第6話
五時四十五分に駅につくと、類はもう待っていた。改札の脇で、腕を組んでいる。私は柱に隠れて、類の死角にいるのをいいことに、その姿を観察する。癖のある栗色の髪は、無造作に額に掛かっていて、スーツのときよりも若く見えた。茶色いジャケットに、色の落ちたジーンズと、ブーツ。思ったよりもカジュアルな格好だったことに少しほっとする。落ち着いた色合いを好むのも、薄着なのも記憶の通りだった。類は寒さとか痛みとかに鈍感な性質で、子供の頃は真冬にもセーターだけで過ごしていた。私たちの地元は雪国というほどでもないけれど東京よりもずっと寒く、ぽったりと重たい雪が一年に何度が分厚くつもるような地方だった。そういえば類は一度、私のために自分の家の庭に、二人ですっぽり入れるようなかまくらを作ってくれた。手と頬を、真っ赤にして。
柱の陰から出ると、類は即座に私を見つけた。綺麗な顔に優しい笑みを浮かべて、ゆっくりと私に近寄ってくる。私はなんと言っていいのかわからず、小さく頭を下げた。
「こんばんは」
「はい。こんばんは。里香、寒くない?」
私は首を振る。厚手のコートとタートルネックのセーターに、膝丈のスカート。タイツも履いている。厚着ではないけれど、薄着ではない。
「寒そう?」
「ううん。でも里香、寒がりだから」
昔を思い出していたのは私も同じなのに、その言い方はなんとなく、愉快ではなかった。
「そんなこともないけど。東京は向こうほど寒くないし」
「そっか。でも確かに、雪もほとんど降らないみたいだね」
「降っても、あんまり積もらないね。こっちの雪は」
「そうなんだ。でも、寒かったらいつでも言ってね」
頷いたけれど、どんなに寒くても言う気はなかった。
「ごめんねわざわざ来てもらって」
今日貰ったメールには二駅先の店を予約したことが書いてあった。別にそこで待ち合わせてもよかったのだ。でも、類は首を振る。
「ううん。里香がどんなところに住んでるのか知りたかったから」
何でもないように言うけれど、かなりおかしな発言だと思った。
「それ、お父さんにも同じこと言われた」
「そうなの?」
「うん。あっちが東京に出張のときに、この辺で一回ご飯食べた」
「娘の一人暮らしだから、色々心配なんだろうね」
じゃあ類はどうして知りたがるの、とは、思ったけれど言わなかった。
「行こうか」
「そうだね。里香、切符」
類はジャケットのポケットから切符を出して、くれた。私はどんな顔をしていいのかわからなかった。とりあえず受け取る。
「もう買ったの?」
「暇だったからね」
「私パス持ってるのに」
「使わせたくないから」
私は曖昧に笑う。すでにもう、疲れていた。
類が予約していたのはイタリアンだった。白い壁と煉瓦を基調にした内装のこじんまりとした店で、それほど値段も高くなさそうだった。まだ早い時間だけれどほとんどの席が埋まっている。どちらかというと若い客が多いようだ。類が名前を言うと、奥の席に通された。
「ここ、よく来るの?」
「いや。この辺にはあんまりこないから、調べた。ピザが美味しいらしいよ。ワイン飲む?」
「少しなら」
「じゃあグラスワインにしようか。コースでいい?」
「うん」
メニューは類に任せた。私は質問に答えるだけだ。
若い従業員を呼んでオーダーをする類は、穏やかで落ち着いていて、とても感じがいいと思った。声は大きくないけれどよく通って、馴れ馴れしくはないけれど柔らかい雰囲気がある。店員に対するときの類が、昔から私は好きだった。横柄なところがないのに、卑屈でもなくて。もし私が店員で類がお客さんだったら、接客した後一日いい気分でいられるだろう。
「はい。それでお願いします」
オーダーを受けた従業員がテーブルから離れると、類が私を見て、微笑んだ。
「嬉しいな」
「何が?」
「里香がここにいることが」
「久しぶりだもんね」
「毎日一緒のときでも、僕は毎日嬉しかったよ」
私は答える言葉の用意がなくて、ただ首を傾げた。
「また毎日会えるといいんだけど」
類の目元が僅かに赤い。私は曖昧に微笑む。
「なかなか、毎日はね」
「忙しい?」
「そういうわけでもないけど」
察してくれ。というのは、我儘だろうか。我儘なんだろう。
「里香、話があるんだけど」
来た。心臓がぎゅっと縮まる。身体を小さくして、でも視線だけはそろりと類の顔に持ち上げる。けれど想像に反して類は特に緊張している様子ではなく、どちらかというと楽しそうに見えた。喜んでもらえるとわかっているプレゼントを用意したときみたいに。警戒するような話ではないのかもしれないけれど、何を言い出すのかわかりかねた。
「なに?」
そこで、ワインが運ばれてきた。
「とりあえず、乾杯してからにしようか」
怪訝に思いながら頷く。グラスに満たされた赤いワインは類が選んでくれたものだ。
「再会に」
と類は言い、小さなキスのように軽くグラスとグラスを合わせた。高い澄んだ音が鳴る。余韻に波立つワインを一口飲む。唇まで赤く染まりそうな濃い味と香り。
「おいしい」
「よかった」
心の底から出てきたような声で類は言う。敏感な皮膚を撫でられたような感触に、ちいさく身がすくんだ。
「話って?」
尋ねると、類は小さく頷いた。
「うん。里香、今仕事探してるって言ってたよね」
「うん」
「僕の会社で働かない?」
この男は正気なのだろうか。
私は類の顔を見つめた。ヘーゼルグリーンの瞳はまっすぐに私を見据えている。口元は小さく微笑んでいて、得意げでさえある。私がこんな話を、本気で喜んで受け入れると思っているんだろうか。
本当なら、馬鹿にしていると怒ってすぐに席を立つべきなのかもしれない。けれどそんなことはできないので、ただ微笑んで首を振った。呆れた、という気持ちが伝わるように。伝わるわけないけれど。
「悪いけど」
「どうして?」
類はうろたえていた。断られるなんて思っていなかったのだろう。その無邪気さが、私の心臓をささくれさせる。ひどいことを言ってやりたい衝動と、同情に似た優しさが混じる。
「普通、久しぶりに会った相手にそういう提案はしないと思うの」
「でも、里香が困っているのなら、助けたいんだ」
類はすっかり萎れていた。泣き出しそうにさえ見える。私も一緒に泣きたい気持ちだった。
「その気持ちは嬉しいけど、別にそんなに困ってるわけでもないし、仕事を探すのも、仕事をするのも、自分のペースでやりたいの」
類に私のペースに介入してほしくないの。とまでは言えなかった。
「もしも本当に困ったら、すぐに相談するから」
そんな日はこないだろう、と思ったけど、付け加える。困っても類に言わないということではなく、私が「本当に」困る日など来ないだろうという意味だ。だから嘘ではない。「本当に」という言葉など、私には似合わない気がする。本当に好き。本当に嫌い。本当に悲しい。本当に寂しい。どれも経験したことがない気がする。そのときは感情に振り回されても、過ぎてしまえば全部些細なことのように感じる。多分、私は強い感情に耐えられないのだ。「本当」が来る前に逃げ出してしまう。
「待ってる」
類は真剣に答える。
「困るの、待つの?」
「……ごめん」
眉が下がっている。本当に反省しているようなので、可哀想になる。こういうときには頭を撫でてやりたくなる私は結局類に甘い。「本当に」優しくはできないのに、「本当に」冷たくもできない。半端に優しくて、半端に冷たい。それがよくない。昔と何も変わっていない。自分でもわかっていた。
「いいよ。怒ってないから」
半端に優しい言葉をかける。うん、と類は素直に頷いた。
二人して黙ってワイングラスを弄んでいると、前菜が運ばれてきた。生ハムや鯛のカルパッチョや小さな器に盛られたラタトゥイユやオイルにつけたらしい牡蠣。ちまちまと大きな皿に彩りよく並んでいる。こういう手間のかかったものを食べるのは久しぶりだ。
「おいしそう」
「よかった」
「いただきます」
「いただきます」
フォークを手にとって食べ始める。類は自分の分には手をつけず、私を見ていた。口の中の生ハムを飲み込んで、注意する。
「食べにくいよ」
「ごめん。懐かしくて」
「類、ちゃんとご飯食べてる?」
思わず尋ねて、後悔した。馴れ馴れしい質問だ。
「一応は。仕事で誰かと食べる機会も多いしね」
「そう。ならいいけど」
類は食べるのがあまり好きではないのだった。嫌いではないようだし味音痴というわけでもないけれど、放っておくといつまでも何も食べずに平気な顔をしていた。
「里香はちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。食べ過ぎかも」
「そっか。あんまり痩せすぎないでほしいな」
「痩せすぎるってことはないよ。私は食べるの大好きだし」
「うん。僕の分も食べる?」
「自分の分ぐらい食べなさい」
「うん」
フォークを手にして、食べ始める。でも気付くとやっぱり手が止まって、私のほうばかり見る。そのたびに、ちゃんと食べなさい、と促す。類は頷き、手を動かす。でもまた、手が止まる。その繰り返しだ。
「もしかして、わざとやってるの?」
少な目の海老のパスタを食べ終えると、マルガリータピザが運ばれて来た。一枚を二人でわけて食べるようだ。薄い生地にたっぷりのチーズ。ふっくらと焦げた粉っぽい生地。チーズの匂いに楽しくなる。店の石窯で焼いたそうだ。お店で焼くピザは、私の好物だ。類が切り分けてくれる。
「わざとって?」
「さっきから、すぐに食べるのやめるじゃない。あ、ありがとう」
取り皿に大きめに切ったものを乗せてくれた。
「わざとじゃないよ。でも、叱られるのは嬉しい」
「類、いくつ?」
「二十六歳になったよ」
「じゃあいい加減大人になって」
「大人になったつもりなんだけどね。これでも」
それはそうかもしれないけれど、随分歪な大人だ。好き勝手に会社に使えるかもわからない人間一人捻じ込もうとする我儘と、その我儘を通せるという力。でも、類に限らず人はみんな、そんなふうにしか大人にはなれないのかもしれない。私だって、随分歪だ。
「いただきます」
ピザを齧る。熱くて美味しい。類が笑った。
「それ、変わらないね」
目線だけで何のことか問いかける。
「新しいお皿のたびにいただきます、って言うの」
人に指摘されたことがない癖だったので、途端に恥ずかしくなった。
「ちゃんとしたところではやらないよ」
「知ってるよ。可愛いね」
「やめて」
声が荒くなってしまう。
「ごめん」
「いいよ。でも、可愛いって言わないで」
可愛くないから。と付け加えたら、必死に反論されるのはわかっていた。思い出してしまい、苦しくなる。そんな無駄な、ただただ疲れるだけの議論を、昔は何度繰り返しただろう。類に可愛いといわれるのが、あの頃はどうしても嫌だった。そのぐらい流せばいいとは、少女の私には思えなかった。ただただ、いたたまれなくて、やめてほしかった。類が嘘をついているとは思えなくても、私が思った通りには私が可愛くないことが、その都度悲しくて辛かった。今にしては馬鹿みたいだけれど、あの頃の可愛くない女の子のことを、でも二十五歳の私も笑うことはできない。あの子は可哀想だった。そう思ってやりたかった。誰にもそう思われないだろうから、私ぐらいは胸の内で同情し続けてやりたかった。
「直したい癖なの」
どうにか耳障りの悪くない言い訳を絞り出す。次のお皿が来たら、いただきますはやめないと。寒いと言わない。困っていると言わない。注意書きが頭の中に増えていく。
「そうなんだ。ごめん」
首を振る。
「いいよ。ピザ、冷めちゃう」
「うん」
なるべくピザに集中しようとする。類も自分の分に手をつけていた。口の周りを汚すとまた何か言われるような気がしたので、丁寧に食べる。類は食べるのをやめはしないけれど、ちらちらとこちらの様子を窺っている。
類は一切れ余分にくれようとしたけれど、断った。
「里香、ピザ好きでしょう? 美味しくない?」
「美味しいよ。でもメインがまだあるんでしょう? もうけっこうおなかに貯まってるから」
「そうか。もらうね」
何かを断るにも、言い訳にいちいち採点されている気がする。
メインは牛ほほ肉の煮込みだった。いただきますを言わずに、手をつけることができた。
「美味しい?」
類が聞くので、頷いた。
「うん。美味しい」
牛の煮込みはあまり食べる機会がないけれど好きな食べ物だ。よく煮込まれていて柔らかい。濃くて複雑な味だけれど、脂っこくなくて食べやすい。このお店の味付けは、私好みだ。
「よかった」
そう言う類の皿は手付かずだ。
「類も食べなよ」
「うん」
類も肉を小さく切り取って、口にする。
「美味しい」
「よかった」
類はもう一口食べると、納得したように頷いた。
「やっぱり里香と一緒にいると、食事が美味しい」
私は微笑んだ。
「それはよかった」
嘘ではない。でも、私は違う。
デザートはヘーゼルナッツのジェラートと、リンゴのケーキだった。飲み物は類も私もコーヒーにした。
「僕の分のケーキ食べる?」
このやり取りを何回繰り返せばいいのだろう。けれど、類のせいだけではないのだと思いなおす。小学生の頃はよく類のおやつを分けてもらっていた。母にばれて、意地汚いとひどく怒られた。女の子なのに、だからこんなに太るのよ、と。私がお菓子をねだらなくなると、類は嫌われたのかとうろたえた。私は本当のことを言えずに、ただただいらないと拒み続けた。
「いい。もうお腹いっぱいだから」
「満足した?」
「うん。いいお店だね」
「よかった」
「よくできました」
類はにっこりと、褒められた嬉しさを露にする。私はジェラートを掬って舌に乗せる。こってりと滑らかで、とても美味しい。一人で、ゆっくり食べられたら、きっともっと美味しい。そんなことを考えてしまうのが、自分でもひどいと思った。ひどいと思うから、埋め合わせみたいに優しくしてしまう。そして本当の私は優しくないから、優しくし切れなくなる。その繰り返しだ。いつも。これでは何にもならないとわかっているのに。
「類、彼女は作らないの?」
そんなことを聞くのは、酔っているせいか、その近づいて交わしてという駆け引きが、面倒くさくなったからかもしれない。
「え?」
「もう二十六歳なんだから。いい人はいないの?」
「里香」
その声の強さに、怒ったのかと思い、首をかしげた。
「え?」
「里香しかいないよ。ずっと」
類の顔に笑みはなかった。美しさだけを剥き出しにした顔。強い熱と怯えが混じったまなざしで、私の視線が逃げるのを許さない。
「里香以外に彼女にしたい人なんていない」
はっきりと、全身で縋りつくように類は言う。笑おうと考える私の卑劣を、さすがに私自身も見逃すことができない。
「……ごめん」
心から言った。類は目を伏せた。青いほど白い頬に、濃い睫が長く影を落とす。そんな顔はさせたくないのに。でも類は、どんな悲哀も絵のようだ。こんなときなのに、私はつい見蕩れてしまう。美しさはいつでも類の味方だ。私には微笑んでさえくれないのに。水滴を払うように、類は首を振った。
「いや。いいんだ。里香は?」
どうして、と聞かれたらどうしようかと思っていたので、上手く反応できなかった。
「私?」
「恋人はいないの?」
「いないよ」
嘘をつくのが苦手というのは、私の場合美徳でもなんでもない。私が本当のことをぽろぽろ言うのは、愚鈍か、保身のためだった。
「いないんだ」
類は明らかに安堵していた。ふと、私は高木さんのことを思い出して、申し訳なくてすぐにやめた。高木さんは、私の中ではそういう種類の人ではなかった。だからこそ、私は高木さんが好きなのだった。
払うよと一応言ったけれど、支払いは類がした。こういうときに決して折れないことは知っていたので、私も一度しか言わなかった。
「行こうか」
促されて、店を出る。鼻が冷気にぶつかって痛んだ。寒い、と言い掛けて、やめる。
「寒い?」
でも類が尋ねてきた。寒くない、とは言いかねる。
「平気」
それで、そう言った。駅に行くのはどちらの道か、私にはわからないので、類についていく。ヒールのある靴を履いたのもワインを飲んだもの久しぶりなので、軽くよろめいてしまった。すると、類がすかさず肩を抱きとめてくれた。ちょっとよろめいただけなのに。過保護だ。
「ありがとう」
あ、これ。
類の手が肩から外れない。私は類の顔を見上げる。類は私の顔を見ていた。二人で、同じ瞬間を思い出しているのがわかった。十六歳。高校二年生。私達が初めてキスをした瞬間。学校帰りだった。冬で、もう日が落ちていて、寒い日で、私は類のマフラーを首に巻いていた。後ろから来た自転車に驚いてよろめくと、類が私を抱きとめてくれた。肩に置かれた類の手は大きかった。
キスしてもいいかな。
「キスしてもいいかな」
記憶と同じに、類が尋ねる。あのとき、私は何も言わなかった。罠に掛かった鼠のように、諦めと怯えで身体を硬くしていた。類はそっと私の上に屈みこんだ。罅割れた私の唇が、類のつやつやとした唇を引っかく感触があって、恥ずかしさと気後れに泣きそうになった。その唇同士の些細な接触で、私は恋人になるという契約に、私の知らない場所で作られていた契約書に、捺印してしまったのだった。ちょっとよろめいただけだったのに。
でも、もう違う。
「だめ」
目を伏せて、冗談めかして言う。私は、もう一生、類とキスをしない。
類は私の額に顎をつけた。
「だめか」
触れている額から類の声が私の身体に落ちてくる。
「だめだよ。それと、ここ、外だよ」
私は一歩後ろに下がって、類の腕から抜け出すと、歩き出した。一瞬だけ視界にひっかけてしまった類は、見捨てられた子供のような顔をしていた。肋骨が絞られたように痛くなる。懐かしい痛み。類だけが私に与える痛みだ。不必要な痛み。苦しい。私はまだ類が大切で、類が好きだったのだと確認してしまう。四年かけて作った殻に罅が入って、どろりと中身が溢れてくる。苦しい。
キスや告白を拒むことと、類が好きだということは私の中で何の矛盾もなく両立している。記憶もおぼろげな四歳の頃からずっと、私は類が好きだった。いつだって類が好きで、大切で、特別で。けれど類と恋人になりたいと思ったことなど一度もなかった。そういう類の「好き」だったのだ。
けれどそれを類に言うことはできなかった。類には私の気持ちはわからない。私に類の気持ちがわかるとは思わないが、類には私が理解できないということだけは学習していた。私達は、気が合わないのだ。絶望的に気が合わない。問題は、それを学んだのは私だけだということだ。類はきっと私が何故四年前類と別れたのかもわかってはいない。だから自分の会社で働けなどと言えるのだ。私がそういう提案を喜べるような人間ではないということに、類はまったく気付いていない。私たちの間には、二十年近い年月でも決して埋められない断絶、あるいは二十年近い年月かけて深めていった断絶、がある。類の私への、徹底的な無理解。
無言で、躓いたりしないように慎重に、駅まで歩く。類は私の半歩先を歩く。ゆっくりと、私に合わせて。それでもあっという間に着いてしまう。地下鉄の入り口で立ち止まって、類を見上げる。
「今日は色々とありがとう」
類は弓形に生え揃った眉を寄せた。
「里香、怒ってる?」
その質問は卑怯だ。首を振る。
「怒ってないよ。ちょっと、びっくりしたけど」
類はこめかみに手を当てた。
「でも、ごめん。里香に会えると思うと舞い上がっちゃって、調子に乗りすぎた」
「いいよ」
よくないけど。
もう、類とは会わないほうがいい。不意に私の脳は結論を出してしまう。もう会わないほうがお互いのために一番いい。私は類の希望を満たせない。けれど満たしてあげたい気持ちはあって、それだから余計に性質が悪かった。
「怒ってないし、大丈夫だよ」
類は私を見つめて、それからこめかみを押さえていた手を下ろした。姿勢を正して、真摯に私に語りかける。
「ずっと前から言ってるけど、僕は里香に喜んでもらいたいんだ」
「……そう」
「見返りがほしいわけじゃなくて、ただ里香のために何かがしたいんだ。恋人になってくれなくても、僕が里香のためになってるって思うだけで、それだけで嬉しいんだ」
そんなことは聞きたくなかった。
「じゃあ、合コンしたいって言ったら、セッティングしてくれる?」
類の顔から表情が剥がれ落ちた。
「それは」
「ごめん。冗談」
会話を打ち切ろうとする私に、類ははっきりと言った。
「それを頼まれたら、僕にはできない。悪いけど」
苦しそうだった。後悔に潰れそうになる。類にあんな冗談、冗談に見せかけた皮肉を、言うべきではなかった。
「……ごめんね」
類は苦く笑う。
「さっき喜んでほしいって言ったばっかりなのに、情けないよね」
私は首を振った。
「今のは私がよくなかったよ。ごめん」
「里香は悪いことなんてしたことないよ。今までで一回も」
「それ、本気で言ってるの?」
むしろ生まれてこの方いいことなんか一度もしなかった気がする。よくも悪くもないことの間に、ちょっとずつ悪い行いが織り込まれているような人生だったような。
「本気だよ。里香は僕の憧れだから」
この男大丈夫だろうか。類に慣れているはずの私も、さすがに正気を疑った。どこを見て言っているのか。
「……考え直したほうがいいよ」
類は微笑んだ。
「里香はいつも、自信がないんだね」
こんな男に憧れと言われて堂々としている無職がいたらどうかしていると思ったけれど、首を傾げて誤魔化した。
ほら、私達、気が合わない。自分に言い聞かせる。それを確認するのは、少し安心することだった。もう二度と類とは恋人同士にならない、なりたくないと思えるのは。
「……寒くなってきた。駅入ろう」
「うん。ごめん」
「謝らないでよ」
「うん。ごめん」
「こら」
叱ると、類は嬉しそうな顔をした。つい笑ってしまう。
「里香」
「何」
「好きだよ」
聞かないふりをして、駅の階段を下る。類もそれ以上は言わなかった。
私は類には絶対に言えないことを、ひっそりと思う。
もしも類が私を好きでなければ、私は類をもっと好きでいられるのに。世界で一番、誰にも見せられないような気持ちでずっと、好きでいられるのに。
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