第17話
類からの連絡は、今のところない。四年前と同じだった。今頃何をしているんだろう、大丈夫かな、と考えることもあるけれど、私にとって、類はもう遠い人だった。過去の人。思い返すことはあっても、触れることはない。
類の影が差さない生活は、身軽だ。ほんの少しの寂しさと後ろめたさに彩られた、身軽な孤独。
それから、いいことがあった。水道会社のエントリーが通って、面接をしたのだ。小さな会社だけれど、雰囲気はよさそうだった。面接してくれた人事の年輩の男性も、穏やかで上品な人だった。次の日の朝にその人から電話があって、年明けから働くことになった。契約社員で、給料は多くはないしボーナスもないけれど、私一人で暮らすには十分な額だ。一年経てば正社員登用の道もあるらしい。私のスペックから考えれば、悪くはない就職だ。無職生活を手放すのは名残惜しいけれど、そろそろ働かなくては生きていけない。出勤日まで、残り少ない日々を精々楽しむつもりだ。
母に電話で伝えると、契約社員であることには難色を示したけれど、一応のお祝いを言ってくれた。就職先が決まったんだから帰省しないかとも言われたけれど、まだ給料も入っていないし色々準備があるからと、断った。
「類君とはうまくやってるの?」
そう聞かれたときだけ、言葉に詰まった。
「それなりにね」
うまくやっている、という字義のあいまいさを利用して、濁しておいた。電話が切れると、ほっとした。もうしばらく電話を掛ける必要がないことにも。
「よかったですね」
木曜日、高木さんも祝福してくれた。
「図書館にあんまり来られなくなるのは、残念ですけど」
「こんな落伍者といつまでもつるんでたら社会復帰できなくなりますよ」
「はは。復帰に失敗したらまた仲良くしてください」
「いつでもどうぞ」
高木さんは軽く両手を広げた。
「そこに飛び込んだら私はまた無職と」
「そういうことですね」
鷹揚に頷く高木さんが面白くて笑ってしまう。笑う私に、心なしか得意げな顔をする。
高木さんのかぼちゃのカレーと、私のチキンとじゃがいものドリアが運ばれてくる。いつもの通り、会話もなく食べることに集中する。ドリアは焼きたてで、お皿の隅のチーズがまだふつふつと動いている。いいにおい。ジャガイモはほっくりとしていて、バターの風味が口の中に残る。幸せだ。
いつもの通り、高木さんは食べ終わって、映画を見ている。今日の映画はなんだかわからないけれど、ヨーロッパの映画だった。多分パリだ。カフェが舞台で、ヒロインがギャルソンの服装をしていて、可愛い。
「ごちそうさま」
熱いまま食べることに熱中して、口の中を軽くやけどしている。水を一口飲んで、冷えた舌でやけどのあたりをぺろりと舐める。もう一つ高木さんに教えることがあったのを思い出す。
「闘争、やめました」
その言葉に、高木さんはこちらに向き直り、軽く両眉を持ち上げる。
「やめたんですか」
頷く。
「勝負始まったら勝てないってわかってるから、やめてしまいました」
「戦略的撤退ですか」
的確な言い換えだ。
「始まったら消耗戦ですからね。私も、権力闘争からは引退したほうがいいかもしれません」
話の流れで口にしただけなのに、それが最適な気がしてきた。
私は、色恋沙汰に向いていない。そして、必要ともしていない。類以外に私を求める人間もそうそう現れないだろう。
「諦めるのはまだ早いかもしれませんよ」
「高木さんは二十二歳で引退でしょう?」
「結果的にそうなっただけで、そのときに「ああ俺はもう一生恋愛をしない」って決めたわけでもないですよ」
「いつ決めたんですか?」
高木さんは色の悪い指先でこん、と小さくこめかみを叩いた。
「いつかな。……ああ、まあ、二十四歳ぐらいですね。言いにくいんですけど」
「というと?」
「下品なこと言ってもいいですか」
高木さんはほんのりと恥じらいを乗せた唇で微笑んだ。
「どうぞ」
「いや、まあ、仕事してるときとかにね、エロいことを書くじゃないですか」
「はい」
「現実だとどうだったかなあって考えるんですけど、思い出せなくなってて」
「はあ」
「そのときに、なんでエロゲがこんなにあるのに現実でセックスしなくちゃなんないんだろうって考えて、あ、俺はもうこっちの住人なんだな、とね、深く実感しましたね」
はにかみながらも、高木さんはどこか誇らしげだった。高木さんは、高木さんの世界を持って、きちんとそこを統治している。そういう余裕があった。羨ましかった。
「確かにセックスって、なくてもいいようなものですからね」
私の言葉に高木さんはふっと笑った。しまった。言葉を間違えた。
「すみません」
「いや、」
高木さんは首を振る。
「俺、そういう考え方のほうが好きですよ。なんていうのかな、セックスに限らず、物事を重く考えすぎないほうが」
私は、小さく感動していた。高木さんは私の言いたいことを、ちゃんとわかってくれる。高木さんは飄々と言い添える。
「まあ、俺は性欲超強いですけどね」
私は噴き出した。高木さんは、いい。じわじわとその実感が広がっていく。私もそっちに行きたい。
「私、やっぱり引退することにします」
高木さんは優しく目を細めた。
「ようこそ」
左手は水のコップを持っているので、今度は右手だけを広げてくれた。その手に、私は手を合わせるふりをした。
「よろしくお願いします。先輩」
高木さんはまた軽く両眉をあげて、それからにやりと片頬で笑った。
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