第4話

 失業してから、多分一番会話する相手は高木さんだ。会話する特定の相手は高木さんしかいない、と言ったほうがいいかもしれない。親には一度電話したきりだし、あとはハローワークの人、たまに来るセールスの人や店員ぐらいとしか話さない。

 高木さんとも、親しい、といえるほどの関係ではないと思う。顔見知り。その程度の間柄だ。電話番号もアドレスも知らない。聞けば教えてくれるだろうという気はするけれど。

 知り合ったのも、失業してからだ。区の図書館で、私は机に本を並べていた。借りようと物色した本が二週間では読みきれない量になったので、確認して何冊か棚に返そうとしていたのだ。

「あ」

 と、後ろから声がして、私は振り向いた。痩せた、顔色の悪い男性が立っていた。黒いセーターに黒っぽいジーンズ。ぎりぎり若いといえるぐらいの年齢。目付きが険しくて、なんとなく人を拒絶するような気配がある。

 振り向いた私に、その人は気まずげに口元を歪めた。私に声をかけたわけではないのかと思い、頭を下げて前に向き直ろうとすると、その人はもう一度口を開いた。

「あの、その旧約聖書の本、借りるんですよね」

 訥々とした話し方のせいだろうか。見た目の印象よりも若く感じた。私とそう年は変わらないのかもしれない。

「これですか?」

 私は机の上から一冊の新書を取り上げた。解説書で、多分大学の教科書にするために書かれたものだった。私は旧約聖書に特別に興味を持っているわけではないが、せっかく時間があるのだから知らない分野の本にも手を伸ばそうと思って選んだのだった。

「はい、それ、返却するのってだいぶ先になりますよね」

「いえ、別に今特別読みたいわけでもないんで、必要ならどうぞ」

「え、いいんですか。レポートとか」

 レポートってなんだ。と考えて、わかった。この人は私を学生だと思っているのだ。笑いながら首を振った。

「ただ読もうかなって思っただけですから」

「授業に必要とかじゃ……」

「大学はもうだいぶ前に卒業しました」

 へ、と小さい声を上げて、でも私が差し出した本を素直に受け取り、表紙に目を落とす。

「これ、普通に読もうと思ったんですか?」

 旧約聖書に興味ぐらい持ってもいいだろうに、と思いながら私は頷いた。

「変わってますね」

 その人はおかしそうに笑った。笑うと、くしゃりと顔が崩れ、善良であたたかい雰囲気になった。

「失礼ですね」

 そう言いながらも、私も笑ってしまった。何故だかその瞬間、色々な手間を省いて関係が出来上がっていた。敬意のある軽視とでもいうか、ひどく気楽な関係。

「時間はやいですけど、飯でも行きませんか」

 唐突と言ってもいいその誘いに迷う前に、頷いていた。男性は特別嬉しそうな様子でもなく、じゃ、行きましょうか、と言った。そして、二人でカウンターで貸し出し手続きを取った。

 図書館の外で名乗りあった。その高木さん、という男性が連れて行ってくれたのは、住宅地の中にある一見民家のようなカフェだった。夜はバーになるのだという。マスターが映画や演劇が好きらしく、小劇場やライブハウスのパンフレットがたくさん置いてあった。まだ客は誰もいなかった。

 高木さんはカレーを、私は日替わりランチのチャーシュー丼を注文した。高木さんは正面の私ではなく、壁の映画を見ているようだった。そのとき流れていたのは「インセプション」だった。

「その本、どうして必要だったんですか?」

 気になっていたことを尋ねると、高木さんは初めて私の存在に気付いたようにこちらを見た。

「え、ああ、ええと、まあ、資料に」

 もしかしたら宗教的な問題なのだろうか、と私がいささか不穏な想像をしていると、高木さんは水を一口飲み、小さく笑った。その笑顔は高木さんのような男性には不釣合いなほどに可憐な、恥じらいを含んだ笑みだった。

「シナリオをね、書いてるんです。それでまあ」

「シナリオですか」

 詳しく聞いてもいいのか迷っていると、高木さんは自分から説明してくれた。

「アダルトゲームのシナリオをやってまして」

「アダルトゲーム?」

 自分で口に出してみて、ようやく言葉の意味が理解できた。高木さんは私に頷いた。

「十八歳未満禁止の、パソコンのゲームのシナリオをやってるんです。それで、資料が必要でして」

「旧約聖書の」

 アダルトゲーム、という未知の、そして言ってしまえばいかがわしい分野と、旧約聖書という組み合わせが、私では上手く消化できなかった。高木さんは説明してくれた。

「歴史系のゲームを今作ってるんです。旧約聖書も直接は関係ないんですけどね、一応のところは抑えておこうということで。アダルトゲームも、それなりに色々あるんですよ。SFとか、ホラーとか、ミステリとか、ハードボイルドとか。やらしいことしてるだけのやつも勿論多いんですけど」

「ホラーとか、ちょっと面白そうですね」

「けっこう面白いものもありますよ。年齢制限があるから過激なことも出来ますしね。もっとも、面白いゲームのほうが面白くないゲームよりもずっと少ないですけど」

 それは本も同じだろう、と思ったけれど、本よりももっと、という意味のこもった言葉に聞こえた。自分が所属する分野に対して何がしか思うところがありそうだった。

「高木さんの作るゲームは、面白そうですね」

 お世辞ではなく、本当にそう思った。高木さんは驚いたように目を軽く見開いて、微笑んだ。この人は、笑顔が可愛い。胸のうちでこっそり言って、私も微笑んだ。

 ランチは美味しかった。食べ終わり、一時間ほど話して、私達は別れた。その日はそれだけだった。

 一週間後にまた図書館に行くと、雑誌のコーナーに高木さんがいるのを見つけた。

「こんにちは」

 声をかけると、高木さんは顔を上げ、私を見ると怪しむように目を細めた。私は不安に身体を硬くした。

 すると、目元をほどいて、高木さんは微笑んだ。

「こんにちは」

 この人は、笑顔が可愛い。私はまた胸の内でそっと呟いた。

 それ以来、高木さんとは週に一回図書館で会って、お昼を一緒に食べている。些細な、ちょっと嬉しい、私の習慣だ。

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