第8話

 店に着いたら彼は店の前で待ってくれていた。


「どうしたの?」

「え?」

「遅いから。迷った?」

「あ、うん。少し」


 あまり来たことのない場所で迷いながらようやく着いた。電話番号知らないから電話ができない。迷いながらメールするか迷ってたんだけど……あれ? そう言えばなんで彼は、私のメールアドレスを知っているんだろう?


 中に入って注文が終わると聞いてみた。


「あの、私の携帯のメールアドレスってどうやって?」

「ああ、香川さんに聞いたの。携帯番号もね。教育係になったけど連絡知らないと不便なんだよって言ったら、教えてくれたよ」


 香川さん! 教えたら教えたって言ってよ!


「それなら直接……」

「直接聞いても教えてくれないだろう?」

「あ、いや、あー、そうかな」

「そうだよ」

「私は、その……知らないんだけど」

「ん?」

「吉野くんの……番号」


 実はこれって、すごい勇気振り絞って言ったんだよね。だって、それきりだったら知らなくてもいいじゃない?

 どうするんだろう……彼は……。


「ああ、そうだった」


 彼は携帯を出して操作している。と、私の携帯が鳴る。


「これが俺の番号だからね」

「あ、うん」


 これって! これって期待していいのかな?


 晩ご飯を食べていい気分のまま歩く。この後ってあるのかな? っていうかどういう関係だと思ってるの?

 何時の間にか私達は駅まできていた。


「じゃあ、ここで」

「あ、うん」

「じゃあ、また明日」

「あ、うん。明日」


 はあー。これってなんていう関係なの?



 次の日の朝、胸を確認してみる。少し、ほんの少し薄くなったかな。チクン。嬉しいことなのに、なぜかさみしい気分になる。私の中の彼が薄くなっていくようで。


 胸の痕が薄くなったことと、彼と夕食を食べて携帯の番号も教えてもらったことで、昨日よりも自然な私になっていた。


 水曜日……木曜日……彼は毎日ご飯に誘ってくれる。私達ってどんな関係なの? この言葉が出ないまま、金曜日がきた。私は心の中で、智也とも吉野君とも呼べない日々が続く。そして胸の痕が、もう薄っすらと消えかかった金曜日の朝がきた。


 もうすでにファンデーションを塗ればすぐに見てもわからない程度にまで薄くなった痕。もう元の私に戻ったようだった。そう、あの夜の事はなかったことのように。そう思った方が楽になれるんだろうか。彼が私をどう思っているかを考えるよりかは。

 彼は香川さんが言ったように品行方正な真面目な社員のように振舞ってくれた。ただ自分の仕事をする。

 私は彼を見張っていたわけではない。仕事中、彼に声もかけなかったし何も言わなかった。ただ仕事が終わったら、食事に誘われるぐらいだった。そんな関係……それってどんな関係なの?


「和泉さん、今日この後予定あるかな?」


 上野さんから突然声をかけられた。もう少しで仕事が終わるって時に。


「あ、いいえ」


 まだ彼から今日もご飯に行こうとは誘われていないし……。


「ちょっと残業に付き合ってくれる?」

「はい。いいですよ」


 上野さんはトラブルを抱えてるようには見えなかったけど、仕事を真面目にやるタイプだから、きっと自分で納得がいかないことがあるんだろう。


 *


「ごめんね。付き合わせちゃって」

「いいですよ」


 もうみんな帰ってしまって誰もいない。上野さんは新しい企画のプランニングをしている。私はその資料を整理するお手伝い。特に急ぎではないけれど、真剣な表情で仕事をしている上野さんを見ていたら、文句は言えない。


「なんか食べるもの買って来ましょうか?」


 私自身がお腹が減ってきた。上野さんと私以外誰もいないオフィス。なにかコンビニで調達でもしてきたらいいかと、上野さんに近づき聞いてみた。


「和泉さんがいいなあ」

「え?」


 上野さんのデスクの隣には、設計図などを広げる為の広いデスクが置いてある。その広いデスクの上に上野さんにポンと乗せられ、何時の間にか組み伏せられていた。う、嘘。


「う、上野さん?」

「和泉さんが食べたいなあ」


 と、二枚目な顔の上野さんに上から言われる。ど、どうしよう。


「あ、あの」


 次の言葉は上野さんに唇で塞がれてしまう。い、嫌!

 智也!!


 唇は塞がれたまま、ブラウスのボタンを外されていく。嫌、嫌だあ! 智也!

 私は抵抗するつもりで上野さんの体を押してみる。だけど、


「ここでするの?」


 体は離れたものの動いたのは私の体だった。デスクの上に自らの体を横たえただけで、上野さんの力には全くかなわなかった。


「い、いや!」

「可愛いなあ」


 嫌だってわかってくれてない! そういう意味の「いや」じゃないのに。


「違っ!」


 また唇を押し当てられて次の言葉が言えない。どうしよう。

 上野さんはデスクに横たわった私の胸をさらけ出した。

 私の唇から離れて上野さんの顔が胸に向かう。う、嫌! 嫌だっ! 智也!


「あ、れ? これってキスマーク? 和泉さんって彼氏いるの?」


 戸惑った上野さんの声が聞こえてきた。上野さんの動きは止まっている。……彼氏か……智也がよぎるけれど……彼氏って言っていいの? でも、ここで引くわけにはいかない。上野さんはすっかり距離をあけている。今がチャンス。


「は、はい。あの、だから、これで……」


 私は何とかこれで終わらせてしまおうって考えながら、話を続けようとした。


「あれー?」


 ドキッ!! 智也の声が廊下から聞こえてきた。


「誰かいますかー?」


 戸惑っていたら、智也の大きな声が響いてくる。


「い、和泉さん。服、早く戻して」


 小さな声で上野さんはそういうと自分のデスクに戻ってしまった。私は慌てて上野さんにあけられていたブラウスのボタンをしめる。

 閉め終わった頃に智也が部屋に入ってきた。


「あー、上野さんに和泉さん。今日は……ああ、そうか残業でしたね?」


 平和な顔して智也が入って来て私と上野さんを見て言った。


「あー、うん。もう少し早めに終わらせたかったんだけど……あの、和泉さん。もういいよ。ごめんね。付き合わせちゃって」

「え? あ、ああ。はい。では、あの……お先に失礼します」


 何だかわからないけれど良かった。助かった。

 私が部屋を出る時に智也は


「次のデザインいいのが思いついたんで、資料を取りに来たんですよ」


 と、上野さんと話し始めた。


「そ、そうか」

「忘れる前にと思って。お邪魔しましたか?」

「いや、大丈夫だよ。もう終わろうと思ってたから」


 という会話を聞きながら、私は更衣室へと急いだ。ハアハア! はあー。危なかった……よね? ま、まさか上野さんがあんなことするなんて……。智也が来てくれなかったら……あ、それとコレ。智也が私につけた痕……。まだ薄っすらと赤く私に残ってる。これがなかったら……ダメだったかも。あのままだったら危なかったよね。これを見て上野さん手を引いたんだもんね。

 ブラウスを脱いで自分の服に着替える。着替え終わって、一応携帯をチェックしてみる。まあ、いつもほとんど何もないんだけど? メールも着信もたくさんあった。全て智也からだった。こ、これで……見に来たんだ。残業するには、部長の許可がいる。だから、みんなの前で、今日は上野さんと残業することは伝えてある。

 メールには『ここで待ってる』から始まって、数度の電話の着信があり、『まだなの?』というメールの後からは着信が続いている。智也はなんでこれだけで私の危機がわかったの?


 着替え終わりエレベーターに向かう。


 エレベーターに乗る前に、エレベーターの前で上野さんが待っていた。


「ごめん!」


 警戒していると、上野さんが頭を下げてきた。


「本当に申し訳なかった」

「あ、いや。その……」


 なんと答えていいのかわからない。


「いや、その和泉さん、彼氏いなさそうだったんで、つい」


 ついってなに?


「ごめん! みんなには」

「言いません」


 言えません!


「本当にごめんね!」


 二枚目顏で言われてもね。ついってなによ!!

 チンと、いいところでエレベーターが来た。

 私は乗り込み


「じゃあ、お先に失礼します」

「ああ、その。お疲れ様」


 閉まるのボタンを押した。もう!


 はあー。ついってなによ! ついって。つい、であんなことするの?


 私の疑問を乗せてエレベーターは一階に着いた。

 エレベーターを降りると――あれ?


「和泉さん、お疲れ!」


 え?

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