修羅にまつわる嫌い愛

蜂郎

善意の嘘、或いは名前の無い怪物


 この感情を、なんと名付けるべきだろう。

 火のように苛烈に、怒涛のように容赦無く、岩のように頑で、風のように留まらない。

 この胸に蟠る、怪物の名前。

 目を凝らしても見えないこの怪物に、もしも形があったなら。

 きっとそれは、愛とは反対の姿をしている。





***





 一人暮らしの人間にとって、月曜の朝の挨拶は大きな意味を持つ。

 特に、土曜日曜と人間と会話せず過ごす僕のような人間にとっては殊更に。

 初めて交わす会話。今後一週間の吉凶を占う、一番大事な第一声――


「うわ、ブッ殺したい」


 ――この物騒な文言が、僕が今日という一日で初めて聞いた他人の肉声という事になる。今後一週間の吉凶をこの言葉に見るならば、悲しいほど明らかに凶だろう。

 朝学校に来て、隣の席の僕の顔を見て、第一声がこれだ。


「……おはよう、八雲」

「おはようございます、四堂シドウ。相変わらず他人の殺意を無闇に煽る面相をしていますね。夜道には気をつけた方がいいですよ」


 挨拶に続いた言葉もまた、不穏に過ぎる。

 朝イチから夜道の心配をされるというのは、中々新鮮な体験だ。


「……それは何、脅しかい?」

「忠告ですよ。もしかしたら暴力的な人間があなたのその神経質ぶった青びょうたんな面を見て、素っ首ハネ飛ばしたくならないとも限りませんから」


 また不穏な発言。その顔には、ただ口角を吊り上げて目を細めただけの、明確な作り笑いが張り付いている。

 雪のように白い肌とコントラストを織り成す絹のように艶めく黒い髪。桜色の唇は被造物の笑みに歪み、細めた瞼の奥の瞳は、剣呑な刃のようにギラリと光る。

 一度見たら忘れないような、嫌な笑顔の女。

 学び舎の下で、常に学友の首を狙う殺人者(暫定)――八雲 椿。それが、彼女の名前。


「今朝も随分退屈みたいだね。そんな与太話ばかりして、まるでキャピキャピの女子高生みたいじゃあないか」

「む………」


 声に出してむっとする八雲。

 彼女には友達が居ない。比喩では無く、本当に一人も居ない。

 実家が大昔から続く剣術道場で、その当主の一人娘(なんともうさんくさい肩書きだ)である彼女は、幼少から厳しく育てられたらしく、友達を作る暇も当然無かった。そうして修練に励む内、いつしか何も考えずに遊び呆ける同年代の人間が酷く矮小な存在に見える程の精神的な高みに至った…………と、かつて本人が語っていた。

 つまるところ、彼女は同年代の女子という存在を見下しており、同時に嫉妬しており……大嫌いなのだ。簡単に言うと。いつも顔に貼り付けた鉄面皮の作り笑いが歪む程に。


「あんな想像力の欠落した幼稚で非生産的な下等生物と私を同一視しないでください」

「君も女子高生なのはまぎれもない事実だからね、念のため」


 繰り返すが、彼女は友達が居ない。比喩では無く、一人も居ない。

 当の僕も友人として談笑しているのでは無く、敵同士として互いにいがみ合っているだけなのだ。


「貴方と話していると、修行の成果を試したい気分になります」

「やってみろインチキ剣道屋」

「……それが貴方の辞世の句で間違いありませんか? 四堂 ヒジリ。なるほど、貴方のヘボい人生の幕引きにはお似合いだ」


 八雲の表情が、笑みの形のまま凍りつく。刃の怜悧さそのものの、酷薄な笑み。

 蛇に睨まれたカエルよろしく僕が身を固めたその時、示し合わせたように、始業の鐘が鳴った。

 同時に担任が教室に入り、朝のホームルームが始まる。勝負はお預けだ。

 担任の朝の連絡を聞く中、八雲は不意に僕へと首を廻らせ、声を出さずに口だけを動かし、


「……コ・ロ・ス…………?」


 声なき声に、中指を立てて答える。

 僕らの存在は誰の気に留められること無く、時間だけが流れていく。

 これが、八雲 椿と僕との日常であり、僕の灰色の学園生活の、その最もありふれた一コマだった。




***




「おいウジ虫」


 放課後。帰り支度を整える僕の後頭部を、鈍器で殴られる衝撃が襲った。

 鈍器の正体は教科書を満杯に詰め込んだ鞄で、その持ち主は、説明するまでもなく八雲だった。


「……誰がウジ虫だ、このサイコパス女」

「貴方に決まっているでしょう。ウジ虫で不服ならゴミムシか、青びょうたんにはおあつらえ向きにもやし野郎とでも呼びましょうか」


 作り物じみたうさんくさい笑みを浮かべたまま。八雲は普段通りにそう言った。憎らしいと思うことすら忘れるような、理不尽なまでの悪辣ぶりであった。


「ボッチの貴方はヒマでしょうが、私はそうではないので、単刀直入に本題に入りましょう」

「僕はボッチじゃない、友達が少ないだけだ。お前こそ友達『無』じゃないか」

「生憎、必要無い物は持たない主義なんです」


 言うなり八雲は鞄から何かを取り出し、僕の机に叩きつけた。

 紙のようだった。封筒に入ったそれは……


「脅迫状?」

「馬鹿かてめえ」


 渾身のギャグが鼻で笑い飛ばされる。養豚場の豚を見るような目のおまけつきで。


「見ればわかるでしょうが。ラブレターですよ」

「開けたら爆発するんじゃないか」

「もう開けました」

「縦読みで死ねとか殺すとか……」

「真っ先に試しました」

「じゃあ斜めか、それか漢字と平仮名でモールス信号に……」

「有りません。殺しますよ」


 言いながら、もう一度鞄で殴られる。殺しますよと言いながら既にそれを実行にかかっている。なんともふざけた人間が居たものだ。


「非モテのクソぼっちが、他人の成功を僻まないで下さい」

「僻んで無いし!」

「見苦しい……人間こうはなりたく無いですね」


 心の奥底にある僻みを見透かされて、完全な敗北感を味わわされる。無理だ。この時点において、僕はこの女に完全に負けている……!


「じゃあ何の用だよ! 自慢か!? 僕を嘲笑いに来たのか君は!? ええ!?」

「違いますよ、お願いがあって来たんです」

「…………お願い?」


 酷く不穏な匂いがする。

 何故だろう、ついて行きたく無い……


「ここではなんです。さ、行きましょう」

「待て! まず内容を言え!」

「…………」

「無視するな! おい!」


 襟首を掴まれて、僕はそのまま引きずられて拐かされてしまった。




***



「…………ず、ずっと前から好きだったんですぅ」


 気の抜けた声で、腑抜けそのもののセリフが校舎裏に響く。

 これが自分の声だとは、正直信じたく無かった。


「気合が入ってない。やり直し」


 腕を組んで憮然としたまま、八雲が吐き捨てる。

 彼女のお願い……ラブレターに書かれた30分後の約束の時間を前に、予行演習をしたいのだと言う。

 拒絶は、彼女がちらつかせた木刀によって阻まれた。


「くっ、屈辱だ……!」

「この美少女に告白出来るんです。光栄に思って気合を入れなさい」

「自意識過剰女め、フラれちまえ」

「ラブレターで呼び出されてフラれる馬鹿が居ますか」

「くっ、」

「さあほら気合を入れて! ほらほら早く、時間が無いですよ! ばちこーい!」


 両手をバンバン叩いて、勝ち誇った半笑いで。

 憎らしいが、ここで拒んだら負けな気がした。


「……ずっと前から好きでした」

「ごめんなさい。無理です。好みじゃありません。死んでください」

「なんでだよ!」

「はっ、つい相手が四堂だと想定してしまいました」

「どういう意味だ!」

「まあまあ」

「まあまあじゃない! なんだお前、もし僕よりダメなフェイスのヤツが来たらどうするつもりなんだ!?」

「居ないでしょ」

「断言するな! 僕はこれでもイケメンで通ってるんだぞ!?」

「うえ気持ち悪い、自意識過剰ですよそれ。それに、仮にイケメンだったとしても貴方がぼっちなのは変わり無いし、むしろそれで誰からも好かれないと言うのは、逆に貴方の人間性のクズさの証左じゃないんですか?」

「ぐぬぬ……!」

「私もこれから切り落とす首についた目鼻の造形なんてどうでもいいですし」

「さらっと何言ってんだお前」


 怒り心頭ではありながら、日々同様のストレスに慣らされているためか、頭の片隅は酷く冷静に、一つの疑問を導き出していた。


「……ていうか、意外なんだけど。こういうの嫌いだと思ってた」

「こういうの?」

「恋とかなんとか、そういうやつ」


 即時切り捨てられるかに思われた疑問は、数秒を経ても宙ぶらりんのまま、沈黙を保っていた。


「……恋とはどんなものなんでしょう」

「なに?」

「本を開けば、やれ恋人が死んだだの、振ったの振られただの、そんな事で憎んだり殺したりするじゃありませんか」


 不意に語り出した八雲の表情は、何故かひどく深刻だった。

 かつて見たことが無いほど、真剣な表情だった。


「何故そんなに他人のことで真剣になれるのか、私には全く理解できないんですよ。見えないんです。幽霊と一緒」

「…………」

「誰もがそんな凶暴な怪物のような感情を自分の中に飼っていて、それが本当に私の中にも在るのか……それを知りたい。知ってみたい。それだけです」


 この殺人衝動が服を着て歩いているような、コンプレックスと僻みと嫉妬の塊のような女が、恋に恋している。

 普段なら鬼の首を取ったように、烈火のごとく馬鹿にする所だ。

 けど、今日はそうしなかった。今は何故か、そんな気分じゃなかった。


「……やるよ、時間が無いんだろ」

「やっと乗り気になりましたか。まあ私クラスの美少女に告白するなんて、間違いなく貴方のヘボい人生のハイライトでしょうから、演技とは言えせいぜい噛み締めてくださいね」

「言ってろ自意識過剰女」


 我慢だ。今はそうすべき時だ。

 珍しく真剣になってるんだから、付き合ってやろう。

 こいつ、さっきからずっと声震えてるし。



***



 30分後。先程までの予行練習を行っていた場所で、八雲は仁王立ちして相手が来るのを待っていた。

 「来るな」と言われたものの気になって仕方がないので、僕は物陰からこっそり聞き耳を立てる事にした。練習に付き合ったのだから、それくらいの権利はあるだろう。



「あっ、ごめんなさい待ちましたか」

「いえ、今来た所ですよ」


 現れた手紙の主に、練習通りの答えを返すのが聞こえる。

 これが上手くいったらどうなるだろう。

 八雲は今まで見えないままに焦がれていた恋の正体を知覚するだろうか。受け入れるのか、否か。もし受け入れれば、今までのような関係も終わるのだろうか、などと……


「ん?」


 考えて、違和感に気付いた。聞き耳を立てていただけで、おかしいと思える事があった。


「ずっと前から好きだったんです!」

「いや、」

「ずっと憧れなんです! 剣道部との練習試合を見学した時からずっと! 強くて凛々しくて美しい八雲さんの事が大好きなんですっ!」

「あの……」


 それは、声。

 思わず物陰から身を乗り出して、二人を見る。視界に映ったのは、青白い顔で立ち尽くす八雲の顔。

 そして――


「私っ、見てるだけで良いんです! ただ知って欲しかったんです! 私の気持ちを!」


 ――その目の前で真っ赤になって叫ぶように告白する、女子生徒。


「あ」


 何よりシンプルに、僕は特訓が無駄になったのを悟った。




***




 それから暫くして、僕は帰路につく八雲に偶然を装って近付いた。

 我ながら白々しかったが、生気の全てを吸い取られて歩く死体のような彼女は、そんな事には頓着しないようだった。


「や、やあどうだった。上手く行ったかい」

「四堂……」

「特訓の成果は出たかい」

「…………」


 見た目にも憔悴しきって、皮肉も嫌味も殺害予告も出てこない。

 負けたのだ。彼女は恋に破れたのだ。今まで焦がれ続けた、恋への恋に。


「…………振ってやりました。ひどいブサイクだったので」

「…………そうか」


 真実を言わないのが善意に繋がる事もある。

 彼女なりの善意なのだろうか。特訓に付き合った自分に対しての、その努力を尊重しての。


「脂ぎってて体重100キロオーバー。一人称は拙者。流石に、鼻差ではありますが貴方の方がマシでしたね」


 そう言って笑った彼女は、いつもとは違った本当の顔で笑っているような、そんな気がした。


「まあ良かったんじゃない。君みたいな人格破綻者には恋愛はまだ早かったって事でしょ」

「むかつきますね、その上から目線」

「まあまあ」


 自分の中に、怪物のような荒ぶる感情があるのだろうか、と彼女は言った。その正体が掴めず、幽霊のように目には見えない、と。


「良いんじゃないの、いつか良い人が見つかるさ」

「無責任な」


 その感情に――胸の内に蟠る、幽霊のように不確かな、目には見えない感情に、姿が有ったなら。


「――それに、僕も居るじゃない」

「……へ?」


 幽霊の正体見たり枯れ尾花。

 きっとそれは、存外つまらない姿をしているに違いないと、そんな気がした。


「………そんなセリフは……」


 絹のように艶めく髪。桜色の唇は小刻みに震え、目は驚愕に見開かれる。雪のように白い肌には、ほんの僅かに朱が差していた。


「…….貴方が言うには、ちょっとかっこよすぎますね。似合わないです。死んでください」


 言葉だけは刃のように鋭く。

 帰ってきた答えは酷薄な真実か、或いは、その反対か。


「大体、自分が選択肢に入ると本気で思ってるんですか? それとも普段から私をそういう目で見てたと?」

「はあ?」

「うっわ気持ち悪い。サイテー。性犯罪者。死ねばいいのに」

「おい!」


 火のように苛烈に、怒涛のように容赦なく、岩のように頑で、風のように留まらない。

 この感情の名前は――


「せっかく慰めてやろうと思ったのに、本当お前って奴は! そのクソをドブで煮詰めたみたいな人間性どうにかなんないの!?」

「そんなの頼んでませんし。それに何を今更。お互い様でしょうが」


 ――きっと、愛とは反対のものの名前をしている。

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