反復するトラジティ2

     (三)


 授業には全く頭が働かなかった。猫に聞きたいことがいくつもある。これから暮林さん達と食事をして、皆とは異なる帰路を辿って猫を呼び出す。そんな計画を立てつつ、僕は鞄を取り、暮林さんの肩を軽く叩いた。


「暮林さん、帰ろうか」

「あ、う、うん」

「秋山――と、川田さんも」


 呼びに行こうと思っていた川田さんは、既に僕達の傍まで来ていた。口元に手を当てて眠たげに欠伸を漏らした彼女は、暮林さんの袖を引っ張る。きょとんとしている暮林さんに、彼女は「いこ」とだけ言って歩き出す。暮林さんは疑問符を何度も発しながら、引っ張られるまま歩いていってしまった。

 呆然と、教室から出て行く二人を見ていた僕と秋山だが、僕は置いていかれたことに気が付いて「あ」と大口を開ける。


「ちょっ……秋山、行くよ」

「あ、ああ!」


 秋山と早足で廊下に飛び出して、二人の後姿をすぐに見つけることが出来た。川田さんの明るい髪色は、黒髪ばかりの生徒の中でよく目立つ。正直、僕が今こういう状況じゃなかったら、絶対に話しかけないし避けて通り過ぎたい部類の人間だ。けれど、最初に声をかけてから現在に至るまでの彼女の態度を見ていたら、話しかけて良かったと思った。

 暮林さんの友達を作るなら、もっと地味で大人しめな女子生徒に声を掛けたほうが良いような気がしたが、川田さんが自分から暮林さんの手を引いたのを見た時、ほっと胸を撫で下ろしていた。外見から受けた第一印象で、勝手に内面まで決め付けて相性の良し悪しまで想像するなんて、失礼だったと己を恥じる。

 二人が仲良くなってくれれば良いな、と願いながら、僕は秋山と並んで階段を下る。視線の先にあるのは、目の前にいる二人の後頭部だ。川田さんは正面しか見ていないにもかかわらず、その手がしっかりと暮林さんの手首を掴んでいた。そんな彼女にどう接していいのか分かっていないのだろう、暮林さんは彼女の横顔を覗き見たり、正面に向き直ったり、自身の手首を見下ろしたりと、落ち着かない様子だった。

 下駄箱で靴に履き替えていく二人を微笑ましいなと眺めていたら、秋山に肩を叩かれる。


「時雨、なにぼうっとしてんだ? 早く行こうぜ」

「え、ああ、うん――……」


 ふと、気が付く。僕は自身の下駄箱の場所を知らない。そもそも靴が用意されているのかどうかも知らない。

 この状況をどう自然に切り抜けるか、考えても上手い策は出てこなかった。結局、苦笑を浮かべて鳥頭なふりをするしか手はなさそうだった。


「あー、僕の靴、どこだろ」

「そっか、初登校だと覚えられないよなー。多分俺の下じゃねぇかな。その列の一番上が川田さんだから。来たとき一番下に入れなかったか?」

「あ、ああ、そう、だったかな」


 これで違ったら誰かに迷惑がかかる。とりあえず履いてみて、サイズが合いそうになかったら別のところを開けてみよう。

 脳内での一人会議を終えて、膝を折った。秋山の下駄箱の一つ下に目を付け、戸の下方の隙間に指を引っ掛ける。そのまま上に持ち上げてみると、中には革靴が綺麗に並べて置かれていた。

 焦げ茶色のそれを二本の指にぶら下げて、足元に落とした。

 汚れすらない、新品なのではと思うくらいの綺麗さに、安堵する。これは僕のために、猫が用意したのだろうと思えた。尤も、他の生徒が新品の革靴に履き替えたばかり、という可能性も僅かながらある。

 けれど、中へ潜らせた足に靴が馴染んで、不安はすぐに霧消した。


「時雨、お前、靴履くのになんでそんな真剣な顔してんの」

「他の人のだったらどうしようって思ってただけだよ」


 秋山に笑われて、張っていた気が一瞬で緩められた。そこでようやく、自分だけに当てられていたスポットライトが地明かりの光に溶けていく。暮林さん達を追いかけないと、と己の足を急かしたが、すぐに二人の姿が目に入って転びかける。

 先に行ってしまったのだと思っていたが、二人は昇降口から僕らの様子を窺っていた。ほっとしてから、二人に近寄った。


「待たせてごめん」

「あ、えっと、大丈夫だよ」


 ぎこちなく笑いながら暮林さんが手をひらひらと横に振る。その隣で川田さんが不機嫌そうな瞳をしていたが、その虹彩は校門の方を映す。

 暮林さん達を通り越して、僕と秋山が先を歩く。校門を潜るや否や、気怠げな声が背中に刺さった。


「ご飯って、どこで食べるの」


 言下に返そうとしたが、深く考えていなかった。この辺りにどんな店があるかすら僕は知らない。食べ物を食べる場所と言ったら、ファストフード店かファミリーレストランだろうか。

 校門から少し離れた歩道で足を止めて、空に浮かぶ橙色の光を眺望して思案していると、秋山が背後を振り返った。


「ファミレスでいいんじゃね? 駅前にサイゼあるだろ」

「駅前ならマック寄ってからカラオケ行きたい」

「川田さん、それ全部秋山に奢らせる気?」


 僕が苦笑したら、川田さんは表情一つ変えずに頷いた。頭を抱えている秋山を見ていると笑ってしまう。面白がっている僕と騒いでいる秋山と違って、川田さんも暮林さんもとても静かだった。川田さんは相変わらず眠たげな目のまま、「マックとカラオケ行かないの?」と秋山に詰め寄っている。

 一方でだんまりを決め込んでいる暮林さんには、僕から近付いてみた。川田さんを見ていた暮林さんの黒目はすぐに僕の方へ動く。


「あ、明坂くん……?」

「暮林さんは、どこが良い? あんまり外食とかしないかな?」

「えっと……」


 夕方だからか、睫毛に陰を落とされているその双眸がやけに暗く見えた。戸惑うように右へ左へと動く瞳は、もう僕を見ていない。恥ずかしそうに、ほんの少し震えている唇がようやく声を伴った。


「か、カラオケは、あんまり行ったことない、けど……楽しそう」

「……あー。秋山、ご飯じゃなくてカラオケ行こうか」

「は!? なんでそうなった!?」


 川田さんと話していたようで、秋山はこちらの話を一切聞いていなかったみたいだ。「暮林さんが行ってみたいって」と、暮林さんの方を指差してみれば、秋山も仕方なさそうに肩を落としていた。


「じゃ、こっちだな。行くか」


 校門から見て右手側に進み始める秋山を追いかける。駅前までの道すら知らない、なんてことを悟られないように、秋山の進行方向に集中した。

 曲がり角や信号に差し掛かるたび、別の道に僕一人だけ進んでしまわないか、緊張する。

 それでも気持ちは表に出すことなく、微笑の仮面を顔に貼り付けたまま、三人と言葉を交わしながら進んだ。


「そういえば、僕もカラオケ行ったことないんだよね」

「時雨は歌、得意なのか?」

「……まさか。ものすごく音痴だから、多分一曲も歌わないよ」

「いや、一曲くらいは歌えよ。なんの為に行くんだよ」


 秋山と笑い合っていても、僕は首の後ろに冷や汗をかいていた。歌なんて知らない。生前の僕は知っていたのかもしれないが、生前知っていた曲すら思い出せなかった。

 どうやら、記憶はそう簡単に蘇るものではないらしい。まぁ、暮林さんを助けるのに僕の生前なんて関係ないだろう。

 けれど、気になりはする。自分がどう生きて、どう死んだのか。

 ふと、猫の声が鼓膜の内側で蘇った。「罪を犯して死んだ君がチャンスを与えられ――」。


「罪……?」


 聞いた時は、聞き流してしまっていた。だが今思えば、何故その部分を詳しく聞かなかったのだろうと後悔した。

 例えば、もし、自分が人殺しだったなら。もし、簡単に人を傷付けるような、汚れた心の持ち主だったなら。

 微笑んだ暮林さんに向けられたあの声が、本当に僕のものだったなら。


「…………猫」

「明坂くん?」


 考えれば考えるほど足が前に進んで、その答えを求めて猫を呼んだ。けれど呼び声に返って来たのは自分の名。歩き続けていた足を引き止めたのは、僕の腕を掴んだ、暮林さんだった。

 ぼんやりとした頭のままで振り返ってみたら、彼女の後方で、秋山と川田さんが不思議そうに僕を見ていた。

 なにやってんの、あいつ。そんな嘲笑を聞いたのは、いつのことだろう。遠くからこちらを見る視線が、軽蔑で研いだ刃物と重なる。


「どうか、した? カラオケ着いたけど……大丈夫?」

「……え……、あ……」


 自分がいつのことを見ているのか、過去と今の境界線が曖昧になっていた。カラオケという言葉と、大丈夫の声に、ようやく意識が引き戻される。「時雨、早くしろよ」と笑顔で手を振ってくる秋山を見て、どうしてか心臓が締め付けられた。喉が絞られて、不自然に高い声を出してしまいそうになる。

 駅のホームに入っていく電車の音を聞きながら、小さく息を吐き出して、空気を吸い込んだ。新しく取り込んだ酸素に、僕は頬を緩ませる。


「ごめん、少しぼうっとしてた。ありがとう暮林さん」


 微笑んだ僕の正面で、暮林さんもほっとしたように表情を綻ばせた。その顔をあまり見ていたくなくて、僕は早足でカラオケの入り口まで向かった。

 店内に入ると、秋山と川田さんが受付を済ませ、二人がマイクとコップの入った籠を持ってくる。部屋こっちだって、と、慣れた足取りで進む秋山と川田さんに、僕らも続いた。

 部屋に入り、L字型のソファに四人で腰掛けた。端から、川田さん、暮林さん、秋山、僕の順だ。暮林さんの隣になれて良かったね、と秋山に声をかけようかとも思ったが、暮林さんは川田さんしか見ていない。正確に言えば、川田さんの手元にある機械を興味深げに覗き込んでいる。

 それが、初めて見る玩具に目を輝かせる子供みたいで、少しおかしかった。秋山もそんな気持ちを抱いたのか、優しそうな目見で暮林さんを見守っていた。


     (四)


 結局僕は一曲も歌わず、聴く側に徹して、初めてのカラオケを終えた。暮林さんも初めてだと言っていたけれど、知っている曲があったみたいで、川田さんや秋山と同じくらい歌っていた。三人が歌っているのを聴く中で、この曲は聴いたことがあるような気がするだとか、これは聴いたことがないだとか考えていた。

 暮林さんはきっと有名な歌を多く知っているのだろう。彼女の歌っている歌は結構聴いたことがあるような気がした。

 楽しんだ、といった様子で店を出て行く三人の仲は、だいぶ深まったように思える。学校を出てすぐくらいまでは川田さんと気まずそうにしていた暮林さんも、少しだけ自然に笑えるようになっていた。川田さんも時折笑っている。傍から見れば友達だ。

 今日みたいに、放課後に四人で遊ぶ、ということを続けたら、暮林さんを生かせるかもしれない。

 なんて胸中で考えながら、僕は駅前で三人と別れた。親と電話してくるから先に帰っていて、と言った僕を、誰も不審がらなかったのは、もう日が暮れているからだろう。電話ボックスに入って受話器を取り、金を入れず、帰路を辿る三人の後姿を見送った。

 三人が完全に見えなくなってから、電話ボックスを後にした。あてどなく駅周辺を巡りながら、小声でひたすらに猫を呼ぶ。


「猫……猫……っ」


 なかなか姿を現さないが、声が届く所にはいるのだろう。だから、今すぐにでも姿を現したくなるくらい、大きな声で呼んでやりたかった。そんな気持ちはあっても大声を上げることは出来ない。日暮れ時と言えど、駅前だ。人の通りは多い。

 舌打ちを漏らしてから、少しずつ駅から離れて行く。歩いて五分ほどの所に小さな公園があった。こんな時間だからか、そこに人気はない。なんだか疲れてしまった僕の爪先が、公園内のベンチへ向いた。

 雑踏の中でも、自分の乱れている呼吸音がしかと聞こえてくる。上がりかけている息を整えるように、長い溜息を吐き出した。

 歩道を進んで、柵を通り過ぎて公園に入る。木製のベンチに腰を下ろして項垂れた。


「君がもっと早く人の少ない所に行ってくれたら、すぐに駆け付けたんだがね」


 性別の掴めない声音が耳朶を撫ぜて、僕は顔を勢い良く持ち上げる。目の前の地面に、真っ白な猫が着座していた。空はもう暗い色で塗られているのに、その白さは薄れていない。まるでその体毛が発光しているみたいだ。

 涼しい顔で僕を見上げている猫に、僕は冷笑した。


「神様だから、人に見られるのは困るって?」

「いや、ボクは困らない。困るのは君だろう。そういえば伝え忘れていたね、ボクの姿は人に見えないんだ」


 それは確かに伝えられていないことだったが、さほど驚きはしなかった。時間を戻したり、死者の魂に別の体を与えられる猫だ。

 閉じたままの僕の唇から、ふうんと漏れた。


「別に、次からは周りなんて気にせず出てきて良いよ。その姿が見えないなら尚更。僕が出来るだけ小さい声で話すか、周りを気にしなければ良いだけでしょ」

「ふむ。君が良いなら、次呼ばれたら出来るだけ早く姿を現そう」


 僕は仏頂面で頷く。猫がいないことで今日どれほど困ったか。押し付けるだけ押し付けて簡単に姿を消した猫に、苛立ちが何度も募っていた。そんな僕に「それで、用件は?」と、猫が何食わぬ顔で言ってきた。怒鳴りつけてもこちらが疲れるだけと判断して、僕は冷たくなってきた風をふっと吸った。


「聞きたいことは三つある」

「分かった。一つずつ聞いていこう」

「この体って、元々は誰のもの?」


 宝石みたいな蒼い目を瞠り、猫はそれから頭を傾けた。どういう意図で投げられた質問なのか、理解するのに時間がかかっているみたいだ。数秒の間の後、猫は斜めになっている頭をそのままにして、ああ、と吐き出す。


「借り物だと思ったのかい? 仮の肉体ではあるが、誰かから借りたものではないよ。それはボクが用意したものだ。君の魂しか入ったことがない」

「……そっか」


 とすれば、僕の心が肉体に何かしら影響を受けているかも、なんていう仮説は成り立たなくなる。それが分かってしまったら、自身への不信感が湧き水のように溢れ出した。そのせいで体が、表情が、強張っていくのが分かる。鏡を見なくても、さながら絶望した人みたいな、ひどい顔をしているんだろうなと想像がつく。

 それを感取してか、それとも気付かずにか、猫が話を先へ進めた。


「二つ目は?」

「あ……。えっと」

「答えられるものは何だって答えよう。だから身構えなくてもいい」

「……君は、僕が罪を犯して死んだ魂だって言った。罪って、なに? 僕は、人を殺したり、したの?」


 膝の上で固めた拳が震える。手の平に嫌な汗が滲んだ。空気がやけに肌寒く感じて、全身が強張った。猫がどこか義務的に答える。


「それは教えられない。君は過去のことより、今のことに目を向けてくれ」

「なんで……」

「君が暮林霖雨を救えたとしても、君は過去に戻れない。君の人生は終わっているんだ。もし思い出しても、どうせ転生する時に忘れさせられる。今の君には、彼女を救うことと、自分が次の人生に向かうことを考えてみて欲しい」


 視界の端で、公園の入り口前を数台の自動車が通過して行く。けれどそのエンジン音が聞こえなくなるくらい、聴覚は猫の声だけを捉えていた。頭の中で、今聞いた言葉を反芻する。

 猫が言っていることは、正しいことなのだと思う。今更過去を思い出したところで、確かに意味なんてないのだと思う。


「……そっか」


 受け入れられそうになかった正論を、なんとか受け入れた。咽喉から溢れそうだった不満を、臓腑に落とし込む。そうしたら、生前の自分のことを知りたいと駄々を捏ねていた自分は、どこかへ消えてくれた。


「自分が犯罪者だったとしても、今の僕は、明坂時雨だもんね。そんなに、深く気にしなくて良いか」

「そういうことさ。君がもし、生前のように罪を犯してしまったら……などと考えているなら、生前のことを知るよりも今と向き合っていればいい。過ちを恐れるなら、過ちを犯さないようにすればいい。それだけだろう?」


 ご尤も。僕は口角を少しだけ持ち上げて、小さく頷く。

 自分が何者か分からない不安のせいで、暮林さん達と僕が普通に接して良いのか、ということまで分からなくなっていた。過去、何者だったか分からなくとも、ここにいる僕は僕でしかないのだ。今出来ることをやれば良い。そんな簡単なことはすぐ目の前にあったはずなのに、後ろばかり見ていたせいで見えていなかった。

 憑き物が落ちたような顔をしているからか、猫はご満悦といった様子で双眼を細めていた。

 もう用は済んだため、曲げていた膝を伸ばしてベンチから尻を離した僕は「あ」と漏らした。


「そういえば、家ってどこなの?」

「ああ、家も家族も用意していないよ。その代わりホテルを借りてある。朝食と夕食は付いているから、昼食だけ適当に買うといい」

「昼食のお金はくれるんだよね? あとさ、携帯電話欲しいんだけど」

「勿論、必要最低限のお金はボクが用意する。けど携帯電話か……」


 これまで猫という動物に表情があるとは思ったことがない気がするが、この猫に会ってから猫の表情というものを知った。柔らかそうな額を動かして変えられる目付きは、人とあまり変わらない。

 だからこそ、猫が嫌そうな顔をしているのだな、とよく分かった。


「……悪いけど、そこまでは支援しない」

「携帯電話くれないの? 必要だよ、必要」

「無くてもやれるだろう? あとで君が居た事実を消す際、面倒事が増えるからやめて欲しいんだよ」

「ケチだなぁ」


 落胆する僕の前で、白い尻尾がゆらゆらと揺れる。猫じゃらしにつられる猫みたいに、僕は遠ざかるそれへ飛びつこうとした。


「ちょっ、どこ行くの」

「君の用が済んだみたいだから帰ろうかと思ったんだが、まだ何かあるのかな?」

「当たり前でしょ。ホテルとお金」


 申し訳ないという素振りを一切見せずに、忘れていた、と猫が言った。肺に溜まっていた息を全て吐き出すように、数秒かけて溜息を吐いてやった。

 夕焼けを硝子に閉じ込めたみたいな、橙色の街灯に照らされる夜道を、猫と共に歩いて行く。夜の街といってもまだ二十時頃だろうし、大通りを進んでいるからか、雑踏は薄れない。

 仕事帰りのサラリーマンや、店のチラシを配っている店員、はしゃいでいる学生達の間を縫うようにして、猫はさっさと歩いていってしまう。猫ほど小さくも細くもない僕は、半ば置いていかれそうになりながらも、白い毛玉を追いかけた。

 ようやく着いたのは、秋山達と別れた駅前から、十分ほど歩いた先のホテルだ。近くにはコンビニエンスストアや焼鳥屋、ラーメン屋もある。食べ物には困らなさそうだ。といっても、朝食と夕食は出ると聞いたから、利用するとしてもコンビニくらいだろう。

 辺りを観察していた僕に、猫が言った。


「ここのホテルに入って、受付で名前を言うと良い。そこから先は大丈夫だろうから、後は好きにしてくれ。ボクは君が困った時に、また現れることにするよ」


 え、と間抜け面を形成しているうちに、猫は僕の横を通り過ぎて車道へ飛び出してしまう。振り返ってみると、左へ進む車と右へ進む車の波に飛び込んで、猫は姿を消してしまっていた。

 もう少し心臓に優しい去り方は出来ないものか、と思いつつ、ホテルに向き直る。ガラス製の自動ドアまで十歩といったところだ。後ろに人がいたなら、早く入ってしまえと僕の背を押したかもしれない。

 なかなか足が前に進まないのは、緊張のせいだ。

 生前の僕がいくつだったかは知らないが、今の僕は中学生だ。一人でホテルなんて行った記憶がない。説明されたようにやって、順調に事が運んだとしても、その先になにがあるか分からないからなんだか不安だった。

 どのくらいの間、その場で立ち竦んでいたのだろう。左右を見たり、ホテル内を窺ったり、まるで不審者だ。ようやく意を決し、僕は扉の前に立った。

 自動ドアと思った扉は開かない。心臓を縮こまらせて目線を下ろすと、ボタン式の自動ドアであることに気が付いた。

 誰も見ていないのだろうけれど、恥ずかしさが全身の血を沸騰させて、僕の肌を赤く彩った。八つ当たりみたいにボタンを指の腹で強く叩く。ガラス戸が左右に引っ込んで、僕はようやくホテル内のタイルを踏んだ。


     (五)


 昨夜は本当に名前を言っただけで鍵を渡され、部屋まで案内された。食堂は一階にあって、そこで夕食を食べるとすぐに部屋へ戻り、風呂を済ませてから就寝した。部屋には机と椅子、テレビ、クローゼットやベッドなどが置かれている。寝ぼけ眼を擦りながらベッドを這い出て、机の上をちらと見たら、長財布が乗っていた。

 ああ、猫が用意してくれたんだな、と手に取り、何気なく開いてみる。一万円札が数枚、千円札が数枚入っていた。中学生の小遣いにしては大金だ。札に混じって、一枚メモ用紙が入っているのを見つける。

 なんだこれ、と取り出して見れば、メッセージが書かれていた。


「必要の無いものに金を使った場合、天罰が下る……って、脅迫しなくても大事にするよ」


 猫に聞こえるかどうかは分からなかったが、声に乗せて小さく笑った。別に聞いていなくたっていい。なんとなく、声が出てしまった。

 さてと、と独り言ち、僕は身支度を整えて、一階へ向かう。受付の女性に鍵を預けると「行ってらっしゃい、気を付けてね」なんて、まるで子供にかけるような言葉で送り出された。中学生は確かに子供だけれど、一応は客なのだから、もう少し普通の客として扱って欲しかった。なんだか、面映ゆかったのだ。

 けれど、嫌な気はしなかった。胸が温かくなって、たかが営業スマイルと挨拶に何故感動しているんだと自嘲する。

 ホテルを出ると、陽光が真っ向からぶつかってくる。白い光がやけに眩しく滲んだのは、寝起きの瞳だからだろうと思った。目を擦ったら、その表面に張っていた膜が破れて雫を零す。


「え……?」


 欠伸をした覚えはないのに、気が付くと、わけも分からず泣いていた。なにが悲しいのか全く分からなかった。ただホテルに泊まって、いってらっしゃいと手を振られて、当たり前の朝に飛び込んで、それらのどこに悲しいことがあったのか、僕には推し量れもしなかった。

 涙が止まるまで目元に手を当て続けた。深閑とした朝の、ひやりとした空気が少し冷たい。濡れた頬から体温を奪っていく。

 車が駆け抜ける音や、人が通り過ぎて行く靴音を聞けば聞くほど、早く泣き止まなければ、と思った。

 必死に涙を引っ込めて、ようやく僕は顔を上げる。何事もなかったかのような涼しい顔を貼り付けて、学校を目指した。

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