第20話

 食事と二、三杯のお酒と会話を楽しんでいるうちに、時計は十一時を差していた。入ってきたときには七時を過ぎた頃だった。時間は一体どこに行ってしまったのかといぶかしくなるぐらい、あっという間の出来事。大げさに言えば、夢のような時間だった。きっちり半分ずつお金を払うと、私と高木さんは連れだってお店を出た。

「わ」

「わ」

 二人とも声をあげて、顔を見合わせた。雪が、また降り出していた。灰色の視界を、白い斑点が隙間なく覆っている。雪は心なしか店に入ったときよりも厚みを増しているようだった。

「これはこれは」

 高木さんは感心したようにつぶやくと、肩をすくめた。軽い音を立てて軒先にいる私たちに雪がぶつかる。パーカーをたたいて雪を払うと、水分が多いのか簡単には払えない。

「天気予報では、夜は降らないはずだったんですけどね」

「イブだけじゃなくクリスマス当日も、ってことですかね。ありがたいじゃないですか」

 はしゃいだように高木さんはくすくす笑う。お酒の入っているせいか、私もつられてくすくす笑った。しばらくきっかけも忘れて笑いの中に溺れていたけれど、ふと高木さんは何かに気づいたように真顔になると、「ああ」と小さく呟いた。

「西町さんの家って、この近くですか」

「ここからだと歩いて三十分ぐらいですかね。ちょっと遠いです」

「俺の家すぐそこなんで、傘貸しますよ。さすがに三十分は、ないときつい」

 一瞬だけ迷って、頷いた。ここから私の知っているコンビニに行くのにも歩いて二十分はかかる。それも晴れた日に、だ。

「すみません」

「いや何。じゃ、行きますよ」

 言うが早いか、高木さんは雪の中に突っ込んでいった。え、と思っているうちに、どんどん背中が小さくなっていく。私も慌てて後を追った。スニーカーの下で、柔らかい雪が潰れる。顔に冷たい粒がばちばちと叩き付けられる。

 高木さんの住んでいるアパートは、確かにすぐ近くではあった。相当に古い、五階建てのアパート。雪の勢いはひどく、ついたころには髪や服はまだらに白くなっていた。屋根に辿りついた途端に慌てて払っても、溶けて冷たい水になったものがすでにしみこんでいた。髪の先から滴が落ちる。

 二人でエレベーターに乗る。タオルハンカチで髪の毛をぬぐっていると、高木さんは言いづらそうに口を開いた。

「あー……タオルぐらいなら貸しますよ。あとインスタントでよければコーヒーも出します」

 今度も私は一瞬だけ迷って、頷いた。一人の女としての常識と理性の上では高木さんを完璧に信頼している、というわけでもない。でも、なんだろう。感覚の上では完璧に信頼していて、そして高木さんといるときは、常識や理性よりも、感覚を大事にしたかった。私にとって、高木さんはそういう人だった。一緒にいる時間を存分に楽しみたい、好きな作家の新刊のような人。

「すみません。色々と」

「いいですよ。クリスマスに人に優しくしないと亡霊が来ますからね」

 子どものころに読んだ本を思い出してくすりと笑うと、高木さんも笑ってくれた。

 高木さんの部屋は、四階の奥だった。廊下の電灯はついているけれど、薄暗い。どうぞ、と玄関に招き入れられる。

「ちょっと待っててください。タオルとってきます」

「すみません」

 部屋の中に消える高木さんを、玄関に突っ立ったまま見送る。上着を脱いで、ほんの少しだけ温かみの残った手のひらを冷えた顔に押し当てる。セーターを通して皮膚にまといつく冷気に、肩がすくんだ。

「はい。粗末なタオルですが」

「いえいえ」

 渡されたバスタオルは確かに少しごわついていたけれど、過剰なぐらいに乾いた感触が今はありがたかった。高木さんは私の手の上着を受け取ってくれる。

「エアコンの下に干せば、多少は乾きますかね」

「すみません何から何まで」

「大したことはしてませんよ。上がってください」

「お邪魔します」

 短い廊下を抜けた先の部屋は、想像していたよりもずっと綺麗だった。八畳ぐらいのワンルーム。床は畳で、その上に薄いカーペットを敷いている。押入れもあった。あとはパソコンが乗った机に、小さなシングルベッド、それから壁一面を埋める本棚。整頓されているというよりもものが少なくて、住居というよりも仕事場に見える。それでも何となく、この部屋の素っ気なさは感じがよかった。高木さんはここで、過不足なく楽しく暮らしているのだろう、と想像できる。高木さんはエアコンの送風口の下のカーテンレールに私のマウンテンパーカーと、自分のダウンジャケットをかけて、エアコンをつけた。

「コーヒー淹れるんで、そこの椅子にでも座っててください」

「すみません」

 パソコン用のデスクの椅子以外に座る場所がなかったので、とりあえずそこに座った。目に入ったデスクの上のマウスパッドは、あられもない格好の女の子のイラストで、私は高木さんの職業を思い出す。でもぱっと見たところ、高木さんの職業を感じさせるものは、それぐらいしかなかった。本棚の中身は、背表紙から判断するにSFとミステリーが多いようだった。早川と、東京創元社。あと目立つのは何かの資料らしい大判の書籍と、何冊かの大きな辞書。立ち上って一つ一つの題名を確認したくなったけれど、さすがに我慢して、バスタオルで髪の毛の水分を押さえることに集中する。しんと冷えた部屋が、ふたりの体温とエアコンで少しずつぬくまっていく。電気ケトルでお湯を沸かす音がして、しばらくすると高木さんは部屋に入ってきた。

「どうぞ」

 真っ赤な、地の厚いカップをとん、とデスクに置いてくれる。そして、ベッドにけだるく腰かけた。

「ありがとうございます。高木さんの分は?」

 高木さんはひょいと肩をすくめた。

「後で飲みます。さっき気づいたんですけどこの部屋、二人でコーヒーを飲むには適してませんね。どうも」

 確かに私がこのデスクを占領したら、他の人はベッドか床に座るほかない。どちらもコーヒーを飲むのには不適切な姿勢だ。

「すみません。いただきます」

「はいどうぞ」

 コーヒーは唇が焼けそうに熱くて、口をつけた途端に内側から冷えた身体がぼうっと熱を戻した。美味しい。

「美味しい」

「西町さん、結構お手軽ですね」

「というと」

「やっすいインスタントですよ。仕事中にカフェイン摂取するために飲んでるようなコーヒー。そんなもん、客に出すなって話ですけど」

 それでも美味しいことに変わりはない。コーヒーの美味しさは、豆の種類とか、そういうことだけで決まるわけではない。

「私、お手軽に幸せになれるんです」

「それ、素晴らしい才能ですね」

 高木さんはいつものように、ごく当たり前の感じで、そう言った。私はあいまいに微笑んだ。カップから、いい匂いの湯気が立って、私の顔をふんわりと包んでいる。

 素晴らしい才能。

 そんなに嬉しいほめ言葉をもらったのは、初めてのような気がした。私は今までずっと、そう言ってくれる誰かを、探していたように思う。

 高木さんは断りなく、枕元に置いてあった文庫本を膝に置き、肩を丸めて読み始めた。その見慣れた姿勢を眺めて、私はぼんやりと、胸のうちにともった嬉しさを、愛でていた。この人がくれた、素敵な、今まで誰にもらったどんなものよりも嬉しい、クリスマスプレゼント。

 高木さんは私がそこにいることなど忘れた風情で、ただ本を読んでいる。その姿が、はっきりと、私に思い知らせる。

 高木さんは私に、関心が、ない。

 でもそれは私を悲しませるのではなく、安心させた。私たちは本当にたまたま、この部屋に二人でいるだけで、この人は私に特別な思い入れなど何もない。そして、さっきの言葉も、そういう距離から与えられたからこそ、こんなに嬉しいのだった。私だけを見ているわけではない人から、純粋な賞賛として与えられたものだから。

 私は熱いコーヒーを、ゆっくりと、無言で、飲んだ。それを飲んでいる間だけ、私はこの部屋にいることが許されている。二人とも自分の孤独に包まれて、相手の孤独を侵さないように、言葉を投げ合う。高木さんと一緒にいると、私はいつでも少し寂しい。安心で、居心地のいい、寂しさ。

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