第8話
目を覚ますと部屋の明るさがいつもの目覚めとは違って、一瞬ここがどこなのかわからなかった。顔に掛かる髪の毛を払って、母の電話の後そのまま眠ってしまったことを思い出す。
「くそっ」
何に向けてか自分でもわからない悪態を吐く。携帯の時間を見ると14時半だった。
「おなかすいた」
呟いて布団から這い出す。四つんばいで移動して冷蔵庫の中を見る。食べられそうなものは卵と納豆と豆腐。冷凍庫には冷凍したご飯に、うどん玉と冷凍パスタと冷凍チャーハン。食べたくないわけではないけれど、食べたいものはここにはない。
「あーあ」
とりあえず野菜ジュースをコップに一杯飲む。母親との会話の気配がこの部屋に残っているようで、長くここにいたくない。
服を着替えて、鞄に本を入れる。一度外の空気が吸いたかった。
これもいやなことから逃げているということになるのだろうか。
母の考え方を、ついなぞろうとしてしまう。
「馬鹿じゃないの」
声を出して、気分を引き戻そうとする。
いつものように電車に乗ろうかと思ったけれど、日が暮れるまでに二時間ほどしかないので、近所の公園に行くことにした。途中のパン屋で、ベーコンエピとあんぱんとパックの緑茶を買った。
公園はかなり広く、グラウンドやテニスコート、アスレチックに日本庭園まである。ジョギングをしているお年寄りや、グラウンドでサッカーをしている子供が目に入る。サッカーというよりも、ボール遊びと言ったほうが近いかもしれない。秩序立ってない、単純な球蹴り。クラブなどではなくただの遊び仲間なのだろう。みんな小学校に上ったかどうかという年齢の、男の子だ。女の子は一人もいない。土ぼこりと掛け声を立てて、拙い攻防に熱中している。
遠い記憶、それまで仕舞い込んで忘れかけていたことを、唐突に私は思い出す。ボールと側溝のことを。小学校に上ったばかりの頃だった。二つ上の姉と共用していたボールを、家の前の道路で類と蹴り合っていた。目的もなく、言葉の変わりにボールをやり取りしていただけの平和なものだったけれど、あの頃にはお気に入りの遊びだった。私がしたいと言えば、類は何でも機嫌よく付き合ってくれていた。ある日、ボールが道路の側溝に落ち、そのまま転がって、コンクリートの蓋で閉じた部分に入ってしまった。分厚い蓋は子供の力ではとても持ち上がらなくて、閉じた部分は途中で曲がっていたので手近な棒で押してボールを取り出すということも出来なかった。ボールをなくしたことを母や姉に責められることを想像して、私は泣き出した。すると、類は側溝の中にもぐりこんで、泥だらけになってボールをとってきてくれた。子供の目にも小さな側溝に、類が入っていくのは、怖かった。類が途中でつっかえたりしたら死んでしまうと思ったのだ。私はますます泣き喚いた。類が出て来てボールを返してくれたときには、嬉しかったのだろうか。覚えていない。とにかく私は、類にそんなことをさせたことで、おそらくボールをなくした以上に、母にひどく怒られた。当たり前だ。だがそのことを、類には言えなかった。ただボールで遊ぶのはその日以来やめた。類には何度かボールで遊ばないのかと尋ねられた。私は何も言えずにかたくなに首を振った。
昔の話だ。遠い、もう二十五歳の無職の女である私とは何のかかわりもないように感じる記憶。
グラウンドの脇を通り、蔦が絡んだアーチや、背の低い常緑樹がある区域に入っていく。寒さに乾いた緑の中に、さざんかの花の赤がぽつんぽつんとみずみずしく滴っている。
一周ぐるりと歩いて、ちょっとした池のほとりにあるベンチに腰掛ける。ジーンズを通して感じる、冷えた木の感触に、肩に力が入る。
「さむ」
外なのについ声に出してしまう。恥ずかしい。あたりには誰もいない。
歩いたことで体温が上っているので、マウンテンパーカーの前を開ける。乱れた髪を耳にかける。少し汗ばんだ額と髪をさらさらと乾いた空気が撫でてくれる。
目の前の池の水は暗い色をしている。丸々と太った鯉が、緩慢に泳いでいる。二種類くらい水鳥もいる。「魚や鳥にえさを与えないでください」という看板を横目に、私は抱えていたビニール袋からベーコンエピを出して、かぶりつく。
乱暴に硬いパンを齧り取るように食べ終わると、緑茶を飲んだ。思いのほかおなかにたまったので、あんぱんは持ち帰ろうと鞄にしまった。
「楽しいな」
小さく呟く。二羽の水鳥が、互いの羽根をつつきあっている。意識的に、私は微笑んでみる。水から立つ湿気を含んだ風が、顔をくるむ。
楽しいな。
心からそう思っていた。楽しくなるのは、私のようにいい加減な人間には簡単なことなのだ。公園でパンを食べて、鳥を見て笑うだけでいい。私にとっての幸福なんて、それだけのことなのだ。今の私には。
以前には、そうではなかった。幸福になることは、ひどく難しかった。不幸でもなかったけれど、何が欲しくて何がしたいのか、自分でもわからなくなっていた。いつだって、何を感じるにも、誰かの許しを乞わないといけないようで。記憶が、グラウンドの子供達や、母の電話や、類のこと、様々な記憶が一まとめになって、私を気持ちを乱す。首を振る。今は、そんなことを考えたくない。
パーカーの前を閉めて、背中を丸めて、文庫本を取り出す。「ナイルに死す」は、そろそろ佳境だ。本を読むのに最適な環境とは言いがたいけれど、没頭する。クリスティはすごい作家だな、と思う。だって面白い。人を面白がらせることができる人は、すごい人だ。そういう当たり前のことの意味が、年を取るとわかってくる。それもまた、楽しいことだと思う。世界がどういうふうなのか知っていくこと。自分がどういう人間なのかを知っていくこと。
すっかり没頭していたので、
「こんにちは」
と声をかけられたとき、私は本当に一センチぐらいベンチから飛び上がった。お尻の骨が痛い。呆然と見上げる私に、高木さんは面白そうに笑った。
「驚くべき驚きようっすね」
「一時間ぐらいは寿命が縮みました。多分」
「はは。申し訳ない」
笑ったまま、私の隣を指差した。
「いいですか? そこ」
「あ、どうぞ」
ぎりぎり一人座れるぐらいの間を空けて、高木さんはベンチに座る。声は届くけれど、体温は届かない距離。私の手の本を見る。
「クリスティですか」
「はい。面白いです」
「好きですね、クリスティ。俺も好きですけど。ナイルは映画もよかったですよ」
私はただ微笑んだ。膝に本を置く。高木さんは、答えがなくても気に留めない。
「散歩ですか?」
「はい。高木さんは?」
「俺もです。仕事がね、なかなか進まなくて」
「忙しいんですか?」
「いや、そんなには忙しくないです。俺、我儘だから。あんまり仕事受けないんで」
「我儘通るって、優秀なんですね」
「いや、俺くっそ貧乏ですよ」
「くっそ貧乏」
響きが面白くて繰り返す。高木さんは頷いた。
「貯金もないし、基本一日一食ですよ。身体壊したら即死にますね」
「一日一食?」
じろじろとその痩せた身体を眺め回してしまう。いつも顔色が悪いのはそのせいだろうか。不安になる私に、高木さんは笑う。
「大丈夫ですよ。もともとそんな食うほうじゃないし。飢えではなかなか死なないってビクトール・ユゴーも言ってますよ」
笑ってしまう。私は鞄から紙袋を取り出した。
「あんぱんいりますか?」
「いや、大丈夫ですよ。これ西町さんのおやつでしょ」
「でもあげます。施しものです」
ふざけて押し付けると
「ありがたいことです」
と両手を合わせてから受け取ってくれた。
「これでパン盗まずにすみました」
そう言って、そのまま袋を開けて、パンを食べ始めた。それを見ながら、高木さんは「レ・ミゼラブル」のことを言っているのだとようやく気付いた。パンをあげたとき、私にそんなつもりはなかったのだけれど。遅れてひっそりと笑う。
あっという間にあんぱんは高木さんの喉を通って行く。取っておいたビニール袋を差し出すと、高木さんはあんぱんの紙袋をそこに入れた。がさがさとゴミ袋になったそれを振って尋ねる。
「捨ててきていいですかこれ」
「はい」
ゴミ箱は公園の入り口の付近にしかないから、捨てようにもけっこうな距離を行き来しなくては行けない。高木さんは身軽に立ち上がると、その方に去っていった。私は膝に置いた本をまた読み始める。もう犯人までわかっている。
「ただいま帰りました」
高木さんが帰って来たときには、もうポアロは全部の説明を終わっていた。残りはもうほんの少しだ。
「おかえりなさい」
読み終えてしまいたい気持ちを抑えて本を閉じる。高木さんは微笑んで、ベンチに腰を下す。
「泣いてるのかと思いました」
そんなことを言う。
「泣いてる? 誰が?」
「西町さんが」
言われていることがよくわからなくて、首を傾げる。
「泣いてたから」
「え、いつ」
そんな覚えはない。高木さんは思い出し笑いをする。
「知り合う前は、いつも本読んで泣いてる女の子だと思ってました」
意味がわかった途端、顔が赤くなった。言葉が出ない。
本でも映画でも、物語を消費しているとき、私はすぐに泣いてしまう。立ち読みでも、電車での移動中でも、図書館でも、人目があるとわかっていても我慢が出来ないのだ。昔はなるべく泣きそうな本は人前で読まないように気をつけていたけれど、今はもうどうせ私のことなど見ていないと開き直ってよほどのことでもない限りどこでも読んでいる。まさか図書館で注視されているなんて。
高木さんはうろたえる私に目元を緩め、ダウンのポケットから取り出した何かを差し出した。
「すみません。これ、あげます」
受け取る。缶のミルクティーだった。予想よりも熱くて、冷え切った手のひらが、じん、とした。喉の奥、心臓に近い部分も、一緒にじん、と熱くなった。
「ありがとうございます」
礼を言う私の声は小さかった。熱い缶を、両手で包む。熱い。でも熱を逃がしたくなかった。もったいなくて。
嬉しい。
ゆっくりと、実感する。高木さんにミルクティーをもらって、嬉しかった。
「嬉しいです」
じわじわと喜びが、頬を温める。私の顔はきっと今、とても赤い。こんなふうに嬉しく赤面するなんて、本当に何年ぶりだろう。
「そりゃよかったです」
高木さんの返事は軽い。ふふ、と私は笑う。高木さんは別のポケットから缶コーヒーを出して、空けた。私はまだ缶をただ包んでいる。身体に押し付けると、服をくぐって和らいだ熱が胸元を温めてくれた。
「私、普段はほとんど泣かないですよ」
言い訳がましいけれど、本当のことだった。もうずっと昔から、私が泣くのは、自分に関係ないことだけだ。自分のことを、そういうふうにしてしまった。
「そんな感じですね。話す前はもっと弱弱しい女の子かと思ってました」
「ふてぶてしい女ですよ私は」
「ふてぶてしいというか、関心が薄いですよね。物事に対する」
図星をつかれて、地面を弱く蹴る。高木さんは慧眼だ。それか、私と見ているものが似ている。
「私、」
「はい」
「自分が一番好きですから」
こんなことを話す自分が不思議だった。そして、怖くなる。もし高木さんに非難されたら、私は傷つく。
「普通そうでしょう」
でも高木さんは、ごく軽く言った。高木さんの答えはいつも軽い。いつだって私の言葉は深刻に受け止められない。でも粗末に扱われるというわけではない。声は届くけれど、体温は届かない距離にいる人。
「そうですか」
「まあ少なくとも俺はそうですね。仕事のこととか親に色々言われて申し訳ないって思うこともありますけど、でも申し訳ないって思うだけですね。思うだけ」
「思うだけ」
繰り返す。
「申し訳ない申し訳ないって思って、でも何も出来ませんね。誰に何言ってもらったって、結局俺の尻は俺が拭くしかないわけだし」
「人が拭いてくれるって言ったら、どうします?」
高木さんは間髪いれずに答えた。
「気色悪い」
私は噴き出してしまった。高木さんも一緒に笑う。
「ごめんなさい。変なこと聞いて」
「いいですよ。どんどん聞いてください。変なこと」
「木曜までに考えておきます」
「じゃあ、俺も覚悟しておきますよ」
高木さんは立ち上がる。
「そろそろ行きます」
「はい。じゃあまた」
「また」
高木さんが去っていく。ダウンのコートから突き出したひょろ長い脚。ひどい猫背。私はミルクティーの缶を、頬に押し当てる。温かい。気持ちいい。
「ナイルに死す」を読み終わると、ぬるいミルクティを飲んだ。ゆっくりと、一口一口きちんと味わいながら。久しぶりのミルクティは想像よりもずっと甘くて、本当に甘くて、美味しかった。
飲み終わったら、日差しは金色に染まっていた。空の缶を持ってベンチから立ち上がり、入り口まで歩く。自動販売機の横にゴミ箱を見つけて、一瞬、惜しいな、と思った。缶を捨ててしまうのが、惜しいな、と。
そのことに小さく驚きながら、私は缶を丁寧に、ゴミ箱に落とした。
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