第10話

 お風呂から上ると、携帯に着信があった。電話だらけだ。案の定というか、類だった。かけなおそうかと思ったけれど、やめた。用があるならまたかけてくるだろう。謝っておきなさい、という母の言葉がよぎるが、黙殺する。類は、母が私達の再会を知っていることを把握しているのだろうか。把握していたとして、どうするだろう。私が物事をどんなふうに受け止める性質なのか、類はどこまで知っているのだろう。辿ってきた道筋や、ものの好み、形にできるものなら、類はほとんどなんでも、きっと物覚えが悪い私以上に私のことを知っている。でも私がどういう人間なのかということを、本当に知っているわけではない。

 このごろまた生活に、類が侵入してきている。一人でいても類の存在を感じる。息苦しい。

 類のことを否定的に感じてしまうのは、類のせいではない。私の問題だ。わかっている。類は優しい、本当に優しい男だ。もう会いたくない、連絡もしてほしくない、と言えば、類は従うだろう。言えなかったのに連絡が来て、煩わしいと思うのは、私が悪い。甘えている。

 髪を乾かして、本を捲りながらインスタントのコーヒーを飲んでいると、電話が鳴った。諦めて、出る。

「はい」

「ああ、里香、今大丈夫?」

「うん」

「さっきかけたんだけど、出なかったから。今、家?」

「うん。お風呂入ってた」

「お風呂、好きだね」

「そうかな」

 人から好きと言われるほど積極的にお風呂が好きというわけではない。面倒くさがりなので勤めていたときはほとんど毎日シャワーで済ませていたし、今もシャワーの日のほうが多い。

「そうだと思うよ」

 その言い方に、ひどく親密な空気があった。

 そこで、気付く。類は私達が肉体関係を持っていた頃の話をしているのだ、と。セックスの後、私はよく一人でお風呂に入った。一緒に入りたいと言う類を頑なに拒んで、お湯の中でぼんやりと、自分の輪郭を確かめていた。類はあの頃の話をしているのだ。

 会話の途切れた一瞬に、私は恐怖に似たものに、類は甘い記憶に落ち込んでいる。

「何か用事?」

 沈黙を長引かせたくなくて、尋ねる。

「何もないよ。ただ、声が聞きたくて」

 真っ向すぎて驚いた。

「聞かせたけど、もういい?」

 呆れて声に笑みが混じる。類は、冗談だと受け取ったようだ。

「意地悪だな」

「知らなかったの?」

「うん。覚えておくよ」

 話しているうちに、自然と言葉が親しく類の言葉と寄り添う。自転車の乗り方を忘れないように、類とのしゃべり方を、何年経っても覚えている。気持ちも身体も離れているけれど、言葉だけが、いつまでも親しい。戯れあう言葉にひっぱられてしまいそうで、私は強引に話題を移す。

「今日、お母さんから電話があった」

「お母さん? 里香の?」

 類の声が無防備に、柔らかくなった。類は昔からうちの母が好きだ。母に限らず、私の家が好きだ。みんな礼儀正しく綺麗な類に甘かったせいかもしれないけれど、類はともするとうちにいるときのほうが自分の家族といるときよりも力がぬけて、くつろいで見えるときもあった。

「うん」

 その無防備さに怯んで、言わずにすませようかと考える。もともと類のせいではないし、偶然の産物に過ぎない。でも、言わなければ似たような偶然は何度も起きるだろう。私達が再会したことで、私達の実家も近づいてしまったのだから。ちりちりと焼ける喉から、いやなものを吐き出す。

「流禰に会って、類と私のこと聞いたみたいなんだけど、母親にそういうこと、知られないようにしてほしいんだけど」

 攻撃的になりすぎないように気を遣いすぎたせいか、卑屈な、下から窺うような調子になった。一旦汚いものをくぐってぬるんだ水のような声を聞いていたくなくて、言葉足らずで切り上げてしまう。

「どういうこと?」

 類は察してはくれなかった。無防備なままでいる類に、私はもう、こんなことを言うことを悔やんでいた。でも今更なかったことにもできない。ぐったりとしながら説明する。

「あのね、類とこないだ会ったこととか、類の会社のこととか、流禰からうちのお母さんに伝わってるみたいなの」

「本当に?」

 類の声がたちまち低くなる。人を従わせることに慣れた素顔が垣間見える。私は反射的に萎縮して、顎から唇が強張る。でも何とか説明を続ける。

「二人とも悪気がないのはわかってるんだけど、そういうことあると、お母さんから色々言われちゃうから、あの、なるべく流禰にも、その……」

 適切な表現が出てこない。でもふられた、という露骨な表現を使いたくなかった。色恋沙汰など私達の間には起こっていないという体を装っていたかった。

「……何を話したとか、言わないでほしいんだけど」

 どうにか言い終わると、こめかみのあたりに汗をかいていた。

「……あいつ、そんなことしゃべったのか」

 抑えきれずに滲み出した怒りの気配に、私はぞっとする。過剰反応だとわかっていても、心臓が勝手に恐怖を覚える。

「あの、別に怒ってるとかそういうわけじゃないから……ただ、あんまり色々知られちゃうの、好きじゃなくって……」

 怯えのせいで、語尾に笑みが混じって、余計に卑屈になる。自分がどんどん小さく汚くなっていくのを思い知らされる。

「いや、僕が悪かったよ。本当にごめん」

「ううん。大丈夫」

 大丈夫と口にすると、最初から大丈夫じゃないことなどなかったような気がしてくる。

「大丈夫だよ」

 繰り返すと、母親のことなどどうでもよくなって、ただこの場を納めたいだけになってしまう。私の気持ちは、いつも場当たりで、あやふやだ。

「でも、ごめん。教えてくれてありがとう。流禰にも、ちゃんと言っておくよ」

 類の声に落ち着きが戻って、私の心も揺れなくなる。でもこれも一時的な静けさだと、自分でもわかっている。いつだって波風の立たないほうへ立たない方へと逃げて、気付けば意に沿わない場所にたどり着いてしまうのだ。

「ありがとう。……流禰、私のこと何か言ってた?」

「流禰? 里香にというか、僕には、あーだこーだ言ってたよ」

「あーだこーだ」

 ふっと、類が笑った気配がした。

「……未練がましいとかしつこいとかいい加減にしろとか、あーだこーだ言ってた」

「……手厳しいね」

「……あいつの言ってることのほうが、正解なのかもしれないけど」

 肯定も否定もできず、類の言葉を受け流す。でも、受け止めなかった類の意志が、私の中にふわふわと漂う。

「類は、お正月にはあっちに帰るの?」

「うん。正月ぐらいはね。里香は?」

「帰らない。お金ないし」

 ほんのひと時の沈黙を挟んで、類が言う。

「それなら僕と一緒に帰る? 車だから少し時間かかるかもしれないけど」

 そう来るか。笑いそうになる。ついさっきの注意を、類はどう消化しているのだろう。私の言葉は、類には上手く通じない。

「今帰っても、小言をもらうだけだから」

「……そんなに言われてるの?」

 仕事のことだけならまだましなんだけれど、とは言えない。

「たいしたことを言われるわけじゃないけど、私のほうが今、ちょっと過敏になってて、ちっちゃいこともいちいち気に病んじゃうから、落ち着くまでは帰りたくないの」

「……そっか」

 類の短い返事は、そのまま優しさと心配でできているかのようだった。でも、その優しさは私の中に届くことなく、地面に落ちて、散らばる。それが、苦しい。でもそれを受け止め続けることも、苦しい。わかっている。

「うん。ごめんね」

 その謝罪にも、私なりの優しさと心配を込めたつもりだった。でも、それが類には必要のないものだということも、わかっていた。

「ううん。そのうちに、一緒に帰れたらいいな」

 そう、と意志の見えない返事を送る。一緒に実家に帰る、そんな日が決して来なければいいと願うことを、類に伝えないのは、優しさになるのだろうか。

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