第9話

 類とは四歳からの付き合いだ。幼稚園で同じ組になったのが出会いだそうだが、私には当時の詳細な記憶はない。晩熟というか、四歳ではまだものごころもついていなかったのだ。ぼんやりとした、曖昧な印象だけの世界にいた。自分も他人も世界もいっしょくたの、原始的な世界の中に。どんなふうに出会ったという具体的なエピソードもなく、ただ気がつけば、類は隣にいた。父や母や姉と同じように、類という存在として当然のようにそこにあった。

 私達はすぐに仲良くなったのだと、母は言う。同じ年の男の子と女の子。私のアルバムは、半分類のアルバムのようなものだ。姉よりもずっとたくさん写っている。市松人形のように重たい黒髪を垂らした、はちきれそうな赤い頬の女の子と、明るい栗色の巻き毛を首筋まで伸ばした天使のように愛らしい男の子。背景は変わってもたいていの写真で私は不安げな、今にも泣き出しそうな表情でカメラを見つめ、類はカメラではなく私を見ている。微笑ましいといえないこともないけれど、奇妙な取り合わせだ。

 考えるに、私達が仲良くなったのにはいくつかわかりやすい理由がある。まず、家が近かったこと。そして二人とも、幼稚園には年中から入ったということ。私は誕生日が三月で発育もよくなかったため。類の理由は、よくわからない。それから二人とも、言葉があまり上手ではなかった。私は単に発育がよくなかったから。類は母親のマリーさんが、日本語をほとんどしゃべれなかったためだった。そして類は、外見から明らかに他の子供たちとは異質だった。大人の目からは天使のように愛らしくとも、幼稚園児にそんな美的概念はなく、ただ親しみのないものでしかなかった。私達は二人とも、他の子供達の連携からなんとはなしに疎外されていた。私は劣っていたからで、類は異なっていたから。理由は違っても、二人とも周囲に上手く馴染めなかった。こっそりと隅のほうで身を寄せ合って、他の子供の喧騒を避けていた。それで四歳の私は平気だった。私は類が好きだった。類も私が好きだった。そのころの世界はとても簡単だった。足りないものはなかった。

 年長になると、溜まっていたものがぽんと弾けるように、私にもものごころがついた。親や先生の指示や周りの子供達が何を言いたいのか、それまでわからなかった外の世界のことが、急に明瞭に把握できるようになった。他の子供たちから、自分が外れていることにも気付いた。外れていることは不安で、恥ずかしかった。でももう他の連帯に入っていくことは出来なかった。類がいた。類は、私が他の子供と話そうとすると、それだけで泣いた。

 江戸川乱歩の小説に出て来る双子みたいだ。作り物のシャム双生児。男女の子供を攫ってきて、皮膚を削いで、腰のところでくっつける。私と類は、そんなふうにくっついていた。私の知らないうちに、そうなっていたのだった。

 それが嫌だったわけではない。幼い私は、類が可愛かった。弱い類。小さな類。私に全てを委ねている類。可愛くて、可愛くて、私は類を可愛がった。私が傍にいさえすれば、類はいつでも満足のようだった。今よりもずっと淡い、芽生えたばかりのやわい葉っぱの色の目をした私の男の子。

 その時期類は妹が産まれるので、私の家に頻繁に預けられていた。その間は母も姉も優しいので、類が泊まるのは私も嬉しかった。一緒にお風呂に入り、一緒のベッドでくっついて眠った。眠れないと類が言えば、頭をなでてあげたり、お布団の中でずっと囁き合っていた。

 その日が来て、一緒に行った病院で会わせてもらった生まれたばかりの赤ん坊も、可愛かった。ちいさくて柔らかないのち。赤ん坊を抱くマリーさんは疲れてはいたけれど美しくて、私に「ありがとう」と言ってくれた。類の面倒を見てくれてありがとう。私は得意になって笑い、類の手を握った。あの頃は幸福だった。幸福という言葉さえしらなかったけれど。遠い話だ。

 小学校に入ると、事情は変わった。いつの間にか、類は私の背を越して、泣かなくなっていた。長く伸ばしていた髪も切り、日本語も自然に話せるようになった。勉強も運動もなんでも得意だった。女の子たちは類の綺麗な顔立ちと、他の男の子にはない優しい物腰に惹かれるようになった。類は有象無象の小学生たちの中で、特別な男の子になった。別のクラスや学年の女の子が見に来るような男の子。

 私は? 私はぼんやりとした鈍い子供だった。類以外の子供と話すのが苦手で、ひっこみじあんで、勉強は普通だったけれど図工も音楽も運動も、特に運動がとても苦手だった。取り立ててかわいい顔も持っていなく、手足はむくむくと太かった。

 それでも私達はくっついていた。腰の高さはもう合わないのに、無理矢理にくっついていた。小学校と中学校は同じ校区だったけれど、高校も同じところに行った。類のほうがずっと勉強が出来たのに、私と同じところを受けると言い張ったので、私が折れた。三年の夏から無茶苦茶に勉強をしてレベルを上げて、近くでは一番偏差値の高いところを受けた。

 私には相変わらず、女の子の友達が出来なかった。いじめられていたわけではないが、私ははっきりと、意志を持って、疎外されていた。馴染めないのではない。弾かれていた。類にも友達はいなかった。誰とも親しく丁寧に言葉を交わすけれど、誰とも積極的に一緒にいようとはしていなかった。どれだけ変わっても、類はいつまでも小さく弱い傷つきやすい目をしたあの頃と、やっぱり変わってはいなかった。だから私も、類には変わらずにいてあげなくてはいけない、と感じていた。類を悲しませてはいけないと。私にも類にも、お互いしかいなかった。類は外を弾き、私は外から弾かれていたという違いはあれど。

 高校に受かったことは、類はともかく私には奇跡的だった。合格発表は私と類と私の母の三人で行った。帰りに三人でピザを食べているときに、母は類君にお礼を言いなさいと言い、私は類に「ありがとう」と言った。類は嬉しそうにしていた。でも私は、高校に受からなければよかったと思っていた。気持ちが重かった。今まで通りにすれば勉強についていけないし、ついていくために頑張るのも面倒だった。そんなモチベーションはなかった。それに類がいる限り、女の子の友達をつくることは出来ないだろう。実際、友達といえるほどの仲の相手は、出来なかった。高校時代に、楽しいことはほとんどなかった。

 誰も私にひどいことをしたというわけではない。私も特別不幸だったというわけではない。でも、息苦しかった。いつもいつも、息苦しかった。一つ一つの行動を、いつも誰かに監視され、評価されているという観念から自由になれなかった。

 きっとそんなことを、類は知らない。知るはずもない。知られたく、なかった。


 夕飯はグリルで焼いた鳥と葱を入れたうどんだ。すった生姜も入れた。料理は得意ではないけれど、好きだ。人に作るとまた煩わしいことが出てくるのだろうけれど。自分で作る分には適当でも雑でもいいし、好きなふうにできる。うどんは美味しかった。食べ終わったら、インターネットで転職サイトを見て、一件エントリーをした。水道の会社の事務。お風呂にお湯を溜める。その間は読み終わった「ナイルに死す」を、今度は気に入った部分だけ読み返す。

 お風呂にはバスソルトを入れた。黄色く染まった、優しい匂いのやわらかいお湯に、ゆっくりと浸かる。脹脛を撫で、太ももを撫で、二の腕の内側をつまむ。柔らかい。膝を抱える。額から、水滴が胸元に滴り、淡い筋を作って水面に溶け込んだ。太ももに胸を押し付け、変形して上に逃げる白い肉に顎と頬を押し付ける。柔らかくて、あたたかくて、気持ちがいい。私は私の身体が、やっぱり好きだ。この大きさ。この形。これはこれで、一つの完璧だと感じる。私の心に、私の体。一致している。目を閉じ、そのままじっとしている。

 私を私が包む。その私をお湯が包む。一人ぼっちだ。それを感じる。でも寂しくはない。寂しいという気持ちが、私にはよくわからない。今でも私には友達といえる仲の人はいない。大学時代も、勤めてからも、会えば親しく言葉を交わす人はたくさんいたけれど、誰とも二人きりで会ったり、悩みを打ち明けたりはしなかった。それを寂しいとは思わない。人間が嫌いというわけでもない。嫌いではない相手と会って話せば、楽しい。でも必要なものではない。楽しくなるのに、他人は必要ない。私には誰も必要ではない。

 私に必要なのは、私だけだ。それが強さなのか弱さなのか、知らない。どちらでもいい。それは他人が決めることだ。

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