第5話

 類から電話があったのは、金曜日の夜、九時ごろだった。私は布団で「言の葉の樹」を読んでいた。着信に表示される名前を見て一瞬だけ迷ったけれど、布団の上に座り、電話に出る。

「はい」

「里香?」

 類は声も綺麗だ。耳辺りが柔らかくて滑らかで。私は携帯を耳から少し離す。

「うん」

「今、大丈夫?」

「うん。本読んでた」

「何の本?」

「内緒」

 類は小さく笑った。耳元を擽られているようで、居心地が悪い。

「急だけど、里香、明日会えないかな」

「明日?」

 と驚いたように言いながら、私はどうやって断ったらいいのか考えていた。こういう電話が来る予感はあったけれど、真面目に考えると現実になってしまいそうで、見ないふりをしていた。

「うん。明日。予定がある?」

 予定などない。あると言ってしまえばそれでおしまいだけれど、私は嘘をつくのが苦手だ。とりあえず時間を稼いでみる。

「明日、何かあるの?」

「いいや。ただ、食事でも一緒にどうかなって」

 穏やかな言い方だけれど、類の声に慣れた私の耳は、そこに緊張を聞き取ってしまう。私の意志は、簡単にそれに負ける。

「……かまわないけど」

「本当に!?」

 浮かれた声。

「類、子供みたい」

 気をつけたけれど、意地の悪い言い方になった。

「ごめん。でも、嬉しいから」

 子供みたい。今度は声に出さずに繰り返す。

「類」

「何」

「あんまり高いお店はやめてね。ちゃんとした服、あんまり持ってないから」

 口にした瞬間、既視感が脳裏をよぎった。類が私の予感をなぞる。

「服なら僕が買ってあげるけど」

「やめて」

 尖った声が出る。類が怯む気配がした。

「……里香?」

「……ごめん。私、今あんまり外出てないから、ちゃんとしたお店だと、疲れちゃうし、あんまり買い物とかも、行きたくないの。ごめんね」

 その言い訳にどこまで納得したのかはわからないけれど、類の声は落ち着いていた。

「いや、僕のほうこそ急にごめん。時間は六時でいい?」

「うん」

「里香の家、最寄り駅はどこ?」

 少し抵抗があったけれど、正直に答えた。

「じゃあ、そこまで迎えに行くよ」

「車で?」

「いや、電車で。車はまた今度にするよ」

 さらりと挟まれた今度という単語には、反応しないことにした。

「明日またメールするよ。楽しみだな」

「私も」

 ほんのひととき、沈黙が落ちる。類の息を吐く音が聞こえた。私はひどい嘘をついた気がした。私も。だなんて。

「楽しみだな。じゃあ、また明日」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 電話を切ったのは私だった。これも、昔からの習慣だ。携帯を枕元に置く。

「あーあ」

 声を出してみて、さっきまでと声が全然違うことに驚いた。

「あーあ」

 これが私の声だな、と思う。さっきまでのは違う。

「明日か」

 布団に寝転がり、手持ちの服を考える。ああは言ったけれど、それでも普段と同じような格好はできない。化粧もしなくては。爪は何もしなくても問題ないだろうか。アクセサリーは。少ない手持ちのほとんどがそういえば類から貰ったものだ。つけていくのはちょっとまずい。そこまで考えて、呟く。

「めんどくさい」

 私はたいていの予定を楽しみにするよりは億劫に感じてしまう種類の人間だ。行ってしまえば楽しくなるとわかっていることでも、前日にはどうしても気持ちが重くなる。ちょっとした飲み会や遊びの予定でもそうなのに、類に会わなくてはいけないのだ。

 布団の上で小さく丸まる。枕に頬を乗せると、つめたくて気持ちがよかった。

 類にもしもう一度やり直したいと言われたら、どうやって断ればいいだろう。付き合っている相手もいないし、好きな人もいない。打ち込む仕事もない。断るに値する手札は何もなかった。一度別れたあの頃よりもずっと、何もない。もっとも今は私も類も家族と離れて暮らしているから、あの頃よりはもう少しやりやすくなっているはずだ。

 ふと我に返って、自分を笑う。

「馬鹿じゃないの」

 まだ何も起こってはいない。ただ食事に誘われて、それを受けただけだ。余計な考えを振り払うように立ち上がり、お風呂を入れに行く。カモミールのバスソルトがあるからいつもよりも多めに入れて、長く浸かろう。

 無駄毛の処理はどうしよう、と考えて、恥ずかしくなった。自分がまだ若い女だということを思い出して、戸惑う。そうだった。私はまだ無駄毛とか髪型とかそういうことを気にするべき立場の人間なのだった。ずっと忘れていたけれど。

 男の人とちゃんと約束をして食事に行くなんて、本当に久しぶりのことなのだ。類と別れてから、一度もしなかった。

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