第11話
九時に起きた。私にしては早起きだけれど、類はとっくに起きて仕事をしているのだろう。類はあまり長い時間眠らないし、何しろきちんとした男だから。睫に目やにをつけて、ねばねばした苦い唾液を口中に湛えて、考える。カーテンの隙間から朝日が鋭く差し込んでいる。その白い清潔な光に対して、私の部屋は小さく、汚れてはいないけれど全てがだらしなく緩んでいる。類はきっと、私の部屋がこんなふうだとは想像していない。付き合っている頃は、類の視線を意識した部屋にしていた。今この部屋は私のためだけの、本当の私の部屋だ。そのだらしなさを知れば、類はどんな顔をするだろう。失望するだろうか。わからなかった。ただ、待っているのが失望だろうと寛容だろうとそれ以外の何かであろうと、そんなものを類には与えたくなかった。
同じページを何度も開いた本に癖がついてしまうように、心にも、癖がつく。読みたい頁ではないところが開いてしまう。私はこのごろ、類のことを考えすぎる。何しろ癖なので、一つも新しい場所に思考は伸びていかずに、同じところを何回も何回も這い回る。
その類とは、週末に会う約束をしてしまった。忸怩たる想いだ。やらないほうがいいとわかっていても、求められると流される。私はどうしようもない。類は私の弱い部分を、それとわからず的確についてくるのだ。
権力闘争。
そんな言葉が唐突に浮かぶ。一体どこからそんな言葉を引き出してきたのかと戸惑い、高木さんのことを思い出す。
恋愛って、権力闘争ですからね。
先週言われたときはぴんと来なかったけれど、今は少し、わかるような気がした。
今日は、木曜日だ。そのことも一緒に思い出す。高木さんに会える。
口元が自然に緩む。布団の中で一つ大きく伸びをして、気合を入れて起き上がる。私の前に、一日が優しく手を広げている気がした。
「権力闘争中です」
図書館を出て、前を歩く高木さんに言葉を投げる。公園で会ったときに進まないと言っていた仕事はもう片付いたそうで、言われてみればいつもよりも顔色がいいような気がする。微々たる差ではあるけれど。
「へえ」
高木さんは私を振り返り、面白そうに笑った。それだけで、また歩き出す。話はまた後でという意味だろう。私はその後ろを、早足でついていく。
「それで、権力闘争はどうですか」
店に入って高木さんはいつもの通りカレーを頼むと、ひょいとまたその話題を持ち出してくる。今日の映画は私にもわかった。ヒッチコックの「レベッカ」だ。私にとってはダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」と言ったほうがしっくりくるけれど。
「苦戦してます」
「口説かれてるんですか?」
一瞬迷って、素直に頷いた。
「もう一回会ってしまいました。それでもう一回会う約束もしてしまって」
「上手くいってるように聞こえますけど」
「上手くいきたくないんです」
なんだか鼻持ちならない言い草だなと自分で気付いて、言い添える。
「じゃあ断れって話ですよね。すみません」
「決めきれないんですか?」
「決めきれないっていうか、決めてはいると思うんですけど、話したりするとつい、流されちゃって。ぐだぐだです」
「好きにしたらいいじゃないですか。恋と戦争では全てが許されますよ」
「全てが」
「大人同士なんだし、気をもたせたらどうしようとか、相手に過剰に気を遣うこともないと思いますけどね」
大人同士。わからなくなって、小さく首を傾げた。滑稽な話だけれど、私は自分と類が大人だという意識がない。
そこで、高木さんのカレーが運ばれてきた。高木さんは小さく断ってスプーンを取り上げる。今日のカレーはほうれん草とチーズだった。おいしそう。私が頼んだ桜海老とキャベツのパスタもすぐに運ばれてくる。
私が食べ終わるころには、高木さんはいつも通り映画を凝視している。振り返ってみると、ちょうどクライマックスだった。私も不自然に体を捻ったまま最後まで見届ける。エンドロールが始まって少しすると、体を戻した。高木さんは、水を飲んでいる。
「高木さんは、権力闘争しないんですか」
「俺ですか?」
高木さんは眉をひょいっと持ち上げたあと、悪戯っぽく微笑んだ。
「俺はまあ、あれです。もう引退しました」
「もうですか」
と言ったあとで、高木さんの年齢を知らないことに気付いた。
「高木さんって、いくつなんですか」
「俺ですか? 二十七です」
「何歳で引退したんですか?」
「二十二ぐらいかな。恋愛といえるほどの恋愛したのって、そのときの一回だけなんですが」
「どんなもんでした?」
「どう、って、まあ、ねえ。どうもまともに闘争できなくて。こりゃ向いてないなと」
「具体的にはどういう」
高木さんのほうに身を乗り出しかけていることに気付き、背中を伸ばす。
「没頭できないんですよね。来るもの拒まず去るもの追わずってほど達観しているつもりはないんですけど、どうもそういう感じになってしまう」
あまり具体的でもないなと思ったが、これ以上のことを話してくれるつもりはないのだろう。
「追わなかったんですか」
「そういう気分になれなくてね。どうも。やる気なくなるというか、女性に必死になる自分っていうのがしっくり来ないんですよね。馬鹿馬鹿しくなってしまう」
「なるほど」
わかるともわからないともいえなくて、適当に相槌を打つ。
「恋愛って理不尽ですからね。没頭するか演技する才能がないと、ちょっと難しいですよ」
没頭するか演技するか。私もどちらの才能もない。類は、と考えて、少し笑う。類は、才能に溢れている。勿論没頭するほうの。
「私も没頭してみたいな。一回ぐらい」
そう漏らすと、高木さんは水のグラスを机に置いて、頷いた。
「本当にね」
いつものように飄々と笑っているその口元に、私はほんの僅かな寂しさを見つけてしまう。でもそれは、私の目の中にあるものが映っているのかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます