことも、顔を上げることもできなかった。

 なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ、何かが壊れてしまったのを感じていた。ずっと自分の心を不自然な形に歪めてまで、触れないようにしていたもの。そうやって、多分、ずっとずっと、私自身から、守って、いたもの。

「里香」

 類が、私を呼ぶ。聞きなれた、優しさと愛情に満ちた声。私は顔を上げなかった。先ほど投げた言葉への罪の意識のせいもあったけれど、一番大きな理由は、もっと自分本位なものだった。私はこの状況に、一人で耐えられると自分を信じることができなかった。ひどく心細かった。もし縋る相手がいるなら、すべてその相手に任せてしまいたかった。

 今類の顔の中に私への思いやりを見てしまったら、きっと私は類に、縋ってしまう。そんなのは、おかしい。でもそうなのだった。そして私は自分がそんな呆れた女であることを、今の今まで知らなかった。

「……僕のことが、嫌い?」

 その声からは、先ほどまでの触れたら血が出るような苦痛は、完全に拭われていた。いつもそうだ。私が弱くなると、類は強くなる。私のために、強くなるのだ。こんなときまでそうなのだ。類は、私にどんな種類の悪意も持たない。いつだって、いつだって、四歳のときからずっと、類は、完璧に、隅々まで優しいのだ。どこまでも。逃げ場がないぐらい。私はもう、類を恨むことなどできない。こんなに優しい人を、嫌い続けることなんて、できるわけがない。嫌いになりたいのに。本当に、顔さえ見たくないぐらい、嫌いになりたいのに。それができたら、こんなにいつまでも苦しまなくてすむのに。

 でも私は、頷いた。そうしたかったのではなく、そうするべきだと信じたから。こんなことはもう、終わりにするべきだった。

「……ごめん」

 類の声は、やっぱり優しかった。私は首を振る。謝らないで、という気持ちをこめて。

「里香は、正月には、やっぱり帰らない?」

 唐突なその問いに、私は一瞬だけ戸惑い、それからかちりと歯車が噛みあうように状況を理解した。混乱して、類がここにいる理由を考えていなかったけれど、そもそも、それがおかしなことだったのだ。私は類に住所を教えていない。誰か教えた人間がいるはずなのだ。まだ細く涙をこぼし続ける目元を乱暴にこすり、咳払いをして、尋ねる。

「……お母さん?」

「うん」

 当たっていた。私は首を振る。

「帰らない」

「うん。わかった。伝えておくね」

 私は首を振った。

「自分で言う……わざわざ、ごめん」

 どういうことか全てを理解できているわけではないけれど、母が類に頼んだのだということはわかった。おそらく、私が電話で適当にごまかしたことが原因なのだろう。いや、そうではなく、仮に私が類を拒絶したと伝えていても、母は同じように頼んだのかもしれない。母は私と類が結ばれることを望んでいる。「私のために」望んでいるのだ。それは不愉快な事実だったけれど、その不愉快は今の私の心にまでは届かなかった。固く閉じた扉にぶつかる雪のように、今は些細なことだった。すべてが些細なことだった。類だけが、今は重要だった。

「里香」

 その声の持つ何かの力に圧されて、私は顔を上げていた。そして類を見た瞬間、私は後悔した。見るべきではなかった。類は微笑んでいた。悲しげで、心細そうで、途方に暮れた様子で、でも微笑んでいた。雪の中で、青ざめた頬で微笑む類には、崇高な美しさがあった。その姿を見た誰もに悲しみを刻み込んでしまう、彫像のような、孤立した美しさ。私は唇を薄く開く。私と別れてからの四年、類はずっとそんな姿でいたのかもしれない。悲しみと孤独を凍らせた姿で。

 私たちは見つめ合う。結び付けられたように、視線を逸らすことができない。彫像のような姿のまま、ヘイゼルグリーンの瞳だけは暖かく揺らめいて、ありとあらゆる言葉を語っていた。すべて私のための、私だけを受け取り手として生まれる言葉だった。

 その悲しい彫像のような顔を、どうやって溶かせばいいのか、私は知っていた。私だけが、知っていた。

 類は唇を開いた。悲しげで、心細そうで、途方に暮れた様子のまま。

「愛してる」

 それは、求愛ではなかった。そこにあったのは、絶望だった。この先の生涯を孤独なまま歩むことへの、そして類自身にはそれをどうすることもできないことへの、絶望だった。私のほかには、誰にもどうにもできない孤独。

 私はかじかむ指で、落ちそうになる傘を握る。そのうちに類も、私なしで生きていく術を覚える。そう自分に言い聞かせようとするけれど、無駄だった。目の前の類が、その圧倒的な悲しみで、私の欺瞞を拒んでいた。

 今手を伸ばしてその頬に触れれば。たったそれだけでいい。それだけで私は類を幸福にできる。逆に、そうしないということは、類をその孤独の中に突き放すということだった。そして類は、一人では決してその孤独から這い上がれない。単純な二択で、それ以外の回答などありはしないのだ。

 私は両手で傘を、私を雪から守る傘を、握っていた。そしてその手は同時に、類を孤独へと投げ込んでいた。私がそうすることを選んだのだ。私は類に、何もしてあげられない。ずっと思っていたこと。嘘だった。私は類に、何もしてあげたくなかった。私が選んだのだ。

 私は類を、絶対に嫌いになれない。

 そして私は類を、愛していない。

「ごめんなさい」

 心から、そう言った。そんなものがあるのかわからないけれど、私の中の罪悪感と優しさをかき集めて、残らず類に差し出すように。

 類は悲し気に微笑んでいるだけだった。私の同情も謝罪も、彼には何の意味もないのだ。わかっていた。

 もう言いたいこともやるべきことも、一つしか残っていなかった。

「おやすみなさい」

 そう言うと、私は彼に背を向けた。そうやって、絶望した男を、雪の中に、置き去りにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る