第16話

 憂鬱を引きずりながらも、まっすぐ家に帰った。まだ日も暮れていない時間だ。類はもう家に帰っただろうか。

 敷きっぱなしの蒲団に上着も脱がないまま横になる。財布と携帯電話が重力に従って体にぶつかってくる。ポケットから携帯電話を取り出すと、手のひらの中でもてあそぶ。初めて手にしたものみたいに。

 連絡して、どうするつもりだったんだろう。

 一時間半前の自分の気持ちが定かではない。考えなどなかったのかもしれない。ただその場を去るために現在の私を人質にしただけで。

 それとも、本当はもっと決定的なことを言おうとしていたのかもしれない。この一時間半は、私のためじゃなく、類のための猶予だったのかもしれない。でも、わからない。

 類は本当に、どうして私が好きなんだろう。どうして私じゃなくちゃいけないんだろう。

 考えすぎて擦り切れてしまった疑問を、性懲りもなくまた取り出す。私はつまらない女だ。顔は地味だし、太っている。頭もよくない。性格もひねくれているし、可愛げもない。そして、類の喜ぶことをしてあげられない。何度考えても、一つの理由も見つけられない。結局、幼いころにたまたまそばにいただけ。偶然のいたずらなのだ。類は事故にあったのだ。

 さっさと私のことなんか忘れてしまえばいいのに。

 そう思いながら連絡を取ってしまって、会ってしまって、今も電話をしようとしている私が、たぶん一番類のためにならない。もうあきらめて、類の好きなようにさせてあげたい、という気持ちもないではない。どうしてそうすることが悪いのか、わからなくなることもある。類は優しい。私の望みはすべてかなえてくれるだろうし、嫌な話だけれど、買ってほしいと言えばなんでも買ってくれるだろう。昔も、何でもない日にもプレゼントをしょっちゅう送ってくれた。アクセサリー。服。靴。鞄。小物。お菓子。自分では買わないような、きらきらした、高価なものばかり。雑誌や買い物中に見かけて、可愛いなと思ったものを、さりげなく買って差し出してくれることも多かった。類は、私の喜びのためにはなんでもしてくれる。私が何かを望む前に。

 一人の人間としても、嫌いなところは一つもない。類の顔も、類の声も、類の物腰も、類の人となりも、好きだ。全部、好きだ。あんなに素敵な男はどこにもいない。わかっている。

 でも、私とは気が合わない。本当にそれだけなのだ。類のことは好きだけれど、類に愛されるのは、好きじゃない。居心地が、悪い。どうしようもないのだ。類には私のことがわからない。私を喜ばせようとしてくれるけれど、類には私の喜びが理解できないのだ。類のくれるきれいな箱に入った、わくわくするような素敵な贈り物。でも受け取った瞬間に、憧れは消えてしまう。私なんかに所有されてしまうと、そのものが持っていた輝きは褪せる。可愛いけれど私のような体型の女には似合わないワンピース。サイズは合っていても足が痛くなる靴。黄色味を帯びた私の肌には似合わない、澄んだ色のアクセサリー。

 そして、もらったものの一つ一つが、私の中に負債として積みあがっていく。喜ぶ顔が見たいんだ。そう笑う類には想像もつかないに違いない。私は喜ぶこともできない。知らないうちに積みあがっている、返すことのできない、好意の負債。

 それでも、もう二度と会わない、と決めることもできないでいる。もしかしたら三つめの道が、本当にただの幼馴染としてやっていく道があるんじゃないかと願ってしまう。私に都合のよすぎる願望。類が決してかなえてはくれない、たぶん類の能力にあまる私の望み。

 考えが定まらないまま、類の名前を呼び出して、えい、と電話をかけてしまう。コール音が響く間もなく、

「はい」

 と類の声がした。それだけで、私は悲しくなってしまう。

「帰ったよ」

「ごめん」

 ぶっきらぼうに告げた私の声に被せるように類が言う。

「本当にごめん。もう絶対にあんなことしない。本当にごめん」

 泣いているのかもしれない、と思った。そんなわけないけれど、そう疑ってしまうぐらい頼りない声だった。

「いいよ。別に。怒ってるわけじゃないから」

 許してしまえばまた同じだ、とわかっていても、簡単に許してしまう。もともと類に怒っていたわけではないのだ。類に限らず私は人にされたことで、めったに怒らない。優しいからではない。反対だ。他人のことで、深く心を揺らさない習慣がついているだけ。

「でももうしないでね」

「……うん。ごめん」

「それと、もう謝らないで」

「うん。ご」

「こら」

 類の笑う気配がした。私も笑ってしまう。通じ合っている感覚が心地よくて、いつもこんなふうだったらいいのに、と思ってしまう。弱っている類に優しくするのは、気分がいい。

 でも、類は弱くない。類を弱くするのは私の拒絶だけで、でも私が受け入れてしまえば類は強くなる。私にはとても太刀打ちできないぐらい、手が届かないぐらい、強くなってしまう。そして、皮膚の隅々まで類の配慮につつまれて、私は窒息しそうになるのだ。一緒にいると、ゆっくりゆっくり、私は息ができなくなっていく。そのうちに、私は耐えられなくなって、逃げ出してしまう。愛し愛されていると信じる類を突き放して。

 ああ、そうだ。繰り返しだ。私たちは何度だって、同じことの繰り返しなんだ。

 すとん、と急に、気持ちが納まるべき場所に納まったのを悟る。理不尽なタイミングだけれど、私はもうこれを逃がさない。もう同じことを繰り返したくない。

「ねえ、類」

 気味が悪いほど優しい声が出た。これから私が告げる事実で、類はどれだけうちのめされるだろう。

「なに?」

 私の声につられたのか、類の声も角が取れて甘い。この声も二度と聞くことがないのだろう。

「もう私達、会わないほうがいいと思う」

 幼児に言い聞かせるような優しい声と告げている言葉の落差が、グロテスクなぐらいだった。

「え?」

 無邪気な驚き。可愛くて、可哀想な類。私の大好きな類。

「会っていたって、あのとき、と、同じことの繰り返しになるだけだと思うから」

 あのとき、と口に出すとき、無理に押し込んだ記憶の蓋がわずかに開いて、身体の芯から震えた。あのときの感情は、まだ身体の中に残っている。腕をつかまれたあのときまで、思い出すこともなかった記憶。意識の端にも引っかからないように厳重に封鎖した場所で、でも消えることなく、ひっそりと腐って、耐え難い臭いを放っている。私はそれに、とても向き合うことなどできない。あの混乱。あの閉塞感。あの苦しみ。類を受け入れるということは、あの場所に向かって降りていくということだ。螺旋階段みたいに、何度も同じ所を通りながら、でもどんどん落ちていく。そしていずれ、一番底に辿りついてしまう。私にはもう、その階段が見えてしまっている。私と類には、それ以外のやり方はない。四年たっても、類も私も少しも成長できなかった。

「だから、もう、会わないでほしいの」

「……そんなに、僕が嫌い?」

 だから、そうじゃないのに。

 本当に類はものわかりが悪い。怒るよりもまず、悲しくなる。全然話が通じない。

「嫌いじゃないよ。そういう問題じゃないの」

「今日のことは本当に悪かった。絶対にもうあんなことしない。二度と断りなく触ったりしないから、会わないなんて言わないでほしい」

 声が震えている。本当に泣いているのかもしれなかった。風のようなかすかな音が、電波にのって耳の底をくすぐる。屋外にいるのか、と考えて、一つの可能性を思いつく。類はもしかしたら、ずっと公園にいたのかもしれない。帰ることもなくずっと公園で、私の電話を待っていたのかもしれない。可能性だと考えながらも、それが正解だとしか受け止められない。馬鹿みたいだ。いい年して、子供じゃないんだから。子供じゃない、くせに。

「お願いだから。なんでもするから、そんなこと言わないで」

 なんでもする。類は、嘘ばかりつく。

「そういうのは、もういいの。何もしてくれなくていいし、何もほしくないの。私は一人でやっていけるし、類にしてもらいたいことなんて何もないの」

 そう断言するのは、、空虚だった。でもその空虚は私の中にもともと存在していたものだ。私は類に、してほしいことなんて、なかった。少なくとも、現実に生きている二十六歳の佐倉類には、何も。

「知ってるよ」

 類が言う。

「……でも、僕は、里香がいないと何もできないんだよ。里香にもう会えないなら、死んだ方がましだ」

「そんなことないよ」

「そうなんだよ。この四年、毎日里香のことを考えて、どこにいても里香のことを探してた。里香にもう一度会って、謝って、やり直したかった。許されないかもしれないけど、それだけ考えてどうにか生きてたんだ」

 そんな告白をされても、心は動かなかった。だって、私には関知できない、類個人の思い込みだからだ。類が会いたかったのも、謝りたいのも、やり直したいのも、愛しているのも、現実にここにいる私ではなく、類の中に作り上げた物語の登場人物だからだ。私にも触れられない、西町里香という類の幻想の恋人。類は、その女だけを大切に抱いていればいい。勝手にやればいいのだ。私だって勝手にやる。

「でも私も、類にはもう何もしてあげられないの」

「そばにいてくれるだけ、も? それでも、だめなの?」

「……私がいなくても、類は大丈夫だよ」

「大丈夫なわけがない」

「大丈夫だよ。大丈夫だって思ってよ」

 どんなに苦しかったと言っても類も四年、生きてこられたのだ。恋の傷で人は死なない。代わりのいない人間などいない。人間なんて一人一人、そんなに違うものじゃない。誰を失ったって、人は生きていける。類には家族もいるし、愛してくれる人だっていくらでもいるだろう。類が小さなこだわりを捨てれば、私がいない穴なんてすぐに他のもので埋め合わせられる。

「……できないよ」

 それでも類が傷つくのは、傷ついていたいからだ。それはもう私の領分ではない。

「できるよ。できなくても、そうするべきだよ」

 平行線だ。私も類も折れない。今の私は折れない、のだけれど、類は折り方を知らないのだ。真っ直ぐ以外にはないと思っている。そんなはずないのに。私は何度だって、何度だって、折れたのに。もとがどんな線だったのかも忘れるぐらい、何度だって。類に、それができないはずがない。

「……お願いだ。里香。本当に、そんなこと言わないで」

 今類は、公園のどんなところにいるのだろう。どんな姿勢で、どんな顔でこれを言って、周りからどんな目で見られているのだろう。この人にはそれが気にならないのだろうか。そうなのだろう。類は、没頭の才能に溢れている。類には恋の外の世界なんか見えていない。私は、違う。没頭なんかできない。そして、演技を続けるのももうやめる。

「さよなら。風邪ひかないでね。じゃあ」

 それだけ言うと、電話を切った。沈黙がひっそりと鼓膜にしみこんでくる。パーカーとセーターとジーンズを脱いで、布団に潜って、自分の身体を抱える。目をつむる。自分の匂い。自分の体温。自分の感触。やわらかくてなめらかな肌。あたたかくて気持ちがいい。

 これだけでいい。恋人もプレゼントもほしくない。本当に、これだけ守れればいい。私はただ、じっと自分を抱きしめていたい。

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