クックロビンに鐘の音を

 幕引きの鐘声が啼泣を刻んでいく。幼き眼に映る世界が赤く明滅して見えたのは、降り止まぬ陽光に角膜が灼かれてしまったからかもしれない。然れどそれは未成熟な脳によって案出された、言わば現実逃避の類だった。

 殷々たる鐘の音が静寂を散らす中、燦然と輝いて見えたのが陽光の欠片だったならどれほど良かっただろう。

 引き金を引いた幼子は目の前の事実を受け止めなければならなかった。

 陽の下に蔓延ったのは、悲しみ、怒り、後悔、そういった色濃い影法師。それでも駒鳥の悲劇は確かに終幕を迎えた。

 だから、少年少女は笑わねばならなかった。飛び立った仲間に聞こえるよう、呵然と。勝利を叫ばなければならなかった。

 ――この寓話に綴られているのは、一人の駒鳥が遂げた、畢生の大業とも言えるものである。


     *


『クックロビンに鐘の音を』

 小夜曲を歌う駒鳥が今日も撃ち落された。悄然とした街の中で、銃声の音は高らかに響いて月影に呑まれていく。

 狩猟を娯楽として楽しむ街人たちが、小さな駒鳥を撃ち始めたのは、いつのことだったろうか。僕達はいつも駒鳥を庇おうとして、結局怯えたまま路地裏に身を隠すことしか出来ずにいた。

「今日は誰がやられた?」

「アイシアだ。後で埋めてあげよう」

 建物の影から大通りを覗き込み、僕は背後にいるヴァンに小声で返した。僕の後頭部しか見えていない彼には、きっと僕が冷静でいると思えただろう。本当は、アイシアの亡骸を銃口で撫ぜている男へ、罵声を浴びせて殴りかかりたいくらい喉の奥が沸騰している。

 亡骸から興味をなくして遠ざかる背中に殺意を向けていたら、肩に手を置かれた。

「エリス、早くアイシアを連れて行くぞ」

「……分かってる」

 この街で駒鳥と呼ばれているのは、捨てられた子供達だ。ただ捨てられたわけじゃない。外国から輸入されたパンの毒味役にされ、その結果『体が成長しない子供となる病』にかかってしまった者達。もともと豊かな暮らしはしていなかったと思うけれど、住むところがなくなって食べるものも十分に得られないことが、これほど生き辛いとは思っていなかった。

 生き辛いだけなら、まだ、怯えることはなかったのだ。成長しない僕達を街人は嗤って、一日に一人の駒鳥を撃ち殺す遊戯を始めた。誰かが駒鳥を撃ち殺したらその日の遊びは終わり。日が落ちてから昇るまでの間で一人も撃ち殺せなかった場合もゲームセット。そんな下らない遊びのせいで、僕達は大通りに姿を見せることすらままならなかった。

 日中に駒鳥殺しをしないのは、多分駒鳥ではない子供を誤って殺してしまう可能性があるからだろう。夕刻になれば家がある子供は皆建物の中に帰っていく。外に出ていても親と共にいる。僕達は帰る巣がないから、仲間達と路地裏で囀ることしか出来ない。普通の子供と身寄りのない僕達の違いは、日暮れからより顕著に表れるのだ。

「見て、駒鳥が死体を引き摺ってるわ」

「あら、じゃあ今日のゲームは終わったのね。勝ったのは誰かしら?」

「うちの旦那にもそろそろ勝って欲しいのに……」

 血塗れのアイシアと僕達のもとに、そんなやり取りが聞こえてくる。アイシアを背に抱えながら唇を噛んだ。

 駒鳥殺しでその日駒鳥を殺せた人間には、市長が褒美をくれるのだという。お陰で、駒鳥を殺したがる奴らが増えた。血の味がするくらい下唇に前歯を突き立てて、「あいつらが死ねば良いのに」という呪詛を飲み込んだ。

 路地裏を歩き、街の外へ出て、整備されていない森の中を少し進む。

「そういや、さ」

「……ヴァン、別に付いてこなくても良いよ」

「ん? 付いていくよ、アイシアを埋めてやりてぇし」

「そう。それで、なに?」

 重みを背中で感じながら、草の中を歩くと、少し拓けた場所に出る。そこには、大きめの石がいくつか置かれていた。その石の数だけ、ここに仲間が埋まっている。いくつあるのか数えたくはなかった。

 アイシアを地面に下ろしていたら、ヴァンが木の陰からスコップを引っ張り出してきた。

「昨日、酒場の外で聞いたんだ。他の街から来た旅人が言ってたんだけど、この森、魔女が住んでるって」

「なんだそれ、馬鹿馬鹿しい」

「そうかもしれねぇけど……探してみないか? 魔女」

 僕もヴァンと同じようにスコップを引っ張り出し、アイシアを埋められる穴を掘りにかかる。スコップは街で盗んだものだ。元々一つしかなかったが、最近もう一つ盗んだため、墓穴を掘る作業が以前より捗るようになった。

 ざらついた土の音に嘆息を織り交ぜ、正面にいるヴァンを見やった。

「魔法があれば現状を変えられるかも、なんて思ってる? やめておきなよ。呪われたら流石に生きていけない」

「呪われるとは限らないだろ」

「善意のみで人助けをするヤツがどこにいるんだい? そんな聖者は書物の中にしか出てこないよ。仮に魔女がいたとして、救いと引き換えにどんな災いが与えられるかわからない。そんなものに縋るのはやめよう」

「……縋りたくも、なるだろ」

 光の差さない夜の中で、黒色にしか見えない木々が揺れた。涼し気なざわめきに目を細め、スコップを振り下ろす。土を持ち上げて端に避け、地面を更に抉る。

 希望なんてものを探したくなる気持ちは、分からなくもない。僕にも、助けを求めようとした時期があった。親だった人に縋ろうと何度も家の扉を叩き、街を駆け巡っては旅人に声をかけたこともあった。結果は言わずもがな。結局僕達は、無力で薄汚れた駒鳥でしかない。塵芥に手を伸ばす人間がいないように、僕達に手を差し伸べてくれる人間なんていないのだ。

 期待をするだけ、裏切られた時の失望感が肥大化する。だから彼にも、縋るのはやめろと言うべきだったのだろう。にもかかわらず、僕は苦笑して柔らかに返していた。

「……明日、探すだけ探してあげるよ。魔女」

「本当か?」

「もう一度言うけど、探すだけだよ。見付けても僕は何もしないからね」

「あぁ、それで良い、絶対だぞ。これ以上仲間が殺される前に、早く行こう」

「アイシアを埋めて、ちゃんと眠ったら、だよ」

 人差し指の側面を唇に押し当てると、ヴァンが自身の口を片手で覆った。森の中とはいえ、大きな声を出せば街まで届いてしまうだろう。遊戯が行われていなくても、騒がしいと激昴した街人によって銃弾が放たれるかもしれない。

 魔女を探しに行けることに安堵のような嬉しさを覚えたからか、ヴァンはこれまでよりも速度を上げて穴を掘り始めた。

 鎮静剤みたいな草木の匂いと、麻薬じみた土の香りが夜風で混ざり合う。この幽香は嗅ぎ慣れてしまったが、それでも心悲しさが気道を狭めていて、喘ぐように幽慷してしまいそうだった。


     (一)


 僕達は街の路地裏で生活をしている。もちろん部屋はなく、同じ場所に居続けるわけでもないので、住んでいる、とは言えない。傍にある建物の住人に邪魔だと言われれば場所を移り、夜になれば仲間達は自ずと単独行動を始める。

 単独行動の理由は恐らく、自分が撃ち殺される姿を見られたくない気持ちと、仲間を巻き込みたくない気持ちのどちらか、又は両方に悩んだ結果だろう。

 身と知能を寄せ合って隠れんぼを行うことと、一人で怯えながら隠れること。このどちらが正しいか僕には分からない。一番良いのは、この街から出て行くことなのだと思うけれど。

 正午を告げる鐘の音に瞼を持ち上げる。パン屋の裏に襤褸布を敷いて寝ていた僕が身を起こすと、体に乗っていた何かがずるりと落ちたことに気が付いた。足元に転がる金色の髪を見て眉を顰めてから、僕に影を落としているヴァンの背を睨む。

「クララを僕の上に置いたのはなんの嫌がらせだい?」

「お、エリス起きたのか。魔女探しに行こうぜ」

「質問に答えてよ……」

 昨夜ここに戻ってきて入眠した時には、彼女――クララはここにいなかった。夜の間か、朝に来たのだと思われる。

 建物の陰から大通りを窺っていたヴァンに息衝いて立ち上がれば、足首を引っ張られる。まだ眠っているのか、クララは襤褸布に頬を擦り付けてから、いきなり起き上がった。

「魔女、探しに行くのね?」

「……起きてた? それとも今起きた?」

「半分起きていたわ。ヴァンから魔女のことを聞いて、エリスを起こさなきゃって思ったんだけど、エリスの上で眠ってしまったの」

「何してるんだよ、全く……」

 寝床に置いたままだった手帳を腰のベルトに紐で括りつけて、僕は欠伸をしているクララに目をやった。まだ地面に座っているクララに手を差し伸べ、軽く引っぱって立たせてからヴァンの方へ向き直る。建物の外壁に立てかけていたスコップを担いだ彼は、探検ごっこを楽しむ幼子みたく笑った。

「よし、行こうぜ」

 大通りに出ると、クララが僕とヴァンの腕を片方ずつ掴んで道の中央を歩く。金糸をさらりと垂らして足元だけを映したまま進む姿はいつも通りの彼女だ。街の子供達と僕達の姿容は似たようなものだけれど、纏う衣服の清潔さが明らかに異なる。森に流れる川で洗うにしても一着しか服を持っていないため、服の状態は悪くなる一方。クララは女の子だからそれを気にしているのだろう。

 ヴァンは見て呉れなど一切気にしない質で、それどころか染み付いた泥や汚れを生きてきた証だなんて称している。僕もあまり服装は気にしないから、シャツはところどころ裂けている。この服は何年前に買ってもらったものだったかと過去に思いを馳せ、家族だった人間の顔を想起して寒気がした。

 意識を現在に引き戻したら、昼間の喧騒が耳朶を打つ。

「路地裏で死体が見つかったそうよ」

「あら、駒鳥じゃなくて?」

「人間よ、人間。殺されたのは随分前ですって。それに両目がくり抜かれていたらしいわ。気味が悪いわよね」

「そんなの烏の悪戯じゃないかしら。それか、駒鳥が食べ物に困って食べちゃったのかもしれないわよ」

 気に障る笑い声が外耳道を通り抜けていく。何気ない話題さえも駒鳥に繋げて、僕達を嘲笑する大人達が不愉快だった。

「見てあれ。あの汚さ、駒鳥よ」

「まだ生きているのね。あとどのくらいいるのかしら」

「ねぇ、あの駒鳥、市長の子どもだったのよね?」

「あんなにみすぼらしくなって可哀想に」

 僕達に耳が付いていることなんて気にしていないような噂話。眉根を寄せた僕はクララの左耳を塞いだ。彼女の左手側にいる僕では右耳まで塞いでやることは出来なかった。

 憤懣で染まった彼女の目が僕を見上げたけれど、僕は彼女の耳から離した手を自身の目尻に押し当てた。「泣きそうな目だね」とからかうように耳語すれば、桃色に染まり始めた頬がそっぽを向く。

 石の敷き詰められた地面を進んでいた足は、乾いた土を踏み付ける。森に入ったら噂話も聞こえない。嘲謔の視線を向けられることもなく、クララが安心したようにヴァンや僕から離れた。

「それで、魔女の家がどの辺りにあるか目星は付いてんの?」

「いいや、さっぱりだ。目星が付いてたら足を止めてねぇよ」

 両手を持ち上げて首を左右に振ったヴァンを斜視し、僕は見える範囲の景色を見回す。比較的歩きやすそうな道は真っ直ぐ伸びていて、多分他の街に繋がっている。他にも道は出来ているものの、細かったり木々に阻まれていたり、進みやすそうには見えない道ばかりだ。

 街のぐるりを取り囲む石壁を伝って右手側に進めば、僕達の仲間の墓がある所だ。墓場にする土地を探す際にそちら側は念入りに見たため、僕はクララの袖を引いて左手側の道を指さす。

「ヴァン、あっちの方を見てみよう」

「そうだな」

「クララは足元に気を付けて」

「分かってるわよ」

 踏み歩くそこは、道という名が似合わない。僕達の膝あたりまで伸びている深緑が、凝望した先にまで広がっている。僕もヴァンも、さざ波に似た音を立てながら足で草を分けて進み始めたが、クララのことが気になって振り返る。僕達は長ズボンを履いているけれど、彼女が履いているのはハーフパンツだ。細長く伸びている草々は素足に傷を付けるだろう。

 先行くヴァンの名を呼んで彼の進行を止めてから、僕はクララのもとへ戻り、彼女に背を向けて片膝を突いた。

「クララ、運ぶよ」

「でも、きっと重いわよ」

「何を言っているのさ。僕は何回も仲間を運んでいるんだから」

 首の皮がぴんと張り詰めるほど顎を持ち上げてクララを仰ぐ。彼女は目を瞠ってから申し訳なさそうに眉を顰め、それからそっと僕の肩に手を置いた。背負われるつもりらしい彼女の靴の甲をとんと指で叩けば、おもむろに乗ろうとしていた彼女が動きを止めてくれる。

「おんぶじゃなくて、肩車の方が安全だと思う」

「……わかったわ、恥ずかしいけれど怪我をするよりは良いものね」

 肩に跨った彼女の足をしかと固定して、僕の頭にしがみついた小さな両手へ苦笑を零してから、曲げていた両足をそっと立てていく。屈んでいた時はあまり姿が見えなかったヴァンの顔が窺えるようになった。待ってくれていたヴァンが、大丈夫そうだな、と言辞を発する代わりに点頭して、また前へ進み始める。

 ヴァンのおかげで僕が通る所は少しだけ草が分けられていて、まだ何者にも侵されていない草の間を縫うより幾許か歩きやすく感じる。だが奥へ進めば進むほど、草は肩にかかりそうなくらい高くなっていた。進めど進めど先に建物は見えず、不安が唾液として口腔に滲み、引き返さないか、なんて、スコップを担ぐ背中へ投げかけたくなる。それを嚥下して唇を引き結び、あてどなく彷徨うような足取りで進み続けた。

 どれほど時が流れた頃だろう。自然の旋律だけが飛び交っていた森の中に、一筋の吃驚が走る。

「エリス! クララ!」

 クララのことを気にしながら歩いていた僕は、ヴァンから大分距離を離されていた。目顔が見て取れない程度に遠い彼の、口の様子だけはここからでもよく分かった。あれだけ嬉しそうに大口を開けられていたら、街からでも見えてしまいそうだ。

 風がこの場を薙いで、擦れ合った草がざわめいた。そのざわめきを吹き飛ばすほど、ヴァンの感動は大きかった。

「家だ、家がある! 一軒だけ! この草叢を抜けた先に家があるぞ!」

 彼の指す方向に目を凝らしてみるが、視線の直線状には幹の太い木が立っていて、そのせいか建物の姿は見受けられなかった。しかしそこ一帯がやけに白んで見え、些か不気味に思える。一見陽光が直に当たっているから白んで見えているのか、と考えたが、陽の光が差しているにしては眩さを感じない。言うなれば、霧か靄のような白さが幽かに蔓延していた。

 ヴァンに付いていってその白い中へ足を踏み入れたが、やはり霧に包まれているみたいだ。風景が霞んでいる。人が一人住んでいるだけにしてはやや大きく見える木造の家を前にして、ヴァンがスコップを両手で握りしめていた。家の周辺は、これまで生い茂っていた草がほとんど刈られている。拓けた敷地内を踏みしめ、ゆっくり屈んでクララに降りてもらう。

 ヴァンの傍に歩み寄り、緊張しているらしい強張った肩を軽く小突いた。

「大丈夫。悪いことをしなければきっと襲ってこないよ」

「そうよ、ヴァン。だからスコップをふりかざすのはやめて」

「わ、わかった」

 スコップの先を地面に向けたヴァンよりも前に出て、僕が先陣を切る。木製の扉に取り付けられている銀の取っ手に触れた。それに包含されていた風の冷ややかさが掌を冷やす。ただ冷気が表皮を撫ぜただけだのに、総毛立ちそうな感覚が四肢を竦ませる。だが後戻りも出来ず、僕は意を決して扉を引き開けた。

 そこには果然として怪しげな光景が広がっている、ということもなく、洋燈に照らされる室内は一般家庭と然して変わりがない。けれど煌々と灯りが灯されているのに、粛然としているのが不気味だった。

 凝然と立ち尽くしている僕の双肩から、ヴァンとクララが顔を覗かせる。

「エリス、誰もいないのか?」

「やっぱり魔女なんて嘘だったのかしら」

「……そうかもしれない。噂話は所詮噂話だってことかな」

 気抜けした風付きで踵を返そうとした僕は、頭上から影を落とされて色を正した。頬を引き攣らせて、室内の方に目を向け直せば、正面に長身の人間が立っている。否、頭から足首までを黒い布で覆っているそれが人であるのか、人ならざるものであるのかさえ杳として知れない。ひっ、と息を飲んだのは僕だったか、それとも背中側の二人だったか。慄然として頽れそうな足にどうにか力を込め、僕は言問うた。

「あなたが、魔女ですか」

 虹彩だけを持ち上げて見遣ると、黒いフードの下の、乾き切ってひび割れている唇が見えた。それは阿呆を前にした人間みたく小さな隙間を作り、それから弓なりに撓る。横に引かれたままの口から溢れたのは、皿にカトラリーを突き立てた時のような、寒気のする笑声だった。

「ノックもせず扉を開けるなり、名乗りもせず質問だなんて、礼儀の知らない餓鬼だね」

 取り払われたフードの下から現れたのは、老けてはいないけれど若くもない、年齢の推測が出来ないような外貌だった。女性はローブを翻し、室内の中央に置かれているテーブルに近付くと、その卓上に手を突く。

「入りな。あんた達はわざわざここまで来たんだ。話くらいは聞いてやるさ」

「あの、さっきはごめんなさい。私、クララっていうの。お姉さんは魔女なの?」

 警戒したまま立ち尽くしていた僕の横を通り抜け、クララが入室した。恐る恐ると言った様子が、声柄からも、蹌踉としているような足取りからも窺える。女性に促されて着座したクララの隣に、僕も腰を下ろした。スコップの柄を握りしめていたヴァンも、怯えつつクララの正面へ座り込む。

 白い布が掛けられているだけの木製の丸テーブルへ、女性が小さな籠を置く。中にはクッキーが入っていた。悄然として声がない中、ようやく女性がクララの問いへ返す。

「魔女と呼んだのはあの街の人間達だ。あたしは魔女を名乗った覚えはないよ」

「えっと……」

「なんだい小娘、分かりやすく言わなきゃ分かんないのかい? そうだよ、あたしが魔女だ」

 僕の正面、ヴァンの横にある椅子の背もたれに手を突いた彼女は、木の枝みたいに細い腕をローブから出すと、皮膚が溶けているみたいな皺だらけの指でクッキーを一つ摘んだ。僕達が息を呑んだ音は、咀嚼音に消されていく。

 胸中の懇願の叫びが届いたように、僕達は魔女との逢着を果たした。けれど、欣喜雀躍出来るほど呑気な性質は誰一人として持ち合わせていなかった。剥き出しの肌を伝う空気は、暗いわけでも冷たいわけでもない。得体の知れないものを前にして、名状しがたい不安――或いは闇に呑み込まれそうだ――と表すのが適切であると思うくらい、ただひたすらに黒く、泥のような雰囲気だった。

「あんた達、駒鳥と呼ばれてる奇病持ちだろ?」

「よく、分かりますね」

「餓鬼は成長しなくなる、大人は餓鬼の姿になって成長しなくなる。そういう奇病だから分かるさ。あんた達三人共、実年齢よりは幼くなっているだろ? 表情が外見年齢と不相応なんだよ」

 面食らった後、僕はクララとヴァンをそれぞれ一瞥した。実年齢の話はしたことがなかったから、二人もそれなりの歳であるかもしれないと初めて考え、目を丸めていた。それは僕だけでなく、彼らも同様のようで、各々の反応を探っている。

 魔女は僕達の言葉を待たず、独白じみた言辞を流し続けた。

「駒鳥がわざわざあたしの所に来たってことは、病気を治して欲しいんだろう? けど生憎、魔除けでさえ払われないソレの治し方なんざ、あたしでも知らないね」

「そんな! あんた魔女なんだろ!?」

「魔女が全知全能だと思ったら間違いだよ、小僧」

 ヴァンがテーブルを叩いた音は霧消していく。縋り付いた先に求めたものがなかったことで彼は熱くなったようだが、魔女の声遣いに気圧されたのか、発露していた熱が漸次に沈淪していく。その様子を後目で見ながら、僕も暗然と俯きたい気分だった。

 ここまで来て、魔女に会えたのだから、希望の一欠片でも目にしたかったのだ。鏡を見なくともこの双眼が精彩を欠いたことはそれとなく分かる。空転したという事実だけが僕達の頭上に鉛として伸し掛かっていた。

「あんた達はあの街から出て普通に暮らしていこうとは思わないのかい? 成長しなくても、移住を繰り返せばなんとかなるだろう。駒鳥殺しで殺されるかもしれない恐怖からは逃れられるはずだ。だろう? クララ」

 名乗ったのがクララだけだからか、魔女は名指しで彼女を呼ぶ。僕は俯かせていた面を上げて隣席の彼女の答えを待った。彼女はその顔ばせに暗影を落としていた。

「……大切な友達が殺されて、黙って逃げるなんて、したくないもの」

「そうかい。そっちの、スコップの小僧は?」

「俺も、クララと同じだ。それに、俺達が元に戻って成長するようになったら、母さん達だって、また迎え入れてくれるかもしれないだろ」

 ヴァンの、その面様も陰っている。それもそうだろう、家族のことを想起するのも、亡くなった友のことを思い起こすのも、僕達にとって平然と出来るものではない。

 脳裏を過ぎるのは、優しかった頃の家族。失われた家族。僕を捨てた、家族。そして、悪辣な手段で僕達を殺そうとしている、市長。

 魔女は次いで、僕を質す。

「そっちの小僧は?」

「……僕も、誰にも報わないままここを去るのは、嫌だからです。それに、みんなが平和に暮らせる街を零から作るなんて僕達には無理だから、この街を平和な街にしたい」

 全てを披瀝することは出来なかった。言葉に気を配り、けれども嘘を紡いではいない。やりたいことは、口吻だけに織り交ぜた。それは、クララとヴァンにどう思われるか分からなかったからだ。

 ふうんと相槌を打った魔女が投げかけてきたのは、まるで僕の象った真情を気取ったかのようなものだった。

「なら簡単じゃないか。市長を殺せば良い、そうだろう? 市長に心から賛成している人間も皆殺しにしちまいな。本気で駒鳥殺しを楽しんでいる奴らに身内が混ざっていたら、そいつらは身内と思わない方が良いさ。自分の死を願う奴なんて身内じゃない」

 滔々と振るわれた弁舌に、心の底で同意する。それなのに声を上げられないのは、闃寂としたこの場で二人の仲間が何を思っているのか分からないからだ。沈黙を払ったのはヴァンだった。

「俺達子供が、大人に勝てると思ってるのか? それに、どうやって悪い大人とそうじゃない大人を見分けるんだ。見分けようとしている間に俺達が殺されるかもしれないのに、簡単にそんなことを言わないでくれよ」

「そのくらいはあたしが魔法でなんとかしてやるさ。今あたしが聞きたい言葉は、それをしたいかどうかって意見だけだよ。やりたくないって餓鬼は席を立って大人しく帰りな」

「魔法でなんとか出来るとして、それをしてくれるのはどうしてですか。僕達に何を払わせるつもりですか。それを聞いてからじゃないと、賛成かどうか、僕達は決められない」

 こちらを向いた炯眼は、愉しそうに細められているのにとても鋭くて、僕の身を固める。その眼に灯されている色は憎しみに似ていたけれど、それが誰に向けられているのか推察することは出来ない。魔女は、鼓膜を悪戯に引っ掻くような笑い声を閑散とした屋内に跳ねさせる。

「楽しいからさ。それにコレは、面白いお話になるだろう? だからあたしは、もしあんた達三人が賛同するなら、狩人役と見守り役、言伝役を一人ずつ任命するよ」

「一人一人役目が違うの?」

「ああ。狩人役はあたしの魔法にかかってもらうよ。人並外れた力と目を授けよう。その目を以ってすれば、悪人だけを殺すなんて容易い。けど魔法は人の身体に悪影響を及ぼすからね、やり過ぎないように傍で見守るのが見守り役さ。言伝役は駒鳥の始まりから終わりまでを寓話にして街の外に広めるんだ。誰がどの役になるかは、一人一人と話してからあたしが決める。どうだい?」

 クララの質問へ細かく答えた魔女の言葉に、大きな疑懼は生じない。彼女は僕達を騙そうとしているわけではないようだった。「反対なら十秒以内に帰りな」と言うなり、彼女は一秒ずつ数え始める。腰を上げる気はなかった。

 十、と乾いた声音の余韻が消えていく。木製の椅子を引く音はどこからも鳴らなかった。僕だけでなく、ヴァンも、クララも、離席していない。僕がヴァンを駭目したのは、彼がまだ家族を信じようとしていたことを知っているからだ。そんな僕の言わんとすることは伝わったのだろう、彼が言い訳をする子供みたく唇を尖らせる。

「俺だって、みんな平和に暮らせる街にしたいんだよ。それに魔女の言う通りだ。本気で駒鳥殺しを楽しんでいる人は、どうかと思う」

「ヴァンが反対じゃなくて良かったわ」

「そうだね。誰も欠けなくて、良かった」

 僕とクララに微笑みかけられて、ヴァンは苦笑していた。僕達の気持ちが重なったからか、この部屋に来てから感じていた、闇のような泥みたいな空気は、いつの間にか溶け消えている。

 そのまま団欒が始まりそうな雰囲気になるも、それは魔女が攫ってしまう。

 魔女は皺だらけの指を一本だけ立てて、尖った爪の先を扉の方へ向けた。玄関の扉ではなく、隣室に繋がるものだ。僕達一人一人の脳髄まで見つめているような、鋭い視線に身震いしていれば、魔女が僕を指さす。

「あんたからにしよう。こっちの部屋においで。取って食ったりはしないさ。役割を決めるために話をするんだ」

「分かっています」

「クララと小僧はそこで大人しく待ってな」

 玄関のものと同じく木で出来ている扉だというのに、それは不思議と重たそうに見えた。魔女が扉を開けて僕を手招きする。扉の奥には黒い布が垂らされており、室内を窺うことは出来ない。クララとヴァンを安心させるべく笑みを投げかけてから、僕は靴音を響かせた。

 黒い布の切れ目に手を差し込み、そっと奥へ潜り込む。嗅いだことのない花のような香水の匂いが、骨身に徹えるほど強く、鼻腔を徹っていった。


     (二)


「匂うだろう? 盗み聞きされないように結界を張っているんだ」

 蔓延する蘭麝に思考を溶かされそうになっていたら、扉を閉めた魔女が僕の顔に手を伸ばす。白い布が口と鼻を覆い、後頭部で結ばれる。優しい手付きだった。目の前にある相貌も、まるで幼子を憂う母親のようで、思わず目を逸らしてしまう。

 香りを和らげる布を巻き終えると、魔女は歩いていった。高らかに鳴る踵の音を聞きつつ、室内をぐるりと見回す。本棚と、神秘的な硝子細工が並べられている棚が部屋を囲っていた。四隅には名称のわからない植物が植えられた陶器がいくつも置かれている。観察していたら、魔女に「座りな」と呼び掛けられた。

 部屋の中央に置かれている長方形のテーブルを前にして、魔女が足を組んで座っている。その正面の空席を顎で示され、促されるままに僕も腰を下ろす。向かい合った僕を凝視して、彼女は無味乾燥な声で、ふうんと零した。

「翠玉の瞳、この辺りでは珍しいね」

「そうなんですか?」

「ああ。まあそんなことは良いさ、本題に入ろう。あんた、両親は?」

 人の目の色などあまり気にしていなかったから、第一に触れられた点が虹彩についてで戸惑った。慮外な言葉を投げかけておきながら、どうでも良いこととしてそれを流すと、魔女はさらりと僕の心に踏み込んでくる。その問いに答えるには、どうしても両親の顔を瞼の裏に映さねばならない。だからこそ僕は唇を一文字に引き結んで眉根を寄せた。

「母は、僕が幼い頃に亡くなりました。父は病弱な僕を愛してくれていましたが、僕がこうなってからは人が変わったようになって、僕を捨てました」

 自身の目見にどういった感情が流露してしまっているか、己では見て取れない。魔女の顔色を見てしまえばそれに見当が付いてしまいそうだったため、テーブルの木目だけを眺め入っていた。そうかい、と無感情に零した彼女は、質問を重ねていく。

「あんた、名前は」

「エリスです」

「捨てられる前の苗字は?」

「……エスカミーリヤ」

 呻吟に似た音色でかつての家名を口にすれば、魔女が歪んだ鈴を転がすように息を吐き出していく。壊れた笛の旋律じみた笑い声は僕の顰め面をより険しくさせていく。吐息だけで察せられる歓楽に耐え切れなくなって顔を上げたら、いつの間に席を立っていたのか、僕の真横に魔女が居る。無意識下で冷汗が零れた。無遠慮に僕の顎を掴み上げて、瞠目する僕の鼻先に彼女はナイフを突きつけていた。そこに殺意はなく、傷付ける気配すらない。それでも鋭利な切っ先が、僕の声帯を潰す。

「なあエリス。市長に不老不死の薬を作るよう頼まれて、それを面倒に思ったあたしが治療法のない病を発症させる薬を作ったとしたら、あんたは市長じゃなくてあたしを殺すかい?」

 傾けられた銀のナイフが洋燈に照らされて光芒を散らす。魔女のセリフを唇の裏でゆっくりと反芻して、口腔から「は」と呼気を漏らした。間抜けな疑問符だけでは満足しなかったらしい。頭上を揺蕩う三日月が、僕の回答を待ち受けている。僕は、幽かに首を横へ振った。

「僕が憎いのは、あの人だけです。もしあなたが駒鳥を生む原因を作ったとしても、それを僕や、街の皆に飲ませたのはあの人だから。それに、あなたが死んでも街は変わらない。市長が死ねば、あの街の悪い大人たちがいなくなれば、僕達はきっと安住の地を手に入れられる」

 語っているうちに、気持ちの整理が付いていくみたいだった。震え声は芯を帯びていく。僕の反応は予想外だったのか、魔女は驚駭していた。彼女の面差しからは笑みが消えていく。やがてナイフを引いた彼女が、溜息を吐いて僕の正面へ座り直した。

「あんたが狩人だ。良いね?」

 背もたれに体重を掛けてこちらを見下ろすように顎を逸らし、魔女は僕の役職を告げた。ヴァンやクララの話を聞く前に決めてしまって良いのか、と尋ねようとした僕の呼吸音に、彼女の呟きが重なる。

 気に入った。吐息まみれで、恐らく独り言でしかなかったのであろうそれは、確かにそう言っていた。気抜けたように固まっていたら、魔女が卓上に両肘を置き、指を絡めた手の甲に顎を乗せる。

「さっきも言った通り、あんたには魔法をかける。殺す相手を見極める目も、大人すら容易に絶命させられる力も、疲労で止まることのない足だってくれてやる。だけどそれには負荷がかかるし、代償も大きい」

「代償って?」

「自我はなくなると思った方が良いね。簡単に言うなら、あんたはあんたじゃなくなるし、本当に、人間じゃなくなるよ」

 固めた決意が、揺らされる。彼女の言葉から連想したのは、肉体だけ動き続けて、そこに僕の意識はない、化け物のような生物だ。面貌に憂慮が滲んでいたのか、僕と視線を絡めた彼女がおかしそうに吹き出した。

「怖くなったかい? やめるっていうなら、お帰りはあちらだよ」

「やめません」

「そこまでして、あんたはこの街に駒鳥の居場所を作りたい?」

「誰かが動かないと、何も変わらないじゃないですか。僕がここで帰ったらクララかヴァンがその役目を担うかもしれない。なら僕が適任です」

「適任だなんて、よく自分で言えるねぇ」

「当たり前です。あなたは自分に原因があるかもしれないと言ったでしょう。それを言うなら、僕にだって原因があるかもしれない。あの人の命を終わらせるなら、それはきっと僕がしないといけない」

 戦慄は臓腑に落とし込んで、吐き出す旋律に混ぜ合わせはしない。眼球の裏側へ隠した恐怖も、きっと魔女の魔法さえあれば掻き消してしまえるだろう。突き刺すように彼女の双眸を射抜いたまま、矢庭に声を張り上げた。

「お願いします。僕に、あなたの力を貸してください」

 さながら鍔迫り合いのような視線の衝突。焼け付きそうなほど冷たい眼光に押し負けて僕が顔を背けることも、魔女が呆れて黒目を動かすこともないままどれほどの時間が流れたのか。彼女は嘲笑するように口角だけを持ち上げた。

「良い目だね。勿論、あんたがこの部屋から逃げ出さないなら、力を貸すつもりだったさ。最高の喜劇が見られそうなんだから」

「……僕は、どうすれば良いですか」

「今夜はここに泊まりな。朝になったら魔法を掛けてやる。ただしこの魔法は、日が昇ってから正午までしか効果がない。だからあんたは、明日の朝から昼までに、ちゃんと倒したい相手を全員薙ぎ倒しな。その後のことは、クララとあの小僧に任せれば良い。その為の仲間だろう?」

 僕は無言のまま首を縦に振った。明日の朝。そのことを考えたら、五月蝿く喚いている心臓が声帯まで震わせてしまいそうだった。魔女は体を横に向け、手をひらりと振るった。

「あんたは戻りな。次はあの小僧を呼んでクララと待っているといいさ」

「わかりました。あの、二人には……」

「あんたからは、あたしと話したことを何も話さなくて良い。必要なことだけあたしが伝えておくよ。煽る不安は必要最低限で良いからね」

 早く行け、と急かすように、老いた指がこつこつと台の木目を叩く。僕は軽く頭を下げてから腰を上げる。曲げ続けていた膝をぴんと伸ばしてから気付いたが、足が、ひどく震えていた。情けないことに、それを見た途端泣き出したくなった。本当は逃げ出したい。けれど、蒔いた種はこの手で刈り取らなければならない。

 床と靴の裏が短く一つだけ音を立てた。もう一歩を踏み出す前に、魔女に足を止められていた。

「あんた、本当はいくつなんだい?」

 息が詰まりそうだった空気を、場違いなほど優しい声が透き通らせていく。自分の歳を思い出そうとして、僕は温かな雫を零してしまう。帰れない時間に咽喉が締め付けられる。回答は、みっともないほど掠れていて、嗚咽のようだっただろう。

「覚えていません。病弱だったって言ったでしょう? 僕がベッドに体を預けた日々がどれくらいの年月だったのか、優しい顔で食事を運んでくる両親の姿を何度見たのか。僕には、分からないんです」

 振り返ることは出来ない。今の自分の顔は見せられそうになかった。しゃくり上げる声を押さえようにも、一度零してしまった弱さは頬を濡らしていく。魔女は、そんな僕を笑わなかった。ただ長閑やかに、時計の針のような静けさで、緘黙を埋めていた。

「落ち着くまで、そうしてな。……あんたになら、ちゃんとした治療薬を作ってやりたかったよ」

 自身の咽び泣く声が、煩い。だけど、それさえそっと押しのけて僕の鼓膜に触れる魔女の声が、僕の激情を鎮めていく。ああそうか、と僕は思った。

 駒鳥と呼ばれ、人とみなされない僕達のように、魔女と呼ばれて街から追い出されたのであろう彼女も、等しく人間であるのだと。

 巣を壊された僕達の拍動は、人のそれと変わりないのだ、と。


     (三)


 泣き腫らした瞼のまま魔女のいる部屋を出て、ヴァンを呼んでからクララと他愛のない会話をした。とはいえ、僕の脳室は明日の不安ばかりが泳いでいて、どのような話をしたかはあまり覚えていない。

 やがてヴァンが戻ってきて、クララも魔女との会話を終えて、僕達は魔女の作った料理を食べた。久しぶりにまともな食べ物を食べたからだろう、とても美味しい食事に、ヴァンも、クララも、涙など枯れたと思っていた僕まで流涕していた。

 誰も不安を零さないのは、各々の決意を物語っているようだった。

 就寝前、僕はヴァンから相談を受ける。言伝役になった彼は何をどう書けば良いか分からないと眉尻を下げていた。口では上手く助言ができなかったから、僕は明日、魔法を掛けられる前にこの手帳を彼へ渡そうと思う。

 クララもヴァンも眠った寝室で、魔女に借りたペンでこうして続きを書き連ねてみたが、次にこれを書くのは暫し先のことになるだろう。だから今は、決意を筆先に込めて、紙面に書き写しておくことにする。

 僕は明日、僕のせいで歪んでしまった父さんを。父さんのせいでおかしくなってしまった街を、変えるんだ。


     *


 解説

 幕引きの鐘声が啼泣を刻んでいく。幼き眼に映る世界が赤く明滅して見えたのは、降り止まぬ陽光に角膜が灼かれてしまったからかもしれない。然れどそれは未成熟な脳によって案出された、言わば現実逃避の類だった。

 殷々たる鐘の音が静寂を散らす中、燦然と輝いて見えたのが陽光の欠片だったならどれほど良かっただろう。

 引き金を引いた幼子は目の前の事実を受け止めなければならなかった。

 陽の下に蔓延ったのは、悲しみ、怒り、後悔、そういった色濃い影法師。それでも駒鳥の悲劇は確かに終幕を迎えた。

 だから、少年少女は笑わねばならなかった。飛び立った仲間に聞こえるよう、呵然と。勝利を叫ばなければならなかった。

 ――この寓話に綴られているのは、一人の駒鳥が遂げた、畢生の大業とも言えるものである。

 そもそもこの作品は、駒鳥と呼ばれた奇病持ちが暮らしていたとされる街から見つかった小説だ。作者は勿論私ではない。その表紙に書かれていた『クックロビンに鐘の音を』を題名として表記したが、これは筆者の、平和の鐘声を求める切なる願いだったのかもしれない。とはいえ、筆者はエリスと思われるものの不明、事実かどうかもこれだけでは判断が出来ない。

 しかし、後に市場に出回った寓話と照らし合わせれば、この手記が空想上の物語でないことが分かる。寓話は以下のような内容である。私が解説の初めに記した文章は、以下を参考にした結末だ。


     *


『かわいそうな駒鳥』

 ある街に、とても愛し合っている夫婦がいました。夫は市長として街のみんなに尊敬されており、妻は病弱だけれどとても優しい人でした。

 そんな二人の間に、一人の子供が生まれます。色の薄い金の髪に、綺麗なエメラルドの瞳を持った男の子でした。本物の宝石のような瞳の色は、妻のものとも夫のものとも違っていて、夫はそれを疑問に思っていましたが、元気な男の子の笑顔でそんなことも忘れていきました。なにより、妻がいつも大切そうに首から下げているネックレスの石と、息子の目の色がよく似ていたので、夫も彼の目を気に入っていきました。

 エリスと名付けられた男の子が、立って歩けるようになってから、両親は彼の体がひどくか弱いことに気が付きました。少し歩けば華奢な両足は震えてしまい、一度膝を突いてしまうとなかなか立ち上がれないほどです。

 この子と一緒に歩くことも、一緒に遊ぶことも、断念した方が良いと両親は考えました。それからエリスに、新しいふかふかのベッドを用意してやり、彼にそこで寝て過ごすよう言いつけました。幼い瞳はいつも窓から街の子供たちを眺めておりましたが、外に出て歩きたい、というわがままは決して口に出しません。仕事で忙しい中、優しい両親が毎日食事と土産話を運んできてくれたり、文字の読み書きを教えてくれたり、夜には絵本を読み聞かせてくれていたので、彼はそれだけで幸せだったのです。

 そんな、切なくも幸せな日々は、少しずつ軋んでいきました。母親が、日に日にひどく老いていくようになったのです。一日経っただけでも、まるで彼女だけ一年の時を過ごしたかのように、年老いていくのです。エリス自身も彼女を心配していましたし、父親も、日ごと弱っていく彼女に泣き出しそうな目を向けていました。

 それから一週間ほどで、母親は老婆のようになって、息を引き取ってしまいました。

 それはたまたま、エリスの部屋で家族そろって食事をしていた時でした。苦し気な呼吸を繰り返し始めた母親は、父親に支えられる中、何度も何度も「ごめんなさい、どうか許してください」と、しわがれて掠れた声で繰り返していました。彼女がなにについて謝っているのか、父親にも、エリスにもわかりませんでした。

 母親の死後、父親が市長の仕事をこなしながらも、優しい顔をしてエリスの世話を見続けました。けれど、仕事の疲れと、妻のいない生活に、心がどんどんひび割れていったのでしょう。だんだん、彼はエリスの前で泣き崩れるようになりました。

「なあエリス。お前は死なないでくれ。元気になってくれ。私より先に、老いていかないでくれ」

 亡き妻の姿をエリスの姿に重ねてしまうことで、父親は毎日苦しみます。ついに耐え切れなくなった彼は、自分がかつて街から追い出した、一人の魔女のことを思い出しました。

 魔女は、何もないところからものを作ったり、治らない病を治したり、ものを燃やしたり水を湧き出させたりすることのできる、人ではないような人でした。はじめこそ彼女は褒めそやされておりましたが、街人と喧嘩をしたときに家を何軒も燃やしてしまったので、皆その力を恐れるようになりました。目が合っただけで怯えられるようになった魔女は怒って、自分に怯えた街人を一人ずつ怖い目に合わせていきました。市長である、エリスの父親には、その魔女がもう化け物にしか見えなかったので、魔女を街から追い出してしまいました。

 その魔女がそれからどうなったかまでは、父親も知りません。仕事の合間にいろんな人から魔女の話を聞きまわり、やがて、街からそう遠くはない森の中に住んでいる、という情報を耳にします。藁にも縋る思いで、彼は必死に森を駆け巡り、魔女の家を探し回りました。

 何日魔女探しを繰り返した頃でしょう、ようやく父親は、一軒の家にたどり着くことが出来ました。話を聞いてほしい、と玄関で騒ぐ彼を、魔女はしかめ面で家の中に上げました。

 息子の体が弱いこと、妻のようにすぐ老いて亡くなってしまうかもしれないこと。父親は泣き叫ぶように、これまでのことを話しました。そうして、老いることも死ぬこともない薬を作ってくれないか、と魔女に頭を下げます。

 黙って話を聞いていた魔女は、楽しそうに笑ってその願いを受け入れました。

 薬を作っておくから数日後にまた来るよう言いつけられた父親は、神に感謝するほど泣いて喜び、家に帰って、眠っているエリスを優しく撫でました。

「お前が元気になれるかもしれないんだ。そうなったら、一緒に沢山遊ぼう。散歩もしよう。今更なんてことはないさ。今からでも、お前は普通の子供みたいに、笑えるんだ」

 数日が経って、魔女のもとを訪れた父親に、魔女は十二種類の瓶を差し出しました。ひとつひとつ色の異なるそれが、太陽の光で虹のように輝いています。どれをもらえば良いのか戸惑う彼に、魔女はおかしそうに笑いました。

「どれが成功した薬で、どれが失敗した薬かあたしには分からない。好きなものだけ持っていけば良いし、全部持っていっても良い。だけど失敗した薬でどうなるかは分からないよ。息子に飲ませるのが不安なら、市長の偉さを利用して貧しい人間にでも飲ませたら良いさ。出来なくはないだろう? あんたは人を簡単に化け物呼ばわりして、街から追い出すような人間なんだからねぇ」

 絶望したような気持ちで呆然としていた父親は、気が付くと森の中に居ました。魔女の家は、もうどこにもありません。代わりに、十二種類の瓶が入った鞄だけが、足元に置かれています。

 それを持ち帰ったものの、どうしたら良いか、彼には分りませんでした。他の街人に自分がどんな目で見られるか、最愛の息子に嫌われるのではないか、考えれば考えるほど、彼は追い詰められていきました。

 そんなとき、街に届いたのが、外国から輸入されたパンでした。

 薬を含んだパンを食べさせれば、薬のせいで何かがあっても自分のせいではなく外国のパンのせいだと言い張ることが出来ます。心に余裕がなく、エリスの体がいつ老いてしまうかも分からない焦りから、彼はそれを実行しました。目に付けたのは、街の中でも端の方にある、比較的貧しい家庭の人達です。

 彼らは、外国からのパンを配って回っているのだと言って差し出せば、喜んでそれを受け取っていきました。この家には緑の瓶の薬、この家には黄色い瓶の薬、この家には青い瓶の薬を、と一つ一つ手帳に書きながら、路地裏を回っているうちに、とても小さな家で一人貧しく暮らしている男性に出会いました。

 顔を合わせた時間は一時間にも満たなかったでしょうから、出会いとも言えないかもしれませんが、男性を見るなり、父親は落ち着きをなくしてしまったのです。

 彼は、この街では見ることのない、綺麗なエメラルドの瞳をしていました。それはエリスの瞳とよく似ていて、父親が昔々に押し殺した疑問を湧きあがらせました。

 なぜエリスの目は、妻のものとも自分のものとも異なるエメラルド色なのか。なぜ妻が、亡くなる前に自分に謝り、何度も許してと泣き縋ったのか。

 みすぼらしい服を纏う男性は、よく見ると青緑色の宝石の付いた首飾りをしていました。それさえも妻の付けていたネックレスを連想させて、彼と言葉を交わす前に、父親は彼に暴力を振るっていました。

 愛した妻に裏切られた気持ちになって、怒りで顔を真っ赤にしたまま、父親は男性を殺してしまいました。

 エリスのものと同じ色をした瞳があるなんて信じたくなかった父親は、彼の両目を抉り取って潰してしまいます。遺体を人気のないところに捨ててから家に戻ると、自分がパンを渡した人々がどうなったのかを部下から聞かされました。

 魔女に渡された薬は、十二種類すべて、失敗作だったのです。疲れ切った体を動かして、彼はエリスに夕食を運びに行きました。ベッドで眠る綺麗なかんばせは、妻の若い頃のものと、よく似ていました。

 愛おしい息子。か弱い彼を地面に立たせてやりたい。普通の子供のように遊ばせてやりたい。共に、街を回りたい。

 そんな願いを込めて震える手の甲で、エリスの頬を撫でていたら、お人形のような長い睫毛がゆっくりと持ち上がりました。エリスは父親の顔を見て微笑むと、「おかえりなさい、お父さん」と柔らかに言います。けれど、父親はそんな言葉さえ、聞こえていませんでした。

 露わになった両目の、その忌々しいエメラルド。目の前にいるのは愛しい息子だというのに、偽りのない愛を注ぎ続けたというのに、宝石のようだと気に入っていたその瞳が、今はとても醜いものに見えました。けれど、男性にしたようにその目を抉ることはできません。消えない愛が、エリスを傷つけさせてはくれません。

 父親は、涙を流しながら、エリスの夕食に薬を注ぎ込みました。その薬を飲んだ人間が、皆幼い子供になってしまうのを分かっていて、エリスにパンを差し出しました。

「なあエリス。これを食べて眠ったら、お前は普通の子供みたいになれるかもしれない。だから、私のことは忘れて、普通の子供たちと遊んで暮らしなさい」

 エリスは、普通の子供になれると聞いて喜びました。けれど、苦しそうな父親と顔を合わせると、泣き出しそうに瞳を揺らしていきます。零れた涙まで染み込んだパンを食べて、エリスは父親に、にっこりと笑いました。

「違うよ、お父さん。元気になったら、僕はお父さんと街を散歩するんだ。お母さんが好きだって言ってたお花を二人で見て、お母さんがおいしいって言ってたお店のパンを食べて、二人でお母さんに会いに行こう。僕、お父さんと歩けるようになったんだって、お母さんに見せたいんだ」

 楽しそうに未来を語るエリスに、父親は涙を堪えきれませんでした。俯いて、そうか、と返したきり、彼はずっと泣いていました。エリスの嬉しそうな顔を見たいのに、見ることが出来なかったのです。愛おしいのに、どうしようもなく憎かったのです。

 窓から月の光が差し込む時間になって、エリスは眠りにつきました。揺すっても起きそうにない彼の体は、やや幼くなり、眠る前よりいくらか健康そうに見えました。その体を抱き上げて、父親は、夜の街に出ていきます。そうして、家から一番遠い路地裏に、幼い体を置いてきてしまいました。

 こうして忘れてしまえば良い、と、何事もなかったかのように振舞おうとしても、愛した息子は忘れることを許してはくれませんでした。

 エリスを捨ててきてから一日経った夕方、玄関を叩く音と、聞き慣れた声が聞こえてくるのです。

「お父さん、僕だよ。エリスだよ。帰って来たんだ。開けて。入れてよ。ねえお父さん、僕、もう歩けるんだよ。もうどこにだって行けるよ。お父さんのおかげで本当に、元気になれたんだよ。お父さん……お父さん! ねえ!!」

 泣き叫ぶ声も、扉を叩く音も、何日経とうが止みませんでした。彼の家を訪れた街人は、扉の前でわめき続けるエリスを不思議に思っていましたが、確かに玄関から彼が出てくることはなかったので、皆エリスを置いて裏口から入るようになりました。

 父親から、エリスには構うなと言われるものですから、街の人間はエリスをいないものとして扱いました。

 月日が流れ、エリスは街の子供達と仲良くなり、それでも父親のことを忘れられず、毎日遠くからかつての自分の家を眺めるようになります。幼い体でも、幼い心のまま育っていても、どこか大人に近かったエリスは、忘れた方が良いのだとわかっておりました。

 子供達との遊びに日々を費やし、数年が経つと、エリスの友達は仲違いをしていきました。それは成長しない容姿のままである子供達と、成長していく子供達の、仲間割れです。

 幼い姿になっただけで捨てられていた子もいましたが、その時は捨てられなかったものの、何年経っても成長しないことを不気味に思われて捨てられる子供達が増えていきました。

 帰る家を失った子供たちは、それぞれ家族に泣きつきます。ですが、気味の悪い子供達を受け入れてくれる親は、いませんでした。

 そうして、家族に見放された子供達とエリスは、路地裏で身を固めて行動するようになりました。食べ物に困ったらゴミを漁って。街を歩き回っては落ちている食べ物を探して。どうにか、生きていました。

 小さな姿のまま、朝から夕方まで街を駆け巡り、夜でも居場所を求めて囀る彼らを、街の人々は駒鳥と呼ぶようになりました。

 一方エリスの父親は、エリスの幻に苛まれていました。というのも、駒鳥たちが街のどこでも歩いていくものですから、その姿が彼の目に留まることもあるのです。駒鳥を見かけた晩は、家の戸をエリスが叩いているように感じられて、眠りにつくことが出来ませんでした。

 また、駒鳥がうるさいからなんとかしてくれという苦情や、敷地内に駒鳥が入ってきて迷惑だという文句が、市長である彼のもとに何件も入ってくるようになります。

 溜まっていく苛立ちをどうにも出来なくなり、彼は――市長は、駒鳥殺しという祭りのような娯楽を、街全体で行うようにとお触れを出しました。

 それは、一日に一人の駒鳥を撃ち殺そう、というものです。誰かが駒鳥を撃ち殺したらその日の遊びは終わり。日が落ちてから昇るまでの間で一人も撃ち殺せなかった場合もゲームはおしまい。撃ち殺すことが出来た人間には報酬を与えよう、という市長の言葉に、街の人間は喜んで銃を取りました。

 住民たちにとって迷惑でしかない駒鳥を処分するには、楽な手段でした。けれど仕事だからというだけではなく、市長は、この駒鳥殺しをする中で、誰かがエリスを殺してくれたなら、と願ってもいたでしょう。愛した過去を忘れられず、自ら手を下せない息子を、消してほしいと思っていたのでしょう。

 駒鳥殺しが行われてから、日々駒鳥の数は減っていきます。固まって行動するのは危険かもしれないから、と、仲良しだった駒鳥の群れはだんだん散っていきました。エリスは、クララという女の子と、ヴァンという男の子と共に、生きながらえていました。

 クララはとても優しい子です。エリスが街の人間に「市長の息子なのに駒鳥だなんて可哀想」と言われると、エリスの代わりに怒ってくれるような、気の強さも持ち合わせています。

 ヴァンは明るくて、元気な少年でした。つらい日々でも明るく笑う彼に、エリスもクララも元気付けられていました。

 だからこそ、でしょう。駒鳥の数が減っていく中で泣き出しそうな顔をしたヴァンを、エリスは放っておけませんでした。ヴァンが噂で聞いたという、森に住んでいる魔女のことを、頼りたくなりました。

 エリスはヴァンとクララと一緒に、森を彷徨いました。救いを求めて、歩き続けました。助けてほしいという三人の強い思いに応えるように、気が付くと彼らの前には一軒の家が現れていました。

 三人はとても喜んで、玄関をそっと開けます。そこで出会った魔女は、どうやら街の噂も耳にしているらしく、三人が駒鳥であることも、助けてもらいたいことも言い当ててしまいました。

 しかし、駒鳥の病を治すことは、魔女にも出来なかったのです。なにしろ彼女が作った失敗作の薬ですから、その効果は厄介で、彼女自身どうにも出来ませんでした。

 項垂れる三人に、魔女は提案しました。

「平和に暮らせる街を作りたいのなら、市長と、駒鳥殺しを楽しんでいる人間を殺せばいいじゃないか。力は貸してあげるよ」

 魔女の言葉に、反対する者はいませんでした。実の父親が市長であるエリスでさえ、首を横には振りません。

 それほどまでに、エリスが父から与えられた絶望と痛みは大きかったのです。奪われたものも、小さな手では数えられないほどでした。

 エリスを憎み切れなかった市長のように、エリスも心の奥で市長を愛していました。それでも、罪を重ねすぎてしまった市長を、実の息子だからこそこのままにしておけなかったのです。

 魔女は三人に役割を振り当てるため、一人一人と話をしました。まずはエリスです。

「あんた、名前は」と魔女は尋ねました。

「エリスです」

「捨てられる前の苗字は?」

「……エスカミーリヤ」

 その苗字に、魔女は聞き覚えがありました。魔女にとっては、憎き市長のものでしたから。

 魔女は、市長の息子が駒鳥になって、父親を殺すという筋書きを大いに気に入りました。

 エリスは魔女の魔法を受けて、何者をも引き裂く爪と、決して止まらない足と、悪を見極める瞳を与えられる、狩人役を任されました。ですがその魔法は、朝から正午までしか効果がありません。時間がくれば、エリスの意識は消えてしまうというのです。

 もちろんエリスはそれに怯えました。それでも、父親を終わらせるなら息子である自分がしなければならないと、震えながらも覚悟を決めました。

 次いでヴァンが、魔女に呼ばれます。

「あんた、名前は」と、エリスにしたように魔女は尋ねました。

「えっと……ヴァン」

 なぜか悩んだ彼を不思議に思って「それが本名かい?」と魔女が聞けば、彼は俯きました。

「本名は、タカクス・ヴァン・イズアール。けど、捨てられた時に、名前も苗字も名乗るなって言われたから……ヴァンって呼んで欲しいんだ」

 魔女は興味なさそうにふうんと言ってから、話を続けました。他愛もない会話をしていれば、彼に人を殺す勇気がないことも、暴れる人を止める強ささえないことも分かりました。

 けれど正義感だけは人一倍強く、友達のことはちゃんと見守ることのできる、しっかりしている少年です。

 魔女はヴァンに、駒鳥たちの悲劇のはじまりから終わりを書き留める、言伝役を任せました。市長の悪事は童話にして世間に広めた方が良い、という魔女の言葉に、彼の正義感は動かされたので、まるでヒーローになるかのように喜んでいました。

 最後に呼ばれたのはクララです。クララは既に名乗っていたので、名は問われませんでした。また他愛のない会話をして、魔女は彼女が、正義感を行動に移せる強さと、優しさを持っていることを知りました。そしてエリスを誰より気にかけており、大切に思っていることも、知りました。

 魔女はクララに、見守り役を任せました。それは、狩人役を一番近くで見守り、意識を失くした狩人役を殺さねばならない役です。

 それを聞いたクララが叫びながら嫌がったのは、言うまでもありません。けれど、クララがエリスを殺さなくても、エリスの心は死ぬのだと魔女は教えました。彼は心を失くして暴れ回る化け物になるから、そうなる前に彼を楽にしてやれと、優しく伝えました。

 クララは、それから長い間声をあげて泣きましたが、エリスや仲間たちの為だと割り切って、見守り役を引き受けました。

 夜が明けて、決行の時。

 魔女はエリスに魔法を掛けます。

「いいかい、正午の鐘が鳴る前に、殺す相手はみんな殺すんだ」

 魔女はヴァンに紙とペンを渡し、街全体を見通せる水晶玉を覗き続けるよう命じます。

「いいかい、正午の鐘が鳴るまで、目を逸らしてはいけないし、記録をおこたってはいけないよ」

 魔女はクララに拳銃を預け、エリスに付いていけるほど速く走れる靴を履かせます。

「いいかい、絶対に、正午の鐘が鳴る前に、エリスを撃つんだよ。絶対だ」

 そうして魔女は、エリスとクララを送り出し、自身はヴァンと共に水晶玉を覗き込みました。

 街に着いたエリスの目に、街の人間は真っ白か真っ黒に見えていました。真っ黒な人間は悪だと魔女に聞かされていたので、黒い人に出会うたびその腕を振るって、首を刎ねていきました。クララはただ、それを見守ります。

 一人、また一人と、黒い人をどんどん倒していきました。悲鳴の上がる街を巡る中、エリスを驚いて見る駒鳥たちに、クララが声をかけ続けました。

「駒鳥殺しは終わるのよ。エリスが終わらせてくれるの。悪者はみんないなくなるの。良い人しか残らないの。だからみんな、平和に暮らせるのよ」

 踊るように体を振るい続けるエリスと、歌うように叫び続けるクララは、すぐに街中の視線を集めます。駒鳥たちの目は輝き、住民の目は潤みながら揺れ、住宅地が赤く染まっていきます。

 街を歩く黒い人や、建物の中にいる黒い人を残らず眠りにつかせて、広場に出たエリスは、父親との再会を果たしました。

 化け物を見る目で怯え切った父親は、腰を抜かして尻餅をついたまま、エリスを見上げていました。

「お父さん、もう終わりにしよう」

 その時エリスが放った言葉は、場違いなほど優しくて、柔らかくて。かつてベッドで寝たきりだった彼が、父親に向けていたものと変わらぬ響きでした。

 けれど父親にとって、今目の前に立つ血まみれの少年は、愛した息子の姿には見えませんでした。憎んだ息子の姿でも、ありませんでした。人間にすら見えない佇まいに、「化け物」と零すと、白目を剥いて意識を失ってしまいます。

 首を刎ねる前に倒れてしまった父親を前にして、エリスは、腕を振るわず跪きました。その手が彼に触れることはなく、お父さんと呼ぶこともありません。エリスはただ静かに、殺さねばならない父の姿を、泣きながら眺めておりました。

 そうしてどれほどの時間が経った頃でしょう。街の人間は皆、クララから事情を聞いていましたので、悲しむような憐れむような瞳で、エリスと市長の姿を見つめ続けていました。ですが、時計を気にし続けていたクララが、我慢できなくなってエリスに叫びます。

「エリス、時間がないわ! お別れをして!」

 その声を聞いたエリスは、泣き叫ぶ声を堪えて、呻くように息を漏らしながら、父親の首を切り落としてしまいました。

 がらん、がらん、と響いたのは、鐘の音です。

 市長の死で全てが終わったと思っていたクララは、蒼褪めました。魔女の言葉を、思い出していました。

 絶対に、正午の鐘が鳴る前に。

 鐘は、がらんがらんと変わらず響いていました。街中に響き渡るそれが、やがて一つの泣き声で、掻き消されました。

 父親の亡骸を前にして泣いていたエリスが、苦し気に叫び出したのです。その声は街を囲う森まで劈いて、聞いたものの耳を切り裂くような、不思議な響きでした。

 それは、時間が来たことで、エリスにかけられていた魔法が叫びとなって溢れ出していたのです。魔女の家にいたヴァンと魔女でさえ、その声に貫かれました。

 クララの耳はもう壊れて、エリスの叫びが聞こえなくなっていました。それでも、エリスが痛ましいほどに叫んでいる姿は、彼の泣き声が聞こえるほどでした。大切な人だったエリスに銃口を向け、クララは、声にならない声を上げて引き金を引きました。

 撃ち抜かれた頭がぐらりと揺れて、か弱い駒鳥の体は、市長の亡骸へ抱き着くように倒れました。

 クララも、街の人間も、エリスの叫びが止んだのか分かりません。音が聞こえなくなった人々は、大口を開けて涙を零しました。不安だからでしょう、駒鳥も人間も関係なく、傍にいる人に皆抱き着きました。かつて親だった大人に抱きしめられる駒鳥もいました。

 水晶玉を通してそれを見ているヴァンも、彼らと同じ気持ちで泣きわめき、魔女に縋りついていました。

 飛び交う声が口々に何を言っていたのか、街の人たちも、魔女も、ヴァンも知りません。エリスだけを見つめ続けていたクララにも、分かりません。

 けれど、泣きながらも嬉しそうに笑う彼らは、一人の可哀想な駒鳥に「ありがとう」と叫んでいるみたいでした。


     *


『クックロビンに鐘の音を』では語られなかった結末が、『かわいそうな駒鳥』にて綴られている。エリスが駒鳥の結末まで書き記していないのは、書かなかったのではなく書けなかったからだ。

 然れどエリスは結末を書けなかったことを悔いてはいないだろう。彼はひたすら仲間達のことを思い、又父親との因縁を果たすことだけを考えた。結果は見ての通りだ。仲間の笑顔を取り戻し、父親とのけじめを付けた。

 それゆえ私は、この駒鳥、エリスを可哀想という一言で片付けたくはない。ただ、嘆くことがあるなら、彼も、彼の仲間も、鐘について深く気にかけなかった点だろう。鐘が鳴るより先に銃弾が放たれていれば、或いは鐘が壊されていたなら、残された者達の聴覚が失われることはなかった。私の声も、かつて駒鳥だった人間に届いたかもしれない。

 鐘は魔を払う象徴。

 クックロビンに鐘の音を、聞かせてはならなかったのだ。


 解説者ルーベック・ヴァン・イズアール

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