第7話

 月曜日の朝十時。布団の中で「ナイルに死す」を読んでいると、電話が鳴った。電話が多いな、と思いながら本を伏せて置く。人付き合いをしないので、私の電話は一ヶ月に一度ぐらいしか鳴らない。類かなと表示を見ると実家からだった。うわあ、という内心をなだめて、出る。

「はい」

「里香?」

 母親の声を聞いたのは三ヶ月ぶりだ。

「うん。何かあった?」

「何かっていうか、ねえ。あんた今暇?」

「うん。家にいるよ」

 何か言われるかな、と思ったら、案の定だった。

「またごろごろしてお菓子ばっかり食べてるんじゃないでしょうね」

「いや、お菓子は食べてないけど」

「仕事ちゃんと探してるの?」

「一応色々と探してはいるよ」

「一応ってねえ。そりゃ会社が潰れたなんてあんたのせいじゃないけど、でもこうなっちゃったんだから気持ち切り替えて頑張るしかないでしょ?」

 うわあ。

 げんなりする。でも反論したってどうしようもないことだと無理に自分に言い聞かせる。

「まあ、そうだね」

「ほらまたそういう返事して。本当にちゃんと仕事するつもりあるの?」

「それはあるよ。働かないと生きていけないんだし」

 大体母はなんで電話してきたのだろう。何かの報告ならもっとさっさと本題に入るはずだ。

「でもあんた、類君に誘われたのに断ったんでしょ?」

 さあっ、と頭から血が下りていった。唇がつめたくなる。

「……え?」

 なんで母がそんなことを知っているのだろう。類が話したのか、と疑い、そんな馬鹿な、と打ち消す。類がそんなことをするわけがない。いや、本当にそうだろうか? 類は何の気もなく教えてしまったのかもしれない。でも実家の母にわざわざ電話なりなんなりで教えたりするだろうか? 私が独身でいることも知らなかったようなのに。でも、そもそもそれが嘘なのかもしれない。まさか。

 ほんの瞬きぐらいの間に、色んなことを考えて胸が悪くなる。

「え、じゃないでしょ」

「誰に聞いたのそれ」

 口調が荒くなりそうになるのを、どうにか制御するけれど、類ほど私に甘くない母には聞き取られてしまう。

「そんなきつい言い方するもんじゃないわよ」

「そうじゃなくて、誰に聞いたの?」

「流禰ちゃんよ。昨日買い物してたら駅で会って」

「流禰?」

 思いがけない名前だった。なんで流禰がそんなことを知っているのだろう。

「そう流禰ちゃん。あの子会うたびに綺麗になって。あんな綺麗な子がいたらお母さんも嬉しいでしょうね」

「もう二十歳なんだっけ」

 すぐには本題に入ってくれない。焦れるけれど、母のペースに合わせる。

「そうそう。いいわよねえ。あんなに綺麗で頭もよくって。類君と同じ大学行ってるんですって。あんたは落ちたのに」

 溜息をつきそうになるのをなんとか押さえる。

「元気だった?」

「元気だったわよ。弁護士目指してるんですってね。本当に偉いわよ挨拶もきちんとしてるし。あんたもちゃんと挨拶しなさいよぶすっとしてないで。ただでさえ流禰ちゃんみたいに器量がよくないんだから」

「挨拶ぐらいしてるよ」

「その言い方がぶすっとしてるのよ」

 その通りだ。母は私のことに関してはさすがに耳ざとい。

「それで、流禰がなんだって?」

「別に何ってこともないけど、類君があんたにまた振られたって笑ってたわよ。それも本当なの?」

 そんなことまで情報が行き渡っているのか。舌打ちしたい。

「……本当だけど」

「あんた本当にいつまで意地張ってるのよ。類君みたいな人、賭けてもいいけど絶対にこの先現れないわよ」

「それはそうかもしれないけど」

 曖昧な言葉で誤魔化した。それはそうかもしれない。けど。

 そして私は、その先の言葉がわからない。わからないけれど、その言葉にならないものが私にとって一番大切な部分なのだ。母には決して聞こえない部分が。

「それにしてもまあなんで類君は本当にあんたみたいな子がいいのかしらね。蓼食う虫も好き好きって言うけど、類君ならいくらでも綺麗な子と付き合えるでしょうに」

「類に聞きなよ」

「聞いてみたいわよ本当に。とにかく、断っちゃったものはしょうがないけどあんたちゃんと自分の立場も考えなさいよ。いつまでも仕事もなく遊び暮らしてるわけにはいかないんだから。類君みたいな子にたまたま好かれたからっていい気になってるのかもしれないけど、あんた不器量なんだから、せめて努力ぐらいは人並以上にしないと」

 うん、と曖昧に喉を鳴らして返事をすると、

「あんたちゃんと聞いてるの?」

 と言われてしまう。

「聞いてるよ」

「そういう態度を聞いてるって言わないのよ」

 なんだかもうわからなくなってくる。どのみち私の答えに母が満足することなんてないのだということしかわからない。

「とにかくそんなに我儘なままだと社会じゃ通用しないわよ。類君にも失礼なことしたんだからちゃんと謝っときなさい」

「うん」

「あと、あんたお正月帰ってくるの?」

 もしかしたらこれが聞きたかったのかもしれない。今年はちゃんと帰らない理由がある。嘘をつかなくて済むことに安心する。

「その予定はないけど。お金ないし」

 母は溜息を吐く。

「本当に全然帰ってこないわね。あんたが今どんな顔して、どんな格好してるのかも知らないなって時々思うわ」

 不意の母の弱さに、警戒して突き立てていた棘が、自分に刺さってしまう。

「結構遠いし、なかなかね」

「まあねえ。帰ってこなくてもいいけど、自分のことはちゃんとしなさいよ」

「うん」

 子供みたいな声になる。お母さんも言ってるから、ちゃんとしなくちゃ。馬鹿みたいだけど、そう思ってしまうのだ。仕方がない。

 母はその後、近所の人や父親や姉の近況についてひとしきり話す。私は大人しく相槌を打つ。

「じゃあまたね。何かあったらちゃんと連絡しなさいよ」

「はい」

「類君にもちゃんと謝っておきなさいよ」

「はい」

「お菓子ばっかり食べて、太り過ぎないようにね」

「はい」

 電話が切れる。私は疲れ切って、布団に包まる。ため息をつく。

「うちに帰りたい」

 呟いて、なんだかおかしいな、と思った。私のうちはここだし、実家にだって帰りたいなら、帰ればいいだけのことだ。旅費ぐらい貯金から出そうと思えば出せる。実家には、帰りたくないのだ。だから帰らない。本当はそれだけだ。

「うちに帰りたい」

 でも、その言葉はなんだか今の私の唇に馴染んだ。枕に頭を預け、目を閉じて、思考から余計なものを追い出そうとする。

 布団は私の体温と私のにおいを移して、温かくて心地よい。

 ごろごろして太り過ぎないようにね。

 母の言葉が蘇る。私はスウェットの裾に手を入れて、自分のおなかを触る。ぽってりと脂肪がついていて、すべすべと滑らかで柔らかい。だらだらとお菓子ばっかり食べて作った贅肉だ。でも贅肉をつけた私の身体を、私は嫌いではないのだ。身体だけではない。無職で、怠惰で、ちゃんとできなくて、母の意に沿わない、不器量で、どうしようもない私を、しかし私は嫌いではないのだ。褒められた人間ではないのかもしれないけれど、それはそれでかまわないと思う。

 私は私自身を、そのままのだらしない私自身を好きでいては、いけないだろうか。一生このまま怠惰に過ごせないことはわかっている。それでも、出来る限り自分の好きなようにしていたいと思うのは、許されないことだろうか。

「うちに帰りたい」

 意味もなく呟いて、私は目をつぶる。類のことも母親のことも仕事のことも、今は何も考えたくなかった。

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