第15話

 帰ったら連絡する、という約束が、喉のあたりにもやもやとわだかまっている。でも、まだ帰ったわけじゃない。そう言い聞かせて、私は窓の外を走る風景を眺める。電車に乗るのも、私は好きだ。動いている、という状態。定まっていない、ということ。学生のころはよく、用もないのに終点の駅まで乗っていた。私は永遠に電車の中にいたってかまわない。そんなことを空想する。どこかからどこかへ行く途中。すべてが保留されている期間。

 マウンテンパーカーの大きなポケットには、携帯電話と財布と鍵だけが入っている。電話は鳴らず、メールも来ない。類は何をしているのか考えてしまいそうになる思考を、無理に軌道修正する。

 電車内はほとんどの席が埋まっていて、ドアの付近に何人かの人が立っている程度の混み具合だ。休日なので、みんなどこかへ遊びに行くか、その帰りのように目に写る。正面の席で、大学生ぐらいの女の子が男の子の肩に凭れてぐっすりと眠っている。男の子は女の子の手を握って、自分はスマートフォンを見ている。車内の広告にはクリスマスの文字が溢れている。誰もがみんな、幸福そうだ。愛し愛されて、不安など入り込む隙間もない人たち。私以外の人たち、みんな。

 私は自分を守るように肘を抱える。私は孤独だ。否定できない。そして、その孤独は一つの状態ではなく、感情として私の中にある。つまり、私は今、寂しい。

 孤独で、寂しい。

 文庫本の持ち合わせがないので、肘を抱えて、背中を曲げて、孤独な自分を抱いている。目をつむって、電車の振動に鼓動を添わせる。頭の真ん中あたりに振動が届かない場所があって、そこから寂しさが放射されている。ゆっくりとした、寂しさ。私はひとりで、どうしようもなくひとりで、誰にもつながれていないという感覚。

 思い知ってしまう。

 孤独は、居心地がいい。


 マリーさんは、無口な人だった。庭の隅の小さな離れをアトリエにして、いつも絵を描いていた。それが趣味だったのか、仕事になっていたのか、よく知らない。けれど可能なかぎり、彼女はいつでもアトリエで絵を描いていたいと思っているようだった。ゆるく束ねた長い金の髪。考え深そうにひそめた金の眉。夏の葉っぱの色の瞳。まなざしに影ではなく、光を落とすような金のまつげ。化粧気のない肌は、深く窪んだ目の脇やこめかみがいつも青ざめていた。ゆったりとした服を着て、静かに筆を動かす。マリーさんは、彼女自身が一つの絵のようだった。

 類の家は大きくて、お手伝いさんやベビーシッターの人がいたので、マリーさんは世間一般の母親に比べれば、子供と接する時間は相当短かったように思う。流禰は女の子だからか性格のせいかそうでもなかったけれど、類はマリーさんの前では少し固くなっていた。

 私はマリーさんのことが、とても好きだった。ときたま、類が学校のことなどの用事があって一緒に遊べないときにも、私はマリーさんと、ついでに流禰に会いに、類の家に行った。マリーさんは私を見ると小さく笑って、頬っぺたを両手で撫でてくれた。マリーさんの手は大きく骨ばっていて、つめたかった。

 アトリエには描きおわった絵がごちゃごちゃと置いてあった。それ以外には何もない。一緒にいても、マリーさんと私は何を話すでもない。マリーさんはキャンバスの前から動かず、私はマリーさんの絵を一つ一つ眺めていた。マリーさんの絵。その大半が風景画だった。どこかの川らしきもの。アーチのある、緑と花に埋め尽くされた庭。マリーさんはそれらを写真やスケッチを見ることもなく、ただ自分の中のものを取り出すようにして描いていた。キャンバスの中は光に満ちていて、いつか見た夢みたいに懐かしく慕わしかった。私は何度でも、飽きずにマリーさんの絵を眺めた。アトリエの中では時間が止まっているようだった。

 たいてい、しばらくすると退屈した流禰がアトリエにやってくる。彼女はまずマリーさんに抱き付いて、抱き付いたまま「里香ちゃん」と私の名前を呼ぶ。流禰は油彩のにおいが苦手なので、三人でアトリエを出る。そして、お茶になる。天気が悪ければ居間で。天気がよければ庭のテーブルで。私と流禰ががちゃがちゃとおしゃべりをしながらテーブルをセッティングし、マリーさんが音も立てずに紅茶を淹れる。マリーさんはあまり家事をしない人だったけれど、紅茶を淹れるのは本当に上手だった。夕陽を溶かしたような、いい匂いの熱い飲みもの。

 お菓子をつまみながら飽きずに話す流禰と相槌を打つ私に、マリーさんは黙って微笑んでいる。ときどき、虫がテーブルに乗って、流禰が騒ぐ。マリーさんは微笑んだまま虫をつまんであたりの葉に帰してやる。私は流禰と笑い合う。流禰はマリーさんを誇らしそうに見つめる。陶器のようになめらかな曲線でできたちいさな顔を、綿菓子のような柔らかな髪が大切そうに包んでいる。頬にはお菓子の屑が、彼女が天使ではなく人間の女の子である証拠のようにくっついている。可愛くて快濶な流禰。私はこんな時間がいつまでも続けばいいのに、と願っている。ちいさな後ろめたさに気づかないふりをしながら、いつまでもマリーさんと流禰と三人でいられたらいいのに、と。

 日が沈む前に、お茶は終わる。帰ってきた類が、庭にやってくる。類はマリーさんとぎこちなく頬をつけあい、四人で黙って片付けをする。それが終わると、類は私の手をつかみ、しっかりと指と指を絡める。類と流禰と私の三人で、母屋へと帰っていく。マリーさんは微笑んで、私たちに手を振り、アトリエへと一人で帰っていく。夕陽に染めつけられた金の髪が、風にたなびいている。長い長い影が芝生に落ちる。マリーさんは振り向かない。私の気持ちは、手をつかまれている類のあたたかく大きな手ではなくて、マリーさんの背中にある。大好きなマリーさん。マリーさんは、本当は私のことをどう思っていたのだろう。もう確かめる機会などないだろう。謎を抱えた、うつくしい思い出。

 マリーさん。マリーさんの絵。アトリエ。庭のお茶。今では遠く感じる。もう二度と、会わないかもしれない人。触れることのできない、懐かしく慕わしい、いつか見た夢のような光景。記憶の中に完成した、数少ないうつくしい絵。

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