第19話

 空は変わらず分厚い雲に覆われて、太陽の熱から雪を守っている。

 カフェのテーブルの上に置いた文庫本の表紙を撫でて、ガラス窓の向こうを見つめる。見慣れた町が、白いもので優しく包まれている。その上に重なる私の姿は、頬から耳が、内側から熱されて子供みたいに赤い。はしゃぎすぎたかもしれない。なんて言ったって、今年初めての雪だ。

 今朝は起きると、しん、と部屋の中が冷えていた。肌にそっとまといつくような冷気。車の音が遠かった。これは、と立ち上がって、カーテンを開く。

「わあ」

 窓を開けてベランダに出ると、ぼたぼたと大きな雪の粒が、髪に降りかかってきた。

「雪だー」

 夜の間に白く変じた世界に、ちいさな声で言う。顔がゆるんでしまう。私はこの年になっても、雪が降るのが好きだ。濡れた道路に雪の粒が落ちて白く染まってゆっくりゆっくり厚みを増していくのを見守るのは、飽きない。道路の状況とかそういう実際的な不自由は不自由として置いておいて、雪が積もる、という非日常は、それだけで私を楽しませてくれる。

 寒くなったので、部屋に戻る。暖房をつけて、顔を洗って、コーヒーを淹れた。少し開いたカーテンから、きりもなく落ちる雪が見えて、笑ってしまう。時間を確認するために携帯電話の表示を見て、気づく。

「あ」

 クリスマスイブだ。ホワイトクリスマスイブ。テレビもめったにつけないのですっかり忘れていたのだ。

「やっほー」

 何の予定もないしクリスマスにそこまで重視しない人間だけれど、今日が祝福された一日だという気がしてつぶやく。そんなにはしゃいでいる自分が面白くて、また笑う。

 コーヒーを飲み終わると着替えて、読みかけの本を鞄に入れた。今日は、少しだけ贅沢をしよう、と決めて、予定をあれこれ考える。何しろホワイトクリスマスイブだ。

 結局昼前に雪はやんでしまったけれど、私は新雪を踏み荒したり、雪だるまを作る子供を眺めたりと、ささやかに雪を楽しんだ。歩き回って疲れた体に、コーヒーの温かさがしみる。

 テーブルの上に置いた文庫本の表紙を撫でる。夕飯は、どうしよう。フライドチキンとか、ケーキとか、そういうものが食べたかったけれど、一人で列に並ぶのもちょっと気が引ける。適当に外食でもしようか。あんまり混んでなさそうなお店。

「あ」

 一軒、心当たりがあった。そうだ。あそこに行こう。もし入れなかったりお休みだったりしても、そのときはそのときで考えよう。

 一人でにんまりと笑って、私はコーヒーをもう一口啜った。


 高木さんは入ってきた私を見ると、一瞬だけ驚きをあらわにして、それから楽しそうに笑いかけてくれた。雪が降っているのに気付いた瞬間と同じぐらい、私はうれしくなる。夜に来たのは初めてだから、まさか高木さんがいるなんて思っていなかった。

「メリークリスマス、高木さん」

 声をかけると、高木さんはビールが半分ほど入ったグラスを持ち上げた。

「メリークリスマス。よかったら一緒にどうですか」

 ほのかに期待していたことを提案されて、ぱっと頬が熱くなる。

「いいんですか? じゃあ、失礼します」

 テーブルの上には突き出しらしいポテトサラダしか乗っていなかった。まだ来たばかりなのかもしれない。私は夜用のメニューを開いて尋ねる。

「高木さん何か頼みましたか?」

「いやまだビールだけ。食いたいもの適当に注文してください」

 私はとりあえずギネスを頼み、それからじっくりとメニューを読む。高木さんは映画に夢中だ。今日の映画は「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」だった。

 シーザーサラダと鳥の唐揚げとエビのアヒージョ、ナスとミートソースのパスタを注文する。高木さんは映画に視線を固定したまま頷いていた。異論はないのだろう。私も身体をひねって映画を見る。ひどく懐かしい感触があって、小学生のころに、類の家の大きなテレビで観たことを思い出す。クリスマスイブのお昼。まだ小さな流禰を私の膝にのせて、類と姉が隣にいた。あれはなあにと画面で動きがあるたびに流禰が尋ねるから、三人で好き勝手に説明してやった。理解よりも混乱を誘うような解説。そんなことも、あった。

 ギネスと突き出しが運ばれてきた。高木さんはこちらに向き直って、もう四分の一ほどに減ったグラスを持ち上げる。

「メリークリスマス」

「メリークリスマス」

 がつん、と思いのほか大きな音が立って、ギネスが波打つ。こぼさないように慌てて口をつける私を、高木さんは面白そうに眺めている。

「雪ですね」

「雪ですね」

 高木さんは頷く。その感じに、この人も雪を歓迎していることを読み取る。

「なんか、うれしくなっちゃって」

「俺もですよ。東京の十二月でこんなに積もるなんてね」

 うんうん、と私は頷く。

「降りだすと、俺なんかもうじっと見ちゃいますね。弱弱しい雪だと地面が濡れるだけだから、応援してしまう」

「私も」

 高木さんは少し照れくさそうに微笑んだ。

「それで嬉しくなって、ついでに仕事も片付いたところなんで、一人で飲みに来てしまった」

「飲みに来ることは、あんまり?」

「あんまりですね。前にも言いましたけど一日一食だし、たいして付き合いのある相手もいないし。今日は本当にたまたまです」

「そのたまたまにぶつかって、よかったです」

 高木さんはまたグラスを持ち上げた。もう指一本分ぐらいしかビールは残っていない。

「偶然に乾杯」

 私もグラスをそっと合わせた。グラスが立てる音は、私の笑い声に掻き消えた。

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