彼岸

 水の音が、遠くから耳に流れ込んでくる。暗然として地面を見つめていた名月なつきは、長い髪にやや隠されている顔を持ち上げた。額の左半分から頬骨あたりまでしか見えなくとも、彼がやつれた面貌をしていることはよく分かる。マスクの上で、隈が刻まれた下瞼が膨らんだ。

 左目を訝しげに細めて、道の先を見据えた。一本の道を挟んで立ち並ぶ木々と、地面を彩っている草々は、彼にとって今や見慣れた景色だった。軽く首を捻って眉を顰めながら、彼はそのまま歩を進める。その足取りは疲労に侵された放浪者のものに似ていた。

 草木に挟まれた道の左手側に、案山子が薄らと見えてくる。もう誰も耕していないのであろう畑が、そこに広がっていた。その手前には廃れた無人販売所がある。案山子は売り子のように、無人販売所のすぐ右隣に立っている。

 ここは見知らぬ道ではない、と視覚が教えてくるにも関わらず、聴覚がそれを惑わせていた。

 いつもと変わらない鳥の鳴き声と草木の音に、重なって聞こえるのは水音だ。たくさんの泡が生まれては弾けていくような、川のせせらぎ。日頃聞くことのない調べが、名月の唇をへの字に歪ませる。

 木の葉がざわめき、風で揺れた木々の間から二羽の鳥が飛び立った。茜色の帳を翔けるその鳥達が雀であったか、烏であったか、はたまた鳩であったかさえ、名月には分からなかった。それが分かるような鳴き声は確かにこの場で響いていたが、彼は奇妙な川の音にしか意識が向いていなかった。

 名月が足を止めたのは、長い前髪が汗で顔に張り付いた頃だ。ちょうど無人販売所の目の前で立ち止まる。そして引き付けられるように、虹彩を右へと動かした。視界の端で捉えたものが目の錯覚なのではと思い、体ごと右手側に向いてみても、やはりそこには普段通りの風景は広がっていなかった。

 歩いてきた道の右手側は土手になっており、その向こう側に川が流れていた。

 いつの間に、平坦な道が土手を作れるほど盛り上がったのだろう。今まで歩いてきた道の方までも流れている川は、いつ姿を現したのだろう。

 絶えず浮き上がる疑問を唾と共に食道へ流して、名月は何の気なしに、土手を下ることにした。階段も何もない坂を、用心深く恐る恐る下ってみるも、覚束ない足取りのまま右半身から倒れ込む。草の絨毯を転がった体は、川の手前で回転を止めた。

 呻きながら左手だけを地面に突いて起き上がる。吐いた息が視界を白くした、ように思われた。幻想的なまでに白い霧が、川の上から向こう岸までを覆っていた。向こう岸に何があるかは、影でしか窺えない。こちら側と同じくらいの高さである土手の存在は、名月にも見えたはずだ。しかしその上に、こちら側と同じく案山子が立っており、同じ作りをした無人販売所があることまでは見えなかったろう。尤も、あちら側は、隣り合わせの案山子と無人販売所が、こちら側と左右反対に在った。

 幽かに、霧が晴れてくる。名月が真っ直ぐ見据える先で、人影が朧気に揺れる。名月は、目を凝らした。細められた瞳には、彼と同じくらいの背丈の人物が見えてくる。

 男にしてはやや長い髪。顔の右半分を隠すように流れる前髪。名月のものと同じ、黒い学生服。雲が失せたみたいに澄んでいった視界で、名月は鏡でも見ているのかと思った。

 けれど、彼が呼んだのは自身の名前ではなかった。

葉月はづき……?」

 名月の、元々不健康なくらい白かった顔が、幽霊でも見たかのように蒼褪めていた。


     (一)


 名月が学校帰りにあの道へ行くようになったのは、一月ほど前のことになる。彼の頭の中にはいつだって自殺願望ばかりが巡っていた。その願望の為に死に場所を探して、誰もいない畑を見つけた。人も通らないそこで無人販売所に背を預け、地面を歩く蟻を見つめたり、空を眺めたり、自然の音に耳を傾けたりするのが、今では彼の日課になっている。物静かな自然からの刺激が、彼を生かし続けていたのだ。

 誰にも咎められず、誰にも止められることのない場所なのだから、ここで刃物を取り出して自殺してしまえば良い、と彼は何度となく考えたが、自然の静けさによって日毎冷静にさせられていた。

 おかげで死ぬための道具など取り出せず、のうのうと生きてきたものの、俄かに現れた川を見た時から、飛び込んで死んでしまおうかという思いが彼の脳室を泳いでいる。

 だが名月は結局川に足を付けず、逃げるように帰路を辿った。乱れた呼吸を整える暇もないままに、住宅街に駆け込む。八百屋を通り過ぎてすぐ、走るのを止めた両膝に手を突いた。

 疲れきった顔を正面に向けて、信号機の色をその目に映す。赤い光をちらと見てから、ゆっくり上半身を引き起こす。『気を付け』をしている人型が色を無くすと、その下方で、歩く人の影絵が青く光り出した。

 横断歩道を渡ってすぐ右側にある一軒家の戸を潜り、後ろ手に閉めた扉に背を預けて、長い大息を吐いた。

「名月、少し遅かったじゃない。心配したのよ。」

 これから買い物に行くところだったのか、コートを着て手提げを持った母親が、名月の腕を引っ張った。背中が冷たい扉から離れていく。

「ああ、うん。ただいま。」

 どこか冷めた、素っ気無さを感じる挨拶を母の耳元で呟く。毎日顔を合わせ、この日の朝も抱擁の後に送り出されたというのに、感動の再会みたいに腕を回されていた。母がようやく名月から体を離して、「それじゃあ、お母さん買い物に行ってくるわね。」と微笑みかけてから、靴を履いて出て行った。

 名月はその後ろ姿を見送って、唇を噛み締める。

 日々注がれる愛情が何に起因しているのか、名月は分かっている。瞬きをした彼の瞼の裏に、先刻の少年の姿が映された。川の向こうにいた少年を、名月は葉月の亡霊だと思った。

 廊下を進んで二階に上がり、自室に入ってから、名月は姿見を前にする。黒い学生服を着た体躯も、男にしてはやや長い髪も、川の向こうにいた少年と同じに見えた。それでもあれが自分の姿ではなく、兄である葉月の姿だと推測してしまうのは、兄が死者で自分が生者だからだろう。

 右手は腰の横へ下ろしたまま、左手だけを持ち上げる。その手でマスクを外して、長い前髪をそっと撫でると、右頬の火傷跡が露わになった。それが付いたのは数ヶ月前のことで、痛みなどとっくに消えていたのに、葉月のことを考えると傷が抉られるような疼痛を感じる。

 葉月は、数ヶ月前にこの部屋で起きた火事によって亡くなった。

 試験勉強などに励んでいても「お前は兄なんだからしっかりしろ。」と怒鳴られていた葉月の姿が、名月の記憶に色濃く残っている。その光景が印象的だったからではなく、それが毎日のように見かけた彼と両親の姿だからだ。

 それに引き換え名月は、昔から優しさに満ちた愛情を注がれている。生まれつき右手が麻痺しており、日常生活で親に世話をしてもらっていることが多い名月を、葉月が「一人じゃ何も出来ないやつ。」と毒吐いていたのも同様に、褪せることなく残っている。

 そんな毎日の中で突然燃え上がった火。その原因を、両親は葉月だと決め付けた。

「葉月には厳しくしすぎたかもしれない。でもだからと言って、弟を妬んで弟の部屋に火を点けるとは思わなかった。名月が無事で良かった。」

 母親も父親も、名月にそんなことを語った。それから今まで以上に愛情を注がれるようになって、客観的に見ればうんざりしてしまいそうなほどの心配を向けられているが、うんざりしてしまえるほど名月の心に余裕はなかった。

 自分がいつまでも何も口にしないから、きっと兄が呪いに来たのではないか、と名月は懊悩の末に俯いた。内臓を炙る罪悪感から逃れるために、自身がどうしたら良いかくらい、名月も分かっている。それなのにどうもしないまま時間が刻まれていき、そうして幻覚を見るに至ったのではないかと考えた。

 兄の亡霊に不安を掻き立てられるくらいなら声を出した方が良い。思惟の後にそう決断し、名月は自室を後にした。

 一人で悩んだ時間は思いのほか長かったようで、一階へ下ったらちょうど母と顔を突き合わせることとなった。ただいま、と母が言う。名月は乾いてざらついた唇を小さく開いた。

「違うんだ。」

 一文字一文字の形をはっきりと唇で象って、なんとか否定を口に出せたものの、そこから先を紡ぐことができない。寡黙な息子が矢庭に叫んだものだから、母は両目をしばたたかせた。気抜けたような相貌を前にして、名月の喉に薄い膜が張られていく。不安で形成された膜は、名月から声を奪ってしまったようだった。

 なにが? と母が問うたように思われたが、名月は気が動転していて、その音を聞き取れなかった。

 なんでもないという意思表示として首を振り、名月は靴を履き始める。

「どこか行くの? もう暗いのよ?」

 言うのをやめたおかげで気持ちが些か落ち着いたからか、耳の後ろで母親の心配を受け止めていた。

「散歩してくる。」

 ほぼ息に近い掠れ声を零して、名月は外に出た。顎を上げてみれば、太陽のいない空が在る。鉄紺色に染まった頭上で、天体がちらちらと煌めいた。硝子を粉々に砕いて散りばめたような星から視線を逸らしたら、名月は家から見て左手側に歩を進めた。青信号を一瞥してから梯子じみた白線を踏みつけて歩き、八百屋の前を通り過ぎて行く。

 住宅街から遠ざかるように歩んでいった名月の目的地は、あの川だ。尤も、今日初めて目にした川が本当に在ったのか、今となっては定かではない。疲れていて幻を見たのだろうという思いも名月の中には存在したが、それでもそこへ向かいたい気持ちが溢れていた。

 それから幾許経った頃か、深閑として見慣れた景色が名月の前に広がり始める。人気がないそこは、草木などの自然が風と一緒に鳴いていた。

 いつも通り、草原の広がる右手側に川など見えてこない。土手すらない、平坦な道だ。とはいえ、あの川が幻だったと決め付けるには、無人販売所のあたりまで行かなければならない。同じ場所で同じ景色を見てみないと、と思い、名月は葉の声を聞きながら直進し続けた。やがて、川のせせらぎが耳朶を撫ぜ始める。藍色で染まった道を眺望していた黒目を、左手側にちらりと向けた。

 忘れ去られたような畑の手前に無人販売所があり、その右隣には案山子が立っていた。名月は道の右手側を後目に窺う。数刻前と同じく、土手と川が虹彩に映り込む。

 口内にじわりと湧いた唾液を喉に押し込んで、土手を下った。夜空の下にいるにもかかわらず、川の傍はやけに明るかった。川の中に洋灯が沈められているのではと考えてしまうくらい、川の向こうまではっきりと見つめられる。向こう岸には、やはり名月と同じ姿をした少年がいた。

 視線が絡むと少年がにこりと微笑む。ぎこちなさや綻びを知らないような笑みに、名月の胸がちくりと痛んだ。細い針が刺さった胸を軽く押さえて、名月は川の向こうへ呼びかけた。

「兄さん、なの? ぼくを呪いに来たの?」

「僕は『名月』だよ。君のお兄さんじゃない。」

 その声音は、名月のものとやはり同じだった。しかし名月の声がやや掠れていて震え気味であるのに比べると、彼の声はさらりとしている。名月は彼に問いを重ねる。

「なんで、ぼくが。」

「名月、こっちにおいでよ。こっちに来れば、君はもう、真実を知られるかもしれない恐怖に震えなくて済むんだ。誰にも罪悪感を抱えないで済むし、後ろばっかり見つめずにも済むんだよ。」

 名月には、『名月』が何を言っているのか、分からなかった。自分がもう一人いることも信じられないというのに、そちら側に行けば救われるというような言葉など、信じられるはずもなかった。

 だのにそちらへ手を伸ばしたくなるのは、『名月』が自分と同じ顔とは思えないほど、綺麗に笑うのが羨ましく思えたからだろう。名月は震える足を一歩前へ進めた。緩やかに流れる川の上で、夜空が揺蕩う。そこに足を差し入れて波紋を広げようにも、名月の足はもう前に進まなかった。

「……どうしたら、君みたいに笑える?」

「それは名月がよく分かっているんじゃないかな。」

 優しい微笑を真っ向からぶつけられて、名月は俯いた。目の前にいる『自分』を見ていられなくなって、川に踵を向ける。涼やかなせせらぎが、今は心地良く聞こえない。名月は鳴り止まない川の音に、責め立てられている心持ちになっていた。

「ねえ名月。どうして兄は死んでしまった?」

 対岸から質される。答えを急かすように、川の音が鼓膜へ流れ込む。どうして、と唇の裏で繰り返してみた。瞼の裏側が映写幕となって、燃え盛る部屋をちかちかと映す。

 名月、と誰かが叫んだような気がして、名月は両耳を手の平で包み込んだ。

 勇気を求めて川まで来たというのに、名月は結局、また逃げるように川から立ち去ってしまった。


     (二)


 どうしたら向こう岸の『名月』みたいに笑えるのか、という名月の問いに返された言葉を、暗がりの中で想起していた。照明の消えた自室で、名月は床に背を預けたまま目頭を押さえる。

 乾ききって罅割れた唇から掠れた独白が零れる。分かっている。その言葉通り、名月は自身に用意されている選択肢と、その先の未来が予測出来ていた。それでも、さながらビュリダンのロバのように、どの道へも進めない。名月の中で、選択を誤ってしまう恐れは、何も選択をしないまま死んだように生きる不安と同じ質量を持っていた。

 沈思黙考と自問自答を繰り返すなかで、呼吸が乱れていく。甘く優しい家を居心地悪く感じる理由も、両親からの優しさに抱える罪悪感も、葉月に二度と伝えられない言葉も、名月の気道を狭める。

 真実を叫べば全てから解放されるような気がしていた。だが胸の内にある瓶の中から、名月は『勇気』を取り出すことが出来ない。全て吐き出してしまうという道の先にはきっと今よりも楽な日々が待っているのだろうと思う反面、軽蔑され見捨てられる日々を過ごすことになるかもしれない、とも考えてしまう。先を思い描くことは出来ても、実際の未来は杳として見えぬのだ。

 名月は、自分に優しい顔だけを向け続けてくれている両親の、軽蔑に満ちた顔など見たくはなかった。数え切れぬほどの情感で綯い交ぜになっている彼の心に、両手を差し込んで本心だけを掬い上げるならば、その本心には「嫌われたくない」と書かれているはずだ。彼は思考する中でそれを覗き見てしまって膝を抱えた。

 目を瞑る。自分を見る両親の顔、葉月を見る両親の顔を、黒い視界に薄らと映す。そして葉月の顔も思い浮かべて、彼に抱えていた嫌悪の感情を肺に溜め込んだ。

 嫌いな人間が亡くなったことに、いつまで罪悪感を抱えるのだろう。嫌いな人間のために、いつまで葛藤し続けなければならないのだろう。音のない声で繰り返し、嫌いという言葉に唇を噛み締めた。

 回想する。回顧する。動顚して引き攣った笑みを浮かべているのはかつての名月だ。この部屋で、熱い光の中で、伸ばされた手をわけも分からず笑って見ていた名月だ。あの日の名月の腕は、その誰かの手に引っ張られて廊下へ突き飛ばされた。

 自分を睨みつける兄の双眸が炎の記憶に焼きついている。あの目は、弟を疎ましく思う目でも、憎しみに満ちた目でもなかった。その目見が訴えていたのは怒りだけだった。確かに名月へ向けられた怒りだったというのに、名月にはその怒りがとても、両親の愛なんかよりもとても、暖かく優しいものに感ぜられた。

 窓を隠すカーテンの隙間から、陽光が差し込む。幾つもの感情を整理している間に、夜は深まるどころか光で消されてしまっていた。瞳孔を刺し貫く明かりに眉根を寄せる。眩さから逃れるように上瞼を下ろした。

 だがそれを一秒も待たず持ち上げたのは、己で作った暗闇が記憶を描き出したからだ。光から逃れる自身はまるで『名月』のように笑うことを諦めているようにも思えた。名月は瞬きをする度、向こう岸の『名月』にかけられた微笑みを思い起こしてしまっていた。

 声帯を動かさずに名月は心に吐き出す。一度勇気を出せば目の前の環境をすぐに変えられるかもしれない。一度声を上げれば胸中の塊を溶かしてしまえるかもしれない。一度、目の前のものと向き合えば。

 手の平が名月の視界で持ち上がって、頬にじんわりとした熱が灯った。ゆっくりと丸められる指先で、爪が火傷跡に痛みを染み込ませる。

 一度こうすれば良い、と考えたのは初めてではない。名月は葉月を失くしたその日から何度も繰り返し自信を説得しようとし続けてきた。黙り続けていて良いのか、このままで良いのか。そんな言葉は何度も己でかけ続けてきた。時が経ち、今更と思う自身がいるものの、その今更な説得は彼の頭の中で止むことがなかった。

 何故こうも真実を話したがっているのか、胸に問うてみれば、脳が直ぐに返辞をしてくる。

 お前は笑いたがっているのだ。変わりたがっているのだ、と。

 名月は、乾き切った唇を一文字に引き結んだ。それでも口元の震えは止まない。薄皮を裂いてしまいそうなくらい歯を突き立てても、それは同じことだった。ひ、とも、ふ、とも表しきれない息が、噛み締めた口唇から零れた。

 自分が変わることで目の前の世界は変えられる、しかし自分が変わろうとしなければ何一つ変えられるものはない。そう語ったのは何かの物語の人物だったろうか、と名月は苦笑する。方今痛みに濡れていた火傷跡には、今や優しい人肌に似た温度の雫が流れていた。目尻から輪郭をなぞる涙は床へ落ちる。陽光に照らされた朝露のように薄らと光った睫毛は、眼を覆い隠して伏せられる。

 疲れきった意識は、ぽつりと零れて滲んでいった。


     (三)


 朝方眠った名月が目を覚ましたのは、昼間になってからだ。目尻から零れて顳顬まで濡らしていた涙は既に乾いていた。体を起こし、深呼吸をした。鼻腔をくすぐった苦い香りは記憶の中のものだ。心臓が早鐘を打つ度に息までもが震え出す。胸元に伸ばした手は衣服をきつく握りしめる。

 数歩足を前に進めた名月は、姿見の前に立った。そこに映るのは『名月』でも葉月でもなく名月自身だ。けれども名月の双眼には葉月の姿が薄らと描かれていた。自身とよく似た兄へ、名月は希う。

 兄さん。今日だけで良いから、一度だけで良いから。兄さんの勇気を、ぼくに分けてください。

 名月は唇だけで言葉を象る。鏡の自身へ重ねた兄の姿が、優しい色をしていた。だけれどそれは瞬きをした拍子にさらりと消えてしまう。名月は笑った。鏡には、左頬を痙攣させながら持ち上げて歪に笑んでいる名月がいた。目元からは不安、口端からは恐れがありありと浮かび上がっている。それでも名月は、部屋の扉取手へ手をかけた。

「兄さん、ごめん。ありがとう。」

 独り言ちたことでふと気付く。自分はこれまで亡くなった兄に礼を言ったことがあっただろうか。自分はこれまで、己を慰めるように罪悪感へ浸り続けていただけではなかろうか。

 熱を帯びた目元を眇めた。それは名月なりに微笑んだつもりだった。

 木製の扉が軋んだ音を立てる。部屋の外の空気はどこか涼しく感じた。廊下を進み、一階へ下る両足は今にも頽れそうだ。手摺から手を離せば足の力は失われて膝を折ってしまうだろう。しかし名月が倒れ込むことはなかった。足の裏はしかと地に着き、足音を確かに立てて、両親のいる居間へと向かっていた。

 一階の廊下を踏み締め、手摺に乗せていた手を滑らせて離せば、手の平に滲んでいた汗が空気を孕んで冷めていく。開けられたままだった戸を潜り、名月が居間へ足を踏み入れたら、いつもと変わらぬ笑みが両親から向けられた。

「名月、今日はいつもより起きるのが遅いのね。」

「考えていたんだ。」

 意を決して放った声は、やはりか細く、けれど針のような硬さをしていた。テーブルを拭いている母と、椅子に腰掛けテレビを見ている父が、名月に皿のような目を向ける。それはきっと、普段の名月らしくない声柄だったからであろう。

「ずっと、本当のことを話して良いのか考えていたんだ。母さんも父さんも幸せならこのままで良いと思ってた。けど言わなきゃ駄目なんだ。言わないとぼくが駄目になる。黙り続けていてもぼくは幸せになれないんだ。」

「名月?」

「聞いて欲しい。嘘だなんて思わないで、否定なんてしないで信じて欲しい。ねぇ母さん、父さん。あの日部屋に火を点けたのはぼくだった。」

 両親の面貌は吃驚から変化して次第に怪訝で色付く。否定されるような気がして、名月は彼らが何かを言う前に開口した。言葉を挟ませてはいけないと思った。臓腑の奥へ押さえ込まれていた感情が、大きく開かれた口から止めどなく溢れているみたいに、生じては消える泡のような言の葉が響き渡る。

「死のうと思ったんだ。こんな、一人では生きていけないような体で、他人に甘え続けて生きているのが嫌だったから。死にたかったんだ。だから火を点けたのに、兄さんがぼくを助けた。来ないでって言ったぼくに怒鳴って、ぼくの腕を引っ張って、ぼくを助けた。揉み合ってるうちにぼくは廊下に出ていて、兄さんが炎の中にいたんだよ。どうしたら良いか分からなくて、気が付いた時にはぼくは居間にいて、兄さんが亡くなったことを聞かされてた。だから、ごめんなさい。ぼくが、兄さんを死なせちゃったんだ。ぼくは最低なことをしたんだ。助けてくれた兄さんを責める二人にも、何も言えないで。ずっと黙ってて、ごめんなさい。」

 次第に、名月の面持ちは歪んで、床と平行になる程下へ向いていく。それは両親の目に、謝罪の表れとして受け取られたみたいだ。戸惑い顔を合わせる両親の姿すら名月は見ていなかったが、彼らが何かを言うように息を吸った音だけははっきりと外耳道へ通していた。

 その吐息に声が伴われるより早く、名月の体が後ろへ動く。踵を返して居間から飛び出した名月は、自身の名を呼んだ熱い声から逃げ出していた。

 家を飛び出して左手側に向かおうとするも、名月は思わず足を止める。そこに信号はなく、見慣れた八百屋もなかった。とはいえその景色は全く知らないものというわけでもない。わけも分からぬまま振り返り、家の右手側の道を見れば、そこにはいつもの信号と、その先に八百屋が見えた。

 道を忘れてしまったのだろうか、いや、そんなことはあるはずがない。何故記憶の中の街並みと全てが反転しているのだろう。惟んみても答えは出ない。代わりに、あの川の対岸に立つ『名月』の姿が思い浮かんだ。もとより名月は彼に会いに行くつもりだったのだ。

 行き慣れた静かな道の左手側にある土手を倒れそうになりながらも駆け下り、名月は両膝に手を突いて呼吸を整えてから目の前を見据えた。川の向こうには、昨夜と同じく『名月』が立っている。何を問うよりも先に、名月は両親に真実を吐き出してから抱き続けていた言葉を悲鳴のように掠れた声遣いで投げつけてしまう。

「生きていく勇気が欲しい。」

 俄に叫んだものだから、対岸の彼はきょとんと面食らっていた。肩で息をする名月は、今にも泣き出しそうなのを堪えて彼を眺め入る。

「全部、言ったんだ。本当のことを言ってしまった。」

「分かっているよ。すっきりしたかな?」

「……喉に溜まっていたものが取れて、息はしやすくなったよ。けど、本当に良かったのかわからないんだ。これじゃあぼくは母さんにも父さんにも軽蔑されて、結局生きていけないんじゃないかって。」

「本当に変われたんだね。」

 名月にとって慮外なほどに優しい響きが、草木の音色と混ざり合う。柔らかく溶け込む音は、名月の胸に刺さっていた棘を溶かし始めていった。

「生きていきたいって思えるようになった君なら、大丈夫だよ。勇気の出し方は分かったよね。君が変われば周りを変えられることも、分かったよね。後は、君の勇気次第でどうにでもなるんだよ。」

「ぼくの、勇気……」

「そう。だから安心して。もう、君の環境は変わったんだよ。想像してみてよ、君の未来を。きっと辛いことは沢山あるだろうけど、胃の奥に溜め込んだおかげで体を蝕んでしまっていた罪悪感は、なくなったんだ。重りを切り離したから君はちゃんとそこに立てた。また重りがのしかかってきても、君はそれの退け方をもう分かってる。ほら、僕のことを思い出して、名月。」

 ――彼岸に立った君なら、笑えるでしょう?

 川のせせらぎに掻き消されたのは、そんな言葉だった。優しく微笑む『名月』は、口端に人差し指を添えて唇を弓なりに撓らせる。同じ姿をしているのに自分が絶対しないであろう仕草を目の前でされたことに、名月は笑声を零していた。

「そうだね、今なら、笑えるかもしれない。」

 細められた視線の先で、『名月』は柔らかく微笑みかけてくる。名月がどれだけ目を凝らしても、正面にある双眸の中までは見えなかっただろう。『名月』の両目には、綺麗に笑う名月の顔があった。

 彼は小さく、一度だけ頷いた。それを目にした名月の視界がぼやける。霧がかかったように、目の前が白んだ。俯いて目を擦り、顔を上げると、そこは草木が生い茂っていた。土手もなく、川もない。行き慣れた静かな道の姿が、人影すら落とさずに風で揺れる。

 彼岸はもう、どこにもなかった。

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