第18話
近所の公園で、「愛の旋律」を読んでいた。クリスティの別名義の作品だ。分厚いので先送りにしていたのだけれど、もうすぐ読書にもあまり時間が取れなくなりそうだから、借りてみた。じっくりとした話で、派手ではないけれど、予想がつかなくて面白い。
きりがいいところまで読んだので、一度鞄にしまう。指先がひえているので、首筋に押し当ててあたためる。ふう、と細く息を吐くと、白い線になって、乾いた空気に散っていく。冬がゆっくりと深まって、寒さに制限されることが増えてきた。寒いのはそこまで苦手でもないけれど、朝布団から出るのだけはなかなかにつらい。仕事を始めたときに大丈夫なように、最近は七時に起きているのだ。でも、まだ冷え切った空気の中で、あついコーヒーを飲んで指先と喉からあたたまっていくのは、なかなか素敵なことだ。
類のことは、やっぱり思い出してしまう。何時間もずっと、考え続けてしまうこともある。類とどうすればうまくやっていけるのかという自省に近いものもあるし、類の好意にぬくぬくとくるまれて、なんでもやってもらって、なんでも買ってもらえて、類をかわいがって、という生活を夢想してしまうこともある。馬鹿げた、下らない、恥ずかしい夢だけれど、おもちゃにするには悪くない夢だ。夢はきっと、そのぐらいがちょうどいい。現実では、素敵な洋服には値札がついているし、美味しくてサービスのいいレストランに行くためには相応の準備がいる。与えられる愛情にも、そのために消費されたカロリーがある。現実には、全てに重力がかかっている。一つを動かせば、他のものも一緒に動く。
類はきっと、そういう夢は見ない。そういう頭の働き方というものが本当には理解できないけれど、想像はできる。類は、私という概念を頭の中で動かすためには、現実の私が必要なのだ。可哀想な類。プライドも外聞も捨てて、私に哀願した類。というか、そんなものもともと持っていないのかもしれない。類は、私とはまるで違う。違いすぎる。
幼馴染だった、四歳から十六歳の間。恋人同士だった、十六歳から二十一歳の間。類はいつでも私が一番だった。他の誰にも親しまずに、ただ私のそばにいたがった。私のすべてを把握したがっていた。
小学生のころ、他の男子と何か少しでも話すと、必ず私に会話の内容を尋ねて、それから相手にも話しかけていた。今にして思えば、自分の知らない私の交友関係があるということに、我慢できなかったのだろう。相手が女子なら話しかけはしなかったけれど、何を話していたのだけは知りたがった。どうして女の子だったら話しかけないのか、それとなく聞いてみたことがある。返ってきた答えを今でも覚えている。
「里香は、僕が女の子に話しかけても平気なの?」
予想外だった。理解するまでに少し時間が必要だった。
類には私がそう見えていたのだ。まだ幼かった私は怒りを抑えきれずに、平気だよ、と類に吐き捨てた。類はごめん、と嬉しそうに笑っていた。私の怒りを、図星をつかれた照れ隠しだと思っていたのだ。
大学時代は、と思い出すと、気持ちが途端に硬くなる。大学は、とても楽しかった。もともとの志望校ではなかったけれど、勉強も、深くはないけれど気軽な人間関係も、高校よりもずっとしっくりときた。類の目が届かない日常。
でも私にとっての快適は、つまり類にとっての不快だということだった。類は、しょっちゅう駅二つ先にある私の大学に出入りするようになった。私の時間割を把握して、授業が終わって教室を出ると、類が立っているというのが日常茶飯事だった。そして、用事がなければ、類にそのまま連れ出されてしまうのだ。映画や食事や買い物に行くこともあったけれど、行先はたいてい類の家だった。うちに行こう、とあのきれいな顔で微笑まれると、いつも拒めなかった。人目に晒される屋外よりは、そちらのほうが気がまだ楽だったということもある。
中学生になった流禰は塾や部活で忙しく、帰りが遅かった。マリーさんはアトリエで、父親は仕事でほとんど不在。お手伝いさんも午前中で帰ってしまうので、平日の午後には、広い家にはたいてい誰もいなかった。
類の部屋に行って、最初はお茶を飲んだり、DVDを見たり、語学の予習をしたりするけれど、ほとんどの場合、結局は体をつなげてしまった。
類のセックスは、甲斐甲斐しくて、執拗で、情熱的で、飽きるということがなかった。初めの何回かは痛みで息もできなかったけれど、すぐに私の肉体は快楽を覚えて、手懐けられてしまった。多分、私は淫乱なのだ。誘われたら拒めなかった。類の長い指先で顎の下をくすぐられて、耳朶を唇に挟まれるだけで、私の身体は甘く溶けて抵抗することができなくなる。その先にある快楽をほしがって、類のなすがままになってしまう。類は、私の身体の貪欲さを喜んで、どんどん与えようとしていた。私はその全ての刺激を快楽に変換して、理性はただ今の自分の格好を認識させて私を羞恥に燃え上がらせるだけの役にしか立たなくなる。類の望むとおりの格好をして、類の言わせたがった言葉を口にした。
私は淫乱だ。でも、セックスは好きじゃなかった。全然好きじゃなかった。類に言ったところで笑って取り合わなかったけれど、でも本当に好きじゃなかったのだ。違う。大嫌いだった。類とのセックスは、苦痛だった。終わった後は、いつだって死にたかった。望まない格好で、望まない言葉を口にしなくてはいけない行為。私から私の身体を切り離す行為。私はいつだって、自分の身体の淫蕩さに凌辱されている気がした。苦しかった。
最後まで、わかってもらえなかったことがいくつもある。私がどういう人間なのか、あれだけ長い時間、誰よりも近くにいたのに、類は全然わかってなかった。類だけの責任ではないだろう。私自身も、よくわかっていなかった。ただただ違うと思っていただけで。でもあのころには、いつかはうまくいく日が来ると信じられた。金属が摩耗するように、日々の中で私も形を変えて、いずれきちんとうまく類とかみ合うようになるのだと。でも、人間変われる部分と、決して変わらない部分がある。私と類は、決定的に気が合わなかった。
気が合わない。本当に、ただそれだけだ。類は私が好きで、私も類が好きだった。でも、互いにまったく違うものをほしがっていた。一緒にいると、どちらかが折れるほかなくて、妥協するのはいつも私だった。そのうちに、私は自分が何を望んでいるのかもわからなくなった。類と一緒にいて何が楽しいのかも。それでも類は、幸せそうだった。自分の幸福を疑うことさえないようだった。
私の二十一歳の誕生日のことだった。三年生の三月のこと。フレンチのレストランに連れていかれて、ダイヤモンドの指輪を差し出された。大学を出たら、類は父親の会社に入って仕事を手伝うから、結婚してほしい、と言われた。私は呆然と、ダイヤモンドを眺めていた。大きな石は、ちらちらと目の奥を射るように光っていた。こんな幻みたいに美しいものを、自分の丸く太い指に嵌めるなんて、考えられない。こんなものほしくない。結婚もそうだ。そんなこと考えたこともなかった。まだ自分の人生をどうするのか、ぐずぐずと迷っていたい。差し出された指輪を嵌めるように、人生を固めたくなんかない。
まだ待ってほしい、と言葉を選んで答えると、類は意外そうにまつ毛をしばたいていた。
まだ、結婚とか、考えられない。
どうして?
就活も終わってないし。
僕は里香に、家にいてほしいんだけど。
私働きたい。
里香、やりたい仕事があったの?
そういうわけじゃないけど。
じゃあ、どうして。
類は心底不思議そうだった。なぜ私が頷かないのか、本当にわからないようだった。私は、そのとき怖くなった。本当に、怖くなった。ヘイゼルグリーンの瞳。その美しい円の中に、私の姿が歪んで納まっている。類は私の人生を、簡単に自分の人生に組み込めると信じているのだ。
どうにか了承しないまま家に帰った。少しすると、母と姉にプロポーズの話が伝わっていた。スーツを着て家を出るときに、母や姉がもの言いたげな顔をするようになった。
あちらのおうちも賛成してくれてるみたいだし、働かなくてもいいんじゃないの? あんたばりばり働くようなタイプじゃないんだし、家事の勉強でもしたほうがいいじゃない。
母にそう言われてしまったとき、自分がなんて答えたのか覚えていない。
ここは私の居場所じゃない。
そう思ったことだけは、はっきりと覚えている。家を出なくてはいけない。できるだけ早く、ここから離れないといけない。私は就職活動に、より熱心になった。家に帰る時間も、類と過ごす時間も減った。類は就職活動をしないから、私のやることに干渉ができなかった。表面上はそれまで通り穏やかだったけれど、内心は違うようだった。身体を重ねるとき、白い皮膚や眼差しの奥に、苛立ちが蟠っているのを肌で感じた。類のセックスは、より執拗になった。僕を愛してる? と、繋がったまま類が尋ねる。愛してる。と荒い息の隙間に、私は答える。愛していないと、言い切ることもできなかったから。愛。
しかし、愛とは何だろう。愛はそういう消去法で証明可能な存在なのだろうか。そして愛が、一体私に何をしてくれたのだろう。愛は、何の免罪符になるのだろう。愛しているなら、私はすべてを差し出すべきだったのだろうか。愛。私には、わからない。その言葉については、なにもわからない。あの頃も、今も、わからないままだ。おそらくこのまま、わからないままに死ぬのだろう。一人ぼっちで、自分で自分を抱きしめたまま。誰にも理解されず、誰のことも愛さずに、生きていくのだ。愛さず愛されない、孤独な生涯。
短く息を吐く。あたたまった手を首筋から離して、もう一度文庫本を鞄から取り出す。読書。散歩。些細なことでいいのだ。私には西町里香という女を楽しませる方法が、ちゃんとわかっている。就職先を得て、東京に来て、一人で暮らして、自分を養って、少しずつ学んでいったのだ。躊躇いながら、自分に歩く足があることさえわからない状態から、どうにかここまで一人で辿りついたのだ。これからもそうしていく。自分で自分を可愛がるだけの、孤独な生涯。
あの頃、私がほしかったのは、それだけなのだ。それだけあれば、何もいらない。何も、ほしくない。何も。何も。何も。何も、いらない。
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