第21話

 私と高木さんは、雪道を歩いている。もう遅いからと、家まで送ってもらっているのだ。

「クリスマスですからね」

 と高木さんは気軽に言って、私は好意をありがたく受け取ることにした。雪は少し勢いを弱めたけれどまだやむ気配はない。ささやかな雪片がきりもなく降って、ビニール傘を白く染めていく。高木さんはほとんど言葉を発しないで、白い道に足跡を残している。でも足取りにはいつもよりも楽しそうなリズムがある。私より先を歩いているのは、歩幅の問題ではなく、新雪に対する子供じみた独占欲のせいなのかもしれない。いや、もしかしたら送ってくれると言ったのだって、もっと雪道を歩きたいせいだったのかもしれない。そう思いついて、私は小さく笑ってしまう。冷たく濡れた空気が入って鼻がつんと痛む。

 でも私も高木さんの足跡を避けて歩いているのだから、人のことは何も言えない。

「そこ曲がったら、もううちです」

「へえ。俺この道初めて通りますよ」

「何もないですからね。家賃は安くて助かりますけど……」

 その先の言葉は、唇の上で凍りついた。靴底が、雪に沈む。

「西町さん?」

 怪訝な高木さんの声に答えたいけれど、言葉が思い浮かばない。思考も唇も視線も、凍りついている。足元から、冷気が染み込んでくる。寒い。

 類が、そこにいた。

 マンションの玄関を見張るように、類はそこに立っている。傘もささずに。コートのポケットに両手を突っ込んで、うつむきがちに立っている。栗色の髪にも、コートの肩にも、薄く雪が積もっている。一体いつからそこにいたんだろう。

 静かに類は顔を上げて、私の顔に、視線をぴたりと合わせる。二人の間の距離も、舞う雪もないかのように、私と類の視線はがちりと結びつけられてしまう。この距離で見えるわけもないのに、私の視界は類のヘイゼルグリーンに支配されてしまう。

 類。

「西町さん?」

 高木さんが問いかける。静かに、滑るように類の視線が、高木さんへと移る。なぜだろう。その瞬間、恐怖にぐっと内臓を握りこまれた。類は、降りかかった雪を払いもせずに、ゆっくりと雪を踏みにじりながら、私たちの方へと歩いてくる。いつもは淡く血の色を透かしている肌も、今は雪の白さが映ったかのように、色を亡くしている。

 怖い。この男は、何をするのか、わからない。

 何か言わなくては、と思うのに、私はただ間抜けに口を開いて、かじかんだ手で傘の柄を握っている。やめて。やめて。何をやめてほしいのかもわからないのに、私の頭の中はただその言葉であふれている。やめて。ごうごうと横向きの風に吹き散らされた雪が、私の身体にぶつかってくる。

「里香」

 と、類は私に呼びかける。けれど視線は高木さんから外れない。その目には、これまで見たこともないものがあった。

 違う。

 そうではない。その目には、何もなかった。いつも類の瞳に映っているもの全てまるごと、ないのだ。

 見てはいるのに、普通の人が他者に当然抱くような敬意や関心が、ごっそりと欠けていた。もしもそれが可能であれば、類は高木さんをつまんで、躊躇なくどこか目につかない場所に打ち捨ててしまうだろう。そこには敵意さえない。軽視、というよりも、ただの障害物を見るような、相手の人格に対する圧倒的な無関心。ヘイゼルグリーンの、二つの空虚がそこにあった。

「この人、誰」

 その問いは、いっそ無邪気に聞こえた。子供の頃に戻ったような。唇が寒さでこわばっているせいだ、と思いたい。高木さんは態度を決めかねるという様子で、私と類の双方に視線を投げかけている。私もどうにかこの状況を平静に処理したいけれど、どうすればいいのかわからない。類がどんな手を打つのかだけに、私と高木さんの関心は集中していた。類の行動を、二人で待っていた。そんな義理はないはずなのに。今この三人の場は、完全に類の支配下にあった。

「里香、この人、誰」

 幼いころの無邪気さのままで、類は尋ねる。

「……よくしてもらっているの」

 どう答えるのが適切なのかまるでわからないまま、私は類に言う。

「恋人?」

 何の屈託も、感情もない様子で、類は尋ねる。私の方は見ないまま。

「……違うけど」

「へえ」

 類がつい、と高木さんに近づいて、その顔を覗き込む。

「初めまして。佐倉類です」

 相変わらず瞳にどんな感情も宿さないまま、口調と物腰だけは紳士的に、類は言う。高木さんはその視線から逃れるように上体をわずかに引いて、眉間を強張らせる。

「はあ……初めまして」

 違和感と不快感を覚えてはいるけれど、それを口に出すほどの危害は加えられていないことが、むしろ居心地が悪い。そういう高木さんの逡巡が、私にはよくわかった。

「里香がよくしていただいているようで」

「いえ……こちらこそ」

「それで、里香とどういう関係なんですか?」

 雪の重みに耐えられずしなる枝のように、高木さんは一歩、後ずさった。雪が、ぎゅう、と高い音で軋んだ。類の目が細くなる。

「どういう関係なんですか?」

「知り合いですが」

「クリスマスイブを二人で過ごすのに?」

 踏み込みすぎだ。私は類に一歩近寄る。

「類」

 呼びかけると、類はひどくゆっくりと私の方を向いた。すう、と類の瞳の焦点が、私に合う。恐ろしくて傘を持たない手で自分の服の胸元を掴んでしまう。

「里香」

 類はくしゃり、と顔をゆがめた。苦しげなその顔に、私は見覚えがあった。全身に鳥肌が立つ。たらりと背中を自分のものじゃないような冷たい汗が伝い、私は震える。心の恐怖よりも、身体があの時の恐怖を、覚えていた。喉の奥まで、ぐうっと吐き気がこみ上げる。類が、怖かった。

「この男と付き合ってるの?」

 恐怖のあまり、否定も肯定もできずに、ただ震えていた。逃げ出したかったけれど、逃げ出すのも怖かった。でもそれを、類は肯定だと受け取ったようだった。青褪めた顔の中で、瞳だけがぎらぎらと苦痛に光っている。

「なんで僕じゃないんだ? この男のどこがいいんだ? 教えてくれよ、里香。君がしてほしいことは、なんでもする。なんでもする。なんでもするんだよ。君以外に大切なものなんて何もないんだ。君がほしいものは全部手に入れるし、君が嫌いなものは全部捨てる。君のためならなんでもする。どうしてわかってくれないんだ」

 どうしてわかってくれないんだ。

 その言葉を聞いた瞬間、恐怖に沈んだ感情の中で、かっと怒りが燃え上がった。頬に当たる雪が、溶けて涙のように頬を流れる。それでも頬の熱は冷めない。自分の身の安全なんてどうでもよくなるほどの、強烈で純粋な、怒りだった。

 どうしてわかってくれないんだ。

 類が、それを言うのか? 私のことなんか一度だってわかってくれなかったのに。あれだけ長くそばにいてあれだけ愛していると主張するのに、私をいろんなふうに追い詰めて、私の身体をむさぼって、未来までもほしがって、その中で一度だって私が本当にほしいものをくれなかった類が、それを言うのか? 散々私を苦しめたくせに。一度もそれには気づかなかったくせに。あれだけ惨めな思いをさせておいて、私からすべてを奪おうとしておいて、どうしてそんなことを言う。私は類に、そんな権利を認めない。絶対に、認めない。類のほしがるものなんて私にはわかっている。でも絶対にあげるものか。絶対に、絶対に、この男に私は、西町里香は渡さない。西町里香は、私のものだ。他の誰にだって、欠片だって渡すものか。ましてや類になんて。絶対に。絶対に。

「里香。教えてくれ。里香」

 類が、私の両肩をつかんで、苦痛にあえぐように言う。肩を握る指に力がこもっていて痛い。白くけぶる息が唇にかかる。その距離でヘイゼルグリーンの瞳を見ても、私の意識はひどく静かで、怒りだけが鮮やかだった。

 類なんか、苦しめばいい。いくらだって苦しめばいい。私と同じぐらい。いや、私よりももっともっと、苦しめばいい。私はこの男のために、どれだけの我慢を強いられただろう。ずっと抑え込んでいたもの、見ないようにしていたもの、全てが快哉を叫ぶようにして燃え上がる。

 出会ってから二十年以上が経って、私は初めて自分にそれを認めた。ずっと見ないようにしていたものを。

「類」

 その声は不思議に優しく響いた。高木さんを見ると、その瞳には困惑したような、微かに面白がっているような光があった。この人は類よりもずっと、私をわかっていてくれる。でも、と私は思う。別に高木さんが特別なわけではない。もうわかっていた。高木さんは、ごく当たり前の人間がすれ違う人間に与える程度の関心しか、私に持っていない。現実に、高木さんは類という脅威に向き合っている私を、助けてくれようとはしない。高木さんは高木さんの範囲を損なわない程度しか、私を助けてはくれない。

 でも私がほしいのは、ずっとほしかったのは、そういう関心なのだった。私を、西町里香というごく当たり前のひとりの人間に対する、ごく当たり前の関心。そんなものを、あの頃は誰もくれなかった。それが当たり前のことだとさえ知らなかった。私は類の、おまけ。それだけだった。誰もが私がその不釣合いな位置に、ぬくぬくと甘んじていると思っていた。類がほしいと言えば、私は躊躇いなく全てを差し出すべきだと。私が望んでその場所にいたのではないのに。そこにはいたくなかったのに。私は、そうだ。不幸だった。ずっと自分が、不幸だと感じていた。それなのに、そう感じることさえ恥じていた。

 ずっと見ないようにしていたものを、言葉にする。

 私が不幸だったのは全部、類のせいだ。

 類の瞳を、まっすぐに見つめる。ヘイゼルグリーンの瞳に浮かぶ、甘い期待。私がずっと応えてあげてきた、類の期待。

 反吐が出る。

「大嫌い。もう顔も見たくない」

 微笑んだまま私は言った。類の瞳の中の希望が、ゆっくりと凍り、砕けた。雪が解けるように、私の肩の手が、落ちていく。

 いい気味、だった。後ろめたさなんかはなく、残酷さへの喜びだけが満ちていた。ずっと、こうしたかったのだ。ずっとずっと、そうしてやりたかった。類がひとりで勝手に育てている私への思い入れを、全部ずたずたにしてやりたかった。思い知らせてやりたかった。何もかも全部、壊してやりたい。無茶苦茶にしてやりたい。傷つけてやりたい。全部、全部、全部、全部、全部!

「……里香?」

 類は壊れやすいものに触れたような、怯えた様子を見せている。どうして、と、思う前に、喉が震えて、私は気づいた。

 私は、泣いていた。

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