第7話
月曜日にも私の胸にはまだ彼の痕が残っていた。ファンデーションを塗って少し薄くした。
早めに出勤して人が少ない時間に着替える。もう! なんの為につけたの? 見るたびに彼を感じ、そのたびに心がチクって痛む。
着替え終わって仕事場に入る。
「おはようございます」
まだまばらな出勤時間。数人と挨拶を交わして、自分のデスクに座り気持ちを入れ替える。今から仕事! 仕事!
「おはようございます」
ピクって反応してしまう。見なくてもわかる……吉野君が来た。
「お、おはようございます」
振り返り、彼と目を合わせないで挨拶を返す。全く自然じゃないよお!
その後も、背後に彼の気配を感じながら、ぎこちない動きが続く。無理だよお! 自然に仕事なんて出来ない。
「和泉君、すまんがこれ急ぎで送ってくれるかな」
また部長の無茶な注文がきた。郵便物は社内で一括して送れるようにまとめているのに、いつも急ぎで送ってと言われる。本当にそんなに急ぎなの? という疑問はもちろん挟めないので
「はい。郵便局行ってきます」
「頼んだよ」
黙って行くしかない。
郵便物を持ってエレベーターに乗り込み閉まるのを待つ。閉まるというボタンはあるけど、押すのは禁止されている。なんでも電気が無駄に消費されるらしい。本当かな? まあ、あの席を出来るだけ長く離れていられるなら、いいんだけど。
お、やっと閉まった。と、閉まっていく扉を見ていたら間に手が! 慌てて開くのボタンを押す。乗り込んできたのは……彼だった。な、なんで?
二人並んで、もう一度エレベーターの扉が閉まるのを待つ。と! 彼が閉まるのボタンを押した。エレベーターの扉は閉まり、エレベーターは二人を乗せたまま一階へと降りていく。
「おはよう」
「お、おはよう」
彼は私の肩を抱いてキスした。そっと触れ合う軽いキス。なのに私はボーってなってしまう。
な、なに? どういうキスなの?
「あ、あの……」
チンと、無情にもエレベーターは一階に到着。外には待っている人もいる。降りないわけにはいかない。
「じゃあ、いってらっしゃい!」
眩しい笑顔でそう言われて行かないわけにはいかない。
「いってきます」
悲しく返事を返して会社を出る。ああ! もう! なんのキス?
*
お昼も終わり化粧室。香川さんの話も上の空で聞いている。
「和泉さんもついてないですよねえ。部長に狙われてますよ! 」
「だよね」
「でも、新人君、今日は大人しいですよね? 和泉さんのこと気にしてくれてるんですかね?」
「え? そう?」
「和泉さんが、ほら! 郵便局行ってる間も電話に出る様子もなかったしなあ」
「それは懲りたんじゃない?」
「でも、部長が直接、注意したんじゃないですよね?」
「そうだけど気づいてるって」
本人が言ってたしね。あれ? でも、気づいているのになんでわざわざ電話出たんだろう? 出てから周りの雰囲気で気づいたのか。
「そうですかね」
「そうそう」
その後はまた社内のゴシップに花が咲く。
「社長の娘さん結局結婚して、会社継がないらしいですよ」
そう言えば社長の娘さんが次期社長候補だった。これも香川さん情報。他社から転職して我が社に入社した時に聞いたような気がする。そこらへんはあまり興味のない話題だったのですっかり忘れていた。次は女社長かあ。という程度の感想だった。
「へー。そうなんだ」
「何でも、取引先の社長と結婚するのに大反対されたらしいですよ。会社を継げなくなるからって。でも、あっさり結婚まで話をつけたらしいですよ」
大反対されても結婚かあ。私には縁のない話だな。さすがは次期社長候補。
「ふーん」
今の私はそれどころではない。この噂話! あ、ああ! あのキスマーク! 誰かに見られたら、たちまち社内の化粧室で噂が広まるじゃない。自然と胸に手がいく。これがバレたらなんて言うの? 付き合ってないならなおさらじゃない。あー、怖い。この何気ない話がだんだん怖くなる。
「和泉さん!」
「え?」
「聞いてます?」
「あ、ごめんちょっとボーってしちゃって」
「なんか休みの間に有りました?」
興味ありそうな顔で香川さん聞いてくるけど休みには何もないよ。なんにもね。あったのは……休みの前の日だよ。
「ないよ。それより化粧直ししなくていいの?」
「あ! しまった」
今日も不思議な物を見るように香川さんの変貌を見ている。香川さんの彼氏って香川さんの素顔見たことあるのかな? と余計な事を詮索してしまう。
デスクに戻り、さっきとは違う緊張感の中仕事を続ける。いったい彼は、私のことなんだと思っているの?
長い一日が終わった。つ、疲れた。これって想像以上に疲れる。
更衣室に入ってまた別の緊張が。まあ、普通、着替えてる人の胸なんか、わざわざ見ない。見ないけど、見えちゃう時もある。そこに……ね、痕があるなら……ね。なので誰にも見られない角度でワザと着替える。化粧室で胸にもファンデーション、もう一度塗っておけばよかった。ファンデーションがすっかりとれてしまってる。慌てて着替えてなんとか人目に触れずに済んだ。明日にはも少し薄くなってるかなあ。
そして、揺られる帰りの電車をホームで待っていたら、彼! からメールだ。
『ご飯食べよう』とまた地図付きで送って来た。
『うん。行きます』
と返事を返して改札を出る。
こ、これってなんだろう? なんなんだろう?
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