反復するトラジティ1
降り注ぐ雨の温度が分からない。黒と灰と藍を混ぜ合わせたような空は、温かくも冷たくもない無色透明の雫を零し続けていた。
下げた視界に映るのは、雨に濡れた床だけ。前を向けば緑色の柵が目に入った。柵の手前にはきちんと揃えられたローファーが置かれている。その上に乗せられた封筒は、きっと綺麗な白をしていたはずだ。今や雨のおかげで灰色になってしまっていた。
この光景が何を意味するのか、寝起きのようにぼんやりとしている頭では考えられない。
ただ、柵を越えなければ、と思った。
どうしてかは分からない。靴を脱いでそこに手紙を遺したら、あとは飛んでしまうだけ。それが当たり前のこととして脳にインプットされているようだった。
前――柵の方へ、進もうとした。足音は鳴らない。足が動いた感覚もない。けれど確かに前進している。それは、近付いた柵や靴が証していた。
手を前に伸ばした。柵に指を掛けるつもりで、前へ、伸ばしたつもりだった。瞳に自身の腕は映らない。動いた様子もない。
では、自分はどうすれば良いのだろう。
何も出来ない時間は焦りを生んで不安を掻き立てる。雨音がひたすらに鼓膜を打つ。頭上から注がれている雫が触覚を刺激しないなんて、不気味だった。
わけも分からぬまま佇んで、ゆっくりと瞬きをする。と、いつの間にか、靴と手紙の前に真っ白な猫が座っていた。
未だ止む様子のない雨は、猫の足元の床へ染み込んでいく。白い毛並みは汚れることを知らないみたいに、綺麗なままだった。息を飲んでその白さに視線を奪われていたら、耳に声が届いた。
「君に救ってもらいたいんだ。ここで自殺をしてしまう女の子を」
猫の口元が、声の通りに動く。この猫が喋っているのだということは分かったが、猫は喋る生き物だったか、記憶が曖昧だ。意識も何もかも朧気な中、自殺という響きがやけに鋭く耳を突き抜けた。詳細を問いかけたいのに声が出ない。そのことに気付いたのか、猫は晴空の如く澄んだ蒼の双眸を僅かに大きくして、こちらを見つめてくる。
「済まない。そのままでは返事を聞けないな。仮の姿を与えておこう」
猫の、男とも女ともとれる不思議な声色に聞き入っていれば、すぐさま目の前が真っ白になる。眩しい、と感じたのは一秒程度の短い時間だ。次第に白さは薄れ、冷たい雨が頭にかかる。
はっとして頭に手をやった。さらりとした髪の毛の感触が手の平に伝わる。目の前にその手を持って来てみたら、ちゃんとした人の腕と黒い袖の上で雨が跳ねていた。
「あ……」
「どうだろう。身体は動かせるようだが……声はうまく出せるかい?」
「あ、うん。いや……えっと……」
自分がどういった口調で話していたのか思い出すことが出来ない。たどたどしくも返事をしてみせると、猫は目を細めて「良かった」と微笑んだ。
「君は裁かれないといけない魂なんだ。本来なら、二度と転生が出来ない。けど自殺のように、死ぬべきではない時に死んでしまう人を助けることで、その魂の罪を許すことになっている」
「……つまり、私――違うか。僕? ……つまり自分は、人助けをしなきゃならないの? 見ず知らずの人間を? それとも面識がある?」
口から出た自身の声は、少年のようだ。一人称すらどうすれば良いか分からず、戸惑いながらも問いかけると、猫は白い頭を上下させた。
「君に与えた姿は仮のもので、これから与える名前も何もかもが仮のものだ。だから、相手は君の言う通り見ず知らずの人間、ということになる。君は事故でずっと休んでいた少年として、彼女と同じクラスで一ヶ月過ごしてもらうつもりなんだ」
「一ヶ月?」
「そう。今ボク達がいるのは、その子がもう自殺してしまった日。今から一月前の時間に君を送り込む」
聞き取りやすい速さで淡々と話が進んでいく。説明をしかと頭に刻みながら、はっとしたように猫へ詰め寄った。
「待ってよ。一ヶ月しか時間を貰えないの? 一ヶ月で、私――僕が、その子を救えるって思ってるの、か?」
「救えなかったら君は転生出来ずに消されて、彼女が死ぬ。それだけだ」
「なにそれ……死ぬって分かってる人間を救わなくて良いんだ? もっと期間を」
「君にチャンスをあげるのは一度だけ。期間なしにするわけにはいかないんだよ。それに、これは君だけじゃなくて彼女にとってのチャンスでもある」
この猫が命の価値をどう見ているのか推し量れない。彼の第一声であった救ってもらいたいという言葉には、誠実で切実な音吐が伴われていた。というのに、チャンスなんて単語を使われてしまうと、まるでゲームを楽しむ子供のようにも見えてしまう。
こんな心情を知ってか知らずか、猫は申し訳なさそうに顔を歪ませた。
「つまりね、罪を犯して死んだ君がチャンスを与えられて、自殺をしてしまう彼女が偶然君と巡り合わせられることになった。その偶然の先に起こることが喜劇だろうが悲劇だろうが、それは運命なんだ。一人の人間の人生に干渉出来るのは、いくらボクでも一度だけなのさ」
「……そうだ、あなた――いや、えっと、君。さっき一月前の時間に僕を送り込むとか言ってたよね。しかも人間の人生に干渉するとか……なんなんだ? そんなの普通の猫じゃない」
「ようやく脳が働くようになってきたのか。魂しかなかった君に肉体を与えて、こんな話をしているんだから、もう分かってるんじゃないかな。そもそも、猫は喋らないだろう?」
そうだ。猫は、人の言葉を喋らない生き物だった。開いた口から漏らすのは、にゃあという鳴き声。猫は飼っていなかったから、今頭に浮かんだ猫はテレビに映っていた猫か野良猫だろう。
けれど、この記憶は誰のものだ? 生前の自分のものだろうか。
記憶を辿ってみても、記憶の主に関することは何も思い出せなかった。知識ばかりが脳裏を過る。
「――さて、ボクが何者かというのは君の想像に任せるとして、今から君に名前を与える。君がその名を口にすれば、君は一月前のこの場所に送り込まれる。良いね?」
「……分かった」
自分のことは何一つ分からず、魂の転生だなんて自分にはどうでも良いことを持ち出され、見ず知らずの少女を救えと言われて。それを断ることも出来るはずなのに、なにかに拒まれ断れない。
命を捨ててしまうと分かっている人間を救いたいと思うのは、どこから湧く感情なのだろう。生前は正義感の強い人間だったのかもしれない、などと考えていると、猫が名を口にした。
「
「明坂、時雨……」
ほぼ吐息のような声で呟いてみせると、降っていた雨が上がっていく。灰色の雲が白くなりながら流れて、空が何度も色を変える。群青、曙、東雲、濃藍、そんな色に繰り返し変わって、ようやく落ち着いた色は白藍だ。真っ白な絵の具を出鱈目に引いたような雲が、そっと影を作る。視点を落としてみたら、目の前にあった靴と手紙は失せていた。地面が濡れていた形跡はなく、雨など降っていなかったかのようだ。
青空に浮かぶ太陽に目を細めていると、猫がこちらへ歩き出す。
「君が救うのは中学生の少女。
「姿も名前も仮な僕がいきなり教室に足を踏み入れて、良いの?」
「問題ないように弄ってある」
「……そう。じゃあ、行ってくるけど……困ったら来て欲しい」
「君がボクの助けを必要とするくらい困っている、と判断した時は、また姿を現そう」
猫はフェンスを器用に上って言った。そこからどのように去るつもりなのだろうと見つめていたら、フェンスの外側の床に足を着き、そして真っ白なその身を虚空へと投げ出した。
驚いてフェンスに駆け寄り、下を覗き込む。手を伸ばしても届くはずがない距離に、校庭が広がっていた。ごく普通の校庭だ。血に塗れた猫の死体が転がっている、なんてことはなかった。猫の姿は、完全にどこかへ消えていた。
早鐘を打っていた胸を落ち着かせてから、フェンスに背を向ける。
自分の名と、少女の名と、向かうべき場所。それらを頭の中で反芻しながら、屋上の扉を開けた。
(一)
「あ、明坂!」
教室を探して歩いていたら、背の高い男性に声を掛けられた。短く切った髪や体格からして、受け持っている科目は体育だろうか。しかし白衣を着ているから理系科目である可能性もある。どちらなのか悩んでいると、盛大な太息を吐かれた。
「せっかく骨折も治って復活出来たのに、いきなりサボりか」
「え、あ……いえ」
「もしかしてまだどこか痛むのか? そうなら無理せず保健室に行ってくれよ。じゃあ、先生授業あるからもう行くな」
言うだけ言って本当に立ち去っていく背を一瞥し、再び廊下を進み始める。
奥にある行き止まりから二番目の教室が、三年二組の教室のようだった。閉まっている扉をゆっくり開けると、幾つもの視線が一斉に向けられる。肉食動物の檻に入れられた餌の気分になって全身が強張った。
少しして視線が外された。誰も話しかけてくる者などいない。困りに困って、引き攣った笑みを浮かべながら、一番廊下側の一番前の席に座っていた女子生徒に問いかけた。
「あの、僕の席って、どこかな」
地毛なのか染めているのか、明るい茶の髪が揺れる。控えめな化粧が施された顔は小さく可憐だ。彼女は気怠げに目を細めて後ろを振り返り、面倒臭そうに後方の席を指さした。
「一番窓側の一番後ろ」
端の席ならいきなり付け足されても大きな問題にはならないのだろう。きっと猫がそう考えて仕組んだことだと思う。
「ありがとう。君、名前は?」
「川田」
「川田さん、か。よろしく」
それだけ言って、教えてもらった席へ足を進めた。
ハズレだ。
胸中に嘆声を吐き出す。同じクラスにいれば遅かれ早かれ暮林霖雨がどの人物か分かるだろうが、遅くてはいけない。出来る限り早く、出来れば今日中には彼女を認識し、関わりたい。
席に着いてから教室内をぐるりと見回した。一番後ろというのは良い席だ。目と首だけでも動かせば全体を見られる。
自殺をするということは、虐められているか孤立している可能性が高い。それを意識して見て、目を付けたのは、隣の席の女子生徒だ。
黒く真っ直ぐな長い髪を両肩の上あたりで二つに結い、赤い縁の眼鏡を掛けている。ワイシャツを第一ボタンまでしっかり留めていて、リボンも緩めることなく綺麗に結んでいた。優等生のような身なりをした彼女の机に手を伸ばし、軽く叩いてみた。
文庫本をじっと見つめていた彼女は、その本から手を離してしまうほどの動揺を見せた。
「えっ」
声を出すことに慣れていないような、小さな掠れ声が耳朶を掠める。長めの前髪を黒いピンで留めている彼女の顔は、簡単に窺うことが出来た。地味だけれど顔立ちは整っている方だろう。そんな彼女が、見て分かるくらいに戸惑っていて、思わず笑ってしまった。
「ごめん、驚かせちゃったかな。せっかく隣の席だから、仲良くなりたくてさ。君名前は?」
「……暮林、霖雨」
その名を聞いて、胸を撫で下ろした。見つけられたことを嬉しく思うも、今胸の内に蔓延る感情を表に出さないよう気を付ける。初対面の人間と言葉を交わす時はどんな顔をしていれば良いか、誰のものとも分からない記憶から引き出しながら、笑う。
「よろしく、暮林さん」
「う、うん……」
「あ。僕の名前分かる?」
「明坂、くん」
明坂時雨という人間が本当に存在しているかのように設定されているみたいだ。それを再認識出来て、安堵した。
小説を手に取り直して読書を再開してしまった彼女を横目で見つつ、頬杖を突く。
とりあえず他人から知人程度の関係にはなれた。ここから友人同士になれば良い、と考えていたが、一ヶ月後に自分が消えることを想起すると、それではいけないと考え直す。
ひたすら思議していた僕の耳に、ひそひそ話が流れ込んできた。
「ねぇ、明坂くん、暮林さんと話してたよ」
「暮林さんの隣とかつまんなそう」
「明坂って女好きなんじゃねぇの? 来てから川田と暮林サンとしか話してねぇじゃん」
聞き流すつもりが、どの言葉も流れて行かずに耳に残る。失敗したと歯噛みした。
猫に言われたことを果たすために暮林霖雨と関わることが必要だったとは言え、この身体は男だ。ずっと休んでいた生徒、という注目される立場で、異性の生徒にばかり声をかけていたら女好きと思われても仕方ないだろう。
無意識下で顰めていた顔をなんとか綻ばせ、前の席に座る男子生徒の背をつついた。
「一限目って何の授業かな?」
「一限は、数学だったはず」
爽やかな笑顔を返されて、一瞬息を飲んだ。女子生徒に人気が出そうな相貌をしている彼は、ニコニコ笑ったまま、身体ごとこちらに向き直った。
「俺、秋山って言うんだ。お前は明坂だよな。多分出席番号前後だぜ!」
「あ、そうなんだ。よろしく、秋山」
呼び捨てで呼ばれたため、そのまま呼び捨てで呼び返してみたが、失礼ではなかったか心配になる。彼はどうやら気にしていないようで、笑ったまま新しい話題を出してきた。
「明坂、携帯持ってるか? メアド交換しねぇ?」
「あ……今日はちょっと、忘れてきちゃって。明日で良いかな?」
「そっか、じゃあ明日な!」
「秋山、前向け。授業始めるぞ」
いつの間にか教壇に立っていた男性教師が、気だるげな声を落とした。秋山は焦ったように口角を引き攣らせてから、すぐさま黒板の方へ向きを戻す。
号令がかけられ、僕は机の中に入っていた教科書を取り出した。
(二)
一限から四限までの授業が終わる。それぞれの間にある十分休みの時には、秋山と話したり、隣席の暮林さんを観察したりしていた。
昼休みになった途端、教室中が騒がしくなった。皆鞄や弁当箱を持って席を移動している。僕も昼食を取り出して、暮林さんと共に食べる、ということをしてみようかと思いながら、机の横に掛けられていた鞄を卓上に持ち上げた。
そういえば、この日の屋上に来た時の僕は手ぶらだったし、教科書も鞄も全て机に用意されていた。となると、この教室では朝既に僕がこの席に着いて、教科書や鞄を置いてからどこかへ行ったという設定が用意されているのだろう。
「……猫め……」
先にそれを言え、そして先に席を教えておけ、と文句を垂れたくなった。ものの数分で自分の席を忘れて川田さんに問いかけた鳥頭、みたいに思われたかもしれないじゃないか。
嘆声を吐き出しながら鞄の中を覗き見る。は、と唇に隙間を作った僕の机に、秋山の弁当箱が置かれた。
「明坂、飯一緒に食って良いか? ってか猫って?」
「え? あ、いや……あはは……えっと、今朝白猫に弁当箱奪われたんだよね……」
空の鞄を机の横に戻し、苦笑しつつ秋山を「どうぞ」と迎える。昼食すら用意してくれていないなんて、と奥歯を噛み締めながら、ブレザーとズボンのポケットを漁ってみた。やはり携帯電話はない。というか財布すら入っていない。確実に昼食を抜く流れだ。
はー、と溜息を吐きながら何気なく隣に目をやってみたら、机と平行になるくらい俯いて、周りの声を聞かないようにかイヤホンを嵌めながら、暮林さんが自身の弁当をつついていた。傍にいるのは、隣席の僕とその前にいる秋山くらい。僕は彼女には聞こえないくらい小さな声で、秋山に呟く。
「ねぇ、暮林さんってイジメでも受けてるの?」
「え? いや、イジメみたいなのはねぇと思うけど……」
「へぇ。で、秋山は友達とかいないの?」
「はっ!? いるよ! いつも色んなやつと食ってるよ! 木村とか宮田とか! な!」
秋山は教卓前で固まって食べている四人組の男子生徒に声をかけた。彼らは呼ばれたから向いたわけではなく、初めからこちらの様子を見ていたみたいに、椅子の向きが黒板から見て横向きだった。顔だけを動かして、おかしそうに笑いながら秋山に手を振る四人。
「秋山ー! 新しい友達作り頑張れよー!」
「明坂くんに嫌がられたら戻ってきて良いからなー!」
「嫌がられるようなことしねぇよ!」
楽しそうなやりとりに、何故か、胸が痛んだ。自分はそこに混ざれない、そんな思いが不思議と湧き出してきて、僕の顔を俯かせる。僕は生前、友達がいなかったのかもしれない。
なんて思っていたら、秋山の声が僕の双肩を跳ねさせた。
「時雨!」
「……え?」
「……あれ? 合ってるよな、下の名前」
問われて、自身に与えられた名前を脳内で繰り返してみる。あけさかしぐれ。僕は気抜けたような顔をすぐに正し、微笑しながら頷いた。
「あぁ、合ってる」
「そう呼んで良いか?」
「良いけど、じゃあ僕も、秋山のこと下の名前で呼んで良い? 下の名前は?」
「…………言いたくない」
弁当箱の包を開けながら、秋山が苦虫を噛み潰したような顔つきで手元を睨んでいた。
「……なんで。別に笑わないよ」
「キラキラネームなんだよ、くっそ恥ずかしい」
「教えてくれないなら名簿見にいくだけだけど」
「うっ……」
呻き声を耳にして、そんなに言いたくないなら聞かないし見に行きもしないよ、と続けようとしたが、僕がそれを声にするより先に、秋山が掠れた音を吐き出す。
「翡翠の翠の字と、夢で、
「へぇ……良いね、子供たちに夢を見せられそうな名前だ」
「絶対そんなこと思って……る、のか?」
「グリム童話は、好き……だった気が、したんだ」
「なんだよそれ」
あははと笑う秋山の声が僕の耳朶を叩く。子供の頃の記憶、かもしれない。子供は、童話が好きなものだと思う。でも男の子はそうだろうか? 疑問符を拭い去って、秋山に視点を戻した。
「で、僕は良いと思うけど、名前で呼ばれるの嫌なんだよね?」
「……ああ、だから、名字で呼んでくれよ」
「分かった、良いよ。僕のことは好きに呼んで」
「ありがとな! 時雨って優しいんだな! 唐揚げ一個やるよ!」
弁当箱をすっと寄せられ、僕は礼を言ってから、唐揚げを一つ摘んだ。空腹だった僕の口内で、香ばしい衣と肉の味が広がる。
それを咀嚼しながら後目に暮林さんを見てみたら、彼女がペットボトルの蓋を開けようとしていた。けれどなかなか開かないのか、両手が震えるくらい力を込めていた。
僕はそんな彼女の方に手を差し出す。
「暮林さん」
「っ、えっ、あっ……え?」
クラスメートに名を呼ばれるとは思っていなかったみたいに、暮林さんが眼鏡の奥の目を震わせていた。「時雨?」と秋山が訝しげに投げかけてきたが、気にせず彼女に笑顔を向け続ける。彼女は僕の方――左側のイヤホンをそっと外した。
「な、なにか……」
「ペットボトル、開かないんでしょ? 貸してみて」
蓋に苦戦していた姿を見られていたことに恥ずかしさを覚えたのか、暮林さんの頬が薄紅で色付く。それを見ていたらなんだかこっちまで恥ずかしくなってきて、彼女の手元にあるペットボトルを引ったくった。
ペットボトルの蓋に力を込めてみたものの、なかなか開かない。もしかしたら、僕は非力なのかもしれない。猫め……と再度思いつつも、ぐっと力を込めていたら秋山が肩を叩いてきた。
「なにやってんだよ時雨! カッコ悪いなあ! 一目惚れした子の前でカッコつけようとしてそれはないだろ!」
「一目惚れなんかしてないよ……茶化さないで。暮林さんに迷惑」
「ははは! ごめんなー暮林さん。ほら、時雨貸せって。開けてやっから」
「いい! 僕が開ける」
「時間の無駄だってば」
「うるさい」
結局、僕の手からペットボトルを奪った秋山が、簡単に蓋を開けてしまった。そしてそれを笑顔で暮林さんに渡す。受け取った暮林さんの顔をじっと見ていたら、彼女はぎこちなく微笑んだ。
「ぁ、あり、がとう、ございます」
透き通るような声に、僕は吃驚しながらも、秋山の方を向き直った。いえいえ、と言って手を振っていた秋山が、いきなり僕の胸倉を掴んで引き寄せてきた。目を見開いていたら、秋山がほぼ息に近い声を絞り出してくる。
「俺……暮林さんのことこんなに近くで見たのはじめて」
「そ、そう、なんだ。で?」
「照れながら笑った顔、すっげぇ可愛い。なんだあれ」
「……ええと、秋山、君は何が言いたいの」
「好きっす」
「僕じゃなく本人にどうぞ。ってか君が一目惚れしてんじゃん」
秋山を押しのけて顔を横に向ける。暮林さんはペットボトルのイチゴミルクを数口飲んで、蓋を締めて机の端に置いた。もう食べ終えたのか、弁当箱を小さな鞄に片付け、それを学生鞄に仕舞い込んだ。その所作を見届けた僕はまた、彼女の名を呼ぶ。
「暮林さん、今日、秋山と僕と一緒に帰らない?」
「え」
「待っ、待て待て待て時雨! いきなり何言ってんのお前!」
「あ、そうか。女子一人だと嫌だよね……」
教室内をぐるりと一周見回した。暮林さんに誰かが話しかけている状況がそれほどおかしいのか、色んな人と目が合っては逸らされる。皆、興味津々といったようにこちらを見ていた。非難するように見ている目もあれば、どういう気持ちがそこにあるのか、弓なりに曲がっている目もあった。
そんな中で、一切こちらを見ていない後頭部を見つける。一番廊下側の一番前、明るい茶髪。確か、川田さんだ。彼女は一人で、机に伏していた。
「……ねぇ、川田さん誘ってみて四人で帰らない?」
「えっ」
あからさまに嫌そうな顔をしたのは、暮林さんではなく秋山の方だ。片頬を引き攣らせた彼が首を左右に振り回す。
「俺……ヤンキー怖い……」
「外見で怖いとか決め付けなくても……。暮林さんも、良いかな? 了承してもらえるかは分からないけどさ」
青ざめていく秋山を放置して、暮林さんに言葉を求める。彼女は僕を見ては俯き、俯いては僕を見て、不安げな色をした虹彩を震わせている。
「私……えっと、良いん、ですか? その、一緒に、帰るの。私、なんかが……」
「え、暮林さんが良いなら歓迎するんだけど。君と帰りたいから」
「っ……!? ぁ、あの……良い、です。一緒に、帰れます。明坂くんが、良いなら」
「良かった……六限が終わったら、また声かけるね。あ、それとさ、敬語じゃなくて良いよ」
暮林さんは、終始落ち着きなく手元を弄っていた。人に話しかけられることも、何かに誘われることも、慣れていないみたいだった。その姿が、なぜか自分の記憶に重なる。
けれど記憶自体は思い出せない。ただ、僕もそんなことがあったような、声をかけられてもどうして良いか分からない気持ちが常に胸にあったような、そんな気がした。
僕は歪めてしまっていた目元を緩めて暮林さんから離れた。秋山の腕を引っ張って、川田さんの席まで歩いていく。
川田さんの机を軽く鳴らして起こそうとしたが、どうやら起きていたみたいで、不機嫌そうな眠たげな目が僕を貫いた。眠り姫のように可憐だけれど鋭い目つきに、秋山が僕の腕を後ろへ引っ張る。僕は目線の高さを合わせるべく屈んだ。
「あのさ、今日、一緒に帰らない? 僕と秋山と、暮林さんの三人で帰ろうと思ったんだけど、女子一人だと良くないから」
「……私になんのメリットがあんの?」
「……秋山がご飯奢ってくれる」
「ちょっ――」
「分かった。じゃあ行く」
今にも不満を呈してきそうな秋山の前に手の平を向けて、まぁまぁ、と宥める。行く気になってくれた川田さんにも、また声をかけると言ってから秋山を引き連れて席へ戻った。着席しても秋山はむくれているが、尤もだ。僕は机の上で両手の平を叩き合わせて、その手よりも下に沈むくらい深く、頭を下げた。勢いあまって鼻先が机にぶつかる。
「ごめん、今日は僕お金ないから、明日ちゃんと返すよ」
「いや、別に良いけどさ。先に言ってくれよ。びっくりしただろ」
慮外なことに柔らかな声遣いが降ってきて、僕は戸惑いながら確かめるように顔を上げてみた。秋山は、もう怒っていないように破顔して、僕の額を手の側面で軽く叩いた。
「時雨はなんつーか、思い切りが良いな。良いと思うぜ、勢いでいけるの」
「あ……りがとう」
僕もなんとか笑って返してみたが、罪悪感が肺を掻き混ぜる。よく考えれば、いや、よく考えずとも、僕は秋山を利用しているだけだ。暮林霖雨を助けるために、助けろという役目を果たすために、この人の良い少年を利用しているだけ。
暮林霖雨を死なせないようにと必死になって勢いで突き進んでいる僕を、良いように受け取って褒めてくれた彼に、申し訳なさばかりが溢れる。
思い切りが良い、なんて言われたのは、初めてなような気がする。僕は、どんな人間だったのだろう。少なくとも、秋山のようなタイプではなかったと思う。きっと、暮林さんに似ている人間だったんじゃないだろうか。
そこでふと、思った。
暮林さんを助けるために僕が選ばれたのは、彼女に似ていたからではないか、と。きっと猫は、自殺してしまう人間に共感することの出来る死者を選んだのではないか、と。
だったら、仲を深めるのも、難しいことじゃないかもしれない。僕と彼女には、もっと、なにか共通点が沢山あるかもしれないから。
チャイムが鳴り響いて、僕は時計を確認した。いつの間にか予鈴は鳴っていたようで、教室に入ってきた教師の姿が昼休みの終わりを告げる。机から教科書を出す生徒や、黒板の方へ向きを直す生徒達をちらとみてから、僕は隣の机を軽く指で叩いた。
「暮林さん、友達として、仲良くしよう。改めて、これからよろしくね」
彼女にしか聞こえないくらいの小声で紡いでみたら、暮林さんが相変わらず怯えるように小さく震えて、それからとても綺麗に、絵になりそうなくらい可憐に、明るい笑顔を広げた。
「……は」
掠れた息が、僕の咽喉から搾り出される。慌てて暮林さんに微笑を返してから窓の外へ顔を向けた。彼女に、今は上手く笑えそうになかった。
どうしてか、胸が、痛い。肺が見えない手に握り締められて、今にも潰されそうだった。柔らかな面を作れないくらい歪んでいく口元を、片手で覆う。
――なに、その顔。
僕は、堪えなければ嘲笑に似た音でそんな棘を彼女に突き刺していたと思う。お前みたいなのがそんな幸せそうに笑うなよ、なんて、そんな心の声が、僕の頭の中で響く。これは本当に、僕の気持ちなのだろうか。
この汚い心の声を、彼女への罵りを、全て僕じゃない存在のものだと思いたかった。この借り物の肉体が、そんな風に言っているのだと。
静かに、人知れず大息を、長く長く吐き出す。ふう、と、ずっと息を吐いていれば、この胸を炙る汚い声を、全て空気に溶かしてしまえると信じて。
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