反復するトラジティ3

 駅まで十分、学校まで十分程度の道を辿った。昨日通っただけの道を思い出して学校に向かうのは、なかなか勇気が必要だった。信号や分かれ道に差し掛かるたび、こっちで合っているだろうか、と不安が込み上げるのだ。なにかが違うような気がして元の道に戻ろうとするも、結局その道を進む、という不審極まりない動きまでしていた。

 どうにか学校に辿り着いて、他の生徒の背中を眺めながら昇降口に進む。昨日さんざん睨めっこした下駄箱に靴を仕舞って、上履きに履き替えていたら「おはよ」というソプラノの挨拶が耳に流れ込む。

 僕の左隣に進んで、靴を履き替えているのは川田さんだ。


「あ、おはよう、川田さん」

「今日も帰り、秋山と霖雨とどっか寄るの?」


 それは、初めて聞いた彼女の声と同じく、気怠げではあったが、嫌そうではなかった。僕の方を向いた彼女は首を斜めにして、明るい茶髪をさらりと揺らす。ただ確認しておきたいだけみたいだった。

 僕はもう一度、頭の中で彼女の言葉を繰り返してみて、くすりと笑いながら頷いた。


「うん、そうしよう。昨日は楽しかったし、もっと仲良くなりたい」

「そ」

「教室、一緒に行こうか。というか川田さん、暮林さんのこと下の名前で呼んでるんだね」

「昨日友達になったから」


 友達、という響きに目を瞠ってしまった。暮林さんに友達が出来た、というのは、僕の目的を達成するためにはとても喜ばしいことのはずだ。それなのに晴れ渡った表情を上手く作れない。

 階段を上りながら、心臓が痒くなるような気持ちを堪えて、唇で三日月を象る。


「いつの間に、友達になろうなんて言ったの?」

「一緒に遊んで、楽しめたなら友達でしょ。だから、友達らしくなるために今日から呼び捨てしてみるから。よろしく時雨」

「あ、僕もなんだ」


 どこか引き攣っていた笑みが自然と綻んだのは、川田さんの中で僕も友達として見られていたことが、嬉しかったからだろう。友達なんて関係一つで簡単に気分が浮き沈みする。なんだか馬鹿馬鹿しかったけれど、可笑しかった。

 階段を上って、廊下を進んで教室に入る。既に教室内は騒がしいくらい生徒が登校していて、川田さんと一緒に入ってきた僕は数名にちらと見られた。女子も男子も、何人かがこそこそと話し始める。やはり学校というところは面倒くさい。男女が仲良くしていると変な目を向けられる。

 けれど、別に僕はそれでも構わないと思っていた。今はそういう目で見られるかもしれないけれど、そんなのを気にせず暮林さんと川田さんの仲を深めさせれば、僕がいなくなった時に綺麗な友情だけが残るだろう。秋山はどうやらクラスのムードメーカーみたいな立ち位置だから、何かあっても取り持ってくれそうだ。

 川田さんは一番前の席に座って、僕はそのまま自分の机に向かう。秋山はまだ来ていなかったけれど、隣には既に暮林さんが着座していた。


「おはよう、暮林さ――」

「おはよう霖雨」


 椅子に座ったまま体の向きを暮林さんに向けると、彼女の顔も一瞬こちらを向いた。しかし、彼女の正面に立った川田さんが、彼女の意識を全部持っていく。


「えっ、あ、うん。おは、よう。川田さん。明坂くんも」


 僕のことは忘れられていなかったようで少しほっとした。僕の名を呼んだ時だけこちらをちゃんと見るあたり律儀だと思う。困ったように微笑んでいる暮林さんへ、川田さんが詰め寄った。机に手を突いて、頭突きするのではと誤解するくらい身を乗り出す。


「ねぇ、今日から霖雨って呼ぶから。霖雨も私のこと、雪って呼んで良い」

「え……?」

「というか、そう呼んで。友達なんだから」


 有無を言わさぬ語調に、僕は困り眉を作ってしまう。暮林さんも戸惑うだろう。という僕の予想に反して、彼女の眼鏡の奥で、その瞳が真ん丸になっていく。星空を凝縮したみたいに双眸を輝かせて、彼女は「友達」と反芻した。

 嬉しそうなのは横顔だけでよく分かる。それを見ていたら、先程友達認定してもらえた僕もあんな顔をしていたのではないかと考えてしまった。照れ臭くなって、頬を掻く。


「わ、わかった。雪、ちゃん」


 呼び捨てで良いのに、と唇を尖らせる川田さんと、気恥ずかしそうに微笑んでいる暮林さんのやり取りは、とても微笑ましい。嬉しさと一緒に棘の付いた情感が込み上げるのは何故だろうか。

 悲しいのに笑ってしまう人みたいに、僕の笑みはどこか歪だったかもしれない。だから、それを誰かに見られる前に机に伏せた。机の上で腕を組んで、そこに顔を埋める。

 暮林さんを救わなければならないし、僕自身そのことに賛成しているし、救いたいと思っているのに、心がそれを快く思っていないみたいで、気持ち悪い。

 僕が作っている影のせいで、机の木目はおろか、色さえ窺えない。真暗な影をじっと見つめ、教室内の喧騒を一人ぼっちで聞いていた。孤独感が臓器を押し潰そうとする。深海に落ちていくみたいだった。潰れて、そのまま息も出来なくなって、死んでしまうような。

 そんなことをイメージした自分の脳が理解出来ず、耳を塞ごうとした。楽しそうな声が、今はなんだか不愉快だった。そっと持ち上げた両手を耳に添える前に、頭にこつんと何かがぶつかる。


「時雨、おはよう。朝だぞ!」


 頭の天辺を後ろに引っ張って、僕は顔を上げた。僕の前に座った秋山は片手にテニスボールを持っている。彼はそのまま、ボールを前に突き出して、川田さんと暮林さんにも笑いかけた。


「今日の放課後は、野球しようぜ!」

「それテニスボールじゃん」

「キャッチボールするだけだからボールはなんだって良いんだよ」


 川田さんと秋山のやりとりを見ながら、僕は思わず、唇の隙間から息を吹き出してしまう。「それじゃあ、野球じゃなくてただのキャッチボールでしょ」と川田さんが抑揚のない声を返している。そんな二人が可笑しくて一人で笑っていたら、暮林さんが僕を見ていた。

 向けられた視線を辿って彼女と顔を突き合わせる。自分が見ていたことに僕が気付いて気まずくなったのか、彼女は一秒にも満たない短い間だけ顔を逸らした。けれどすぐにこちらへ向き直って、手を振ってくる。

 隣の席で、結構近い距離にいるのに、なぜか嬉しそうに手を振られたのだ。それが変だ、と思うより先に、なんだか頬が緩んでいた。

 多分、暮林さんがあからさまな好意を僕に向けたから、嬉しくなったのだと思う。好意といっても、それは勿論友達に向けるものだ。それ以上ではなく、それ以下でもない。それでも、『ただのクラスメート』じゃなくて、『好感を持てる友達』という肩書きを手に入れた気になって、ほくそ笑んだ。


「楽しみだね、放課後」


 僕がそう声をかけたら、彼女は顔いっぱいに嬉しいという感情を広げたまま、頭を大きく縦に振った。一度下に下げられた頭は、不思議と上がってこない。きょとんとしていたら、意を決したように彼女は髪を振り乱して正面に面を向けた。


「あ、あのっ」

「どうかした?」

「お昼、も、みんなで一緒に……」


 語尾にかけてどんどん声量が零になっていく。言い切るには勇気が足りなかったのだと思うし、最後まで言い切らなくても伝わると思って、そこで勇気を使い切ってしまったのかもしれない。

 実際、僕はそこまで聞いて、その先にどんな言葉を続けたいのか理解出来ていた。それなのに知らないフリをして続きを待ったのは、彼女がどこか、甘えているように見えたから。

 表面には出さないけれど、少し、他人に甘えて『察してくれ』と訴える彼女の弱さに、苛立ちを覚えた。

 僕が「お昼?」と鸚鵡返しをすると、暮林さんは目と一緒に顔も泳がせながら、掠れた声で「えっと」と繰り返していた。そんな彼女の頭に、川田さんの手の平が乗せられる。


「お昼、一緒に食べようってことだよね。私は元々そうする気だったし、良いよ。時雨と秋山も良いよね?」


 川田さんが察してくれたことで、暮林さんはほっとしたように笑う。色を無くしていっていた頬が、今は恥ずかしげに赤く色付いていた。

 予鈴が鳴って、川田さんは暮林さんに片手を振り、自身の席へ戻って行く。秋山は黒板に体を向け直して、机を漁り始める。既に授業の準備をしていた僕は、隣の席で嬉しそうにしている暮林さんに、冷たい黒目をぶつけてしまう。

 口を開いてはいけないと、なんとなく思った。だけど僕は、口角をほんの少し下げたまま、小さな棘を放ってしまった。


「暮林さん。一人で出来ないことは、誰かに甘えて、助けを求めても良いかもしれない。けどさ、自分一人が一歩踏み出せば言い切れる言葉の先を、優しい誰かに続けてもらうなんて甘えは、駄目だよ」

「え……?」

「踏み出さないと、何も変わらないでしょ。だから、君が踏み出せないなら、いくら僕が君を前へ引っ張ってもすぐに――」


 自分が何を言っているのか気付いて、手の平で口元を覆う。危なく、僕は君を助けるために行動しています、と明言するところだった。不審に思われてしまったかもしれないけれど、その不安を表に出してしまえばもっと不審になる。

 だから、今し方の無表情を嘘みたく掻き消して、児童小説に出てくる猫に似た笑い方で上書きした。


「なんでもない」


 誤魔化すべく、何事もなかったといった様子で僕は鞄を漁り始めた。長財布が目に入って、秋山にお金を返さなければならないことを思い出す。鞄から財布を引っ張り出した後、僕は秋山の背中を軽く叩いた。


     (六)


 それから、僕らは毎日昼休みと放課後、一緒に行動するようになった。もっと短い時間も含めるなら、十分休みや朝のホームルーム前も、だ。秋山は誰とでも笑って話せる人気者みたいで、そんな彼と絡んでいる僕もだんだんと友達の輪が広がっていく。体育の授業だと男女別になるため、僕は秋山や他の男子生徒と話しつつ、女子の授業風景も観察していた。

 暮林さんと川田さんはほぼ常に行動を共にしているみたいだった。その分二人の仲が深まっていると感じられ、胸を撫で下ろせる。

 僕が来てから――つまり暮林さん達が仲良くなってから、二週間が経つ。暮林さんは、二週間前に僕が「なんでもない」と誤魔化した発言に関して、なにも言ってこなかった。気にしていないのか、それとも忘れようとしているのか、あのことには一切触れず、普通に友達として接してくれる。最近はよく明るい表情を浮べるようになった。

 この調子なら大丈夫、と胸に呟いて、僕は席を立ち、鞄を肩にかけた。


「じゃあ、ファミレス行こうか」


 僕は今日、日直だったから、三人を少し待たせてしまっていた。書き終えた日誌を先生に渡してきた僕がそう呼びかけると、三人はそれぞれ頷いた。

 他愛のない会話を交わして無言の時間を潰し、学校からファミリーレストランに足を踏み入れる。秋山と僕、川田さんと暮林さんが向かい合って座り、メニューを眺めた。

 学校が終わった後だから空腹で、どの写真も美味しそうに見える。ハンバーグにしようかと悩んでいたら、川田さんがぼうっとした顔のまま、さらりと言った。


「今日は私が奢るよ」

「え?」


 まるでいつも奢ってもらっているような言い方だけれど、初めてカラオケへ行った日に秋山が奢ってくれたくらいで、それ以降は皆自分の財布からお金を出していた。

 いきなりの申し出に、僕も暮林さんも、秋山も、みんな驚いて、それから一様に首を左右に振った。


「大丈夫だよ雪ちゃん、お金ならちゃんと持ってるから」

「俺も時雨も、大丈夫だぞ」

「じゃあ秋山と時雨は自分で払えば良いけど、霖雨のは私が出したい」

「暮林さん、そろそろお金まずい?」


 川田さんの言い方が妙に気にかかって、僕は正面に座っている暮林さんの手元を窺った。メニューに書かれている値段と、自身の手持ちの額を気にしていたのだろう、その手にはベージュの財布があった。

 毎日のように遊ぶことで仲を深める、ということしか僕の頭にはなかったが、僕も彼女達も、皆中学生なのだ。財布に入っている金と言ったら、普通親から貰う小遣いくらい。たくさん貰える子もいれば、そうじゃない子もいる。親に「友達と遊ぶからお金を頂戴」と言って貰える子と、貰えない子がいる。

 みんなの金銭事情までは考えていなくて、内心で舌を打った。次からは金を使わない娯楽にも目を付けよう、と考えていたら、黙っている暮林さんの代わりみたいに川田さんが開口する。


「クラスの子が話してるの聞いた。霖雨、母親と……その、仲良くないんでしょ。だったら、お金とか、大変じゃないかなって」


 川田さんは、はっきりと物を言っているけれど、言葉は選んでいるみたいだった。実際、彼女が聞いたという話は、もっと酷い言葉が使われていたかもしれない。たとえば、いじめられているだとか、虐待されているだとか。

 思えば、僕は暮林さんに友達を作ることに必死で、彼女のことをよく知らない。自殺の原因は学校で孤立していることだと、勝手に決め付けてしまっていたような気がする。

 何を言えば良いか分からない様子で唇を引き結んでいる秋山が、暮林さんに気遣うような面様を向ける。暮林さんは笑った。砕いた硝子で作ったみたいな、痛々しい笑顔だった。


「大丈夫だよ。雪ちゃんに出してもらうのは、悪いし」

「悪くない。金なんて腐るほどあるよ。貯金増えすぎたから減らさせて」


 暮林さんの手元の財布を奪って、川田さんが小銭入れのファスナーを閉め、持ち主の鞄の中へ突っ込む。そのまま鞄を持ち上げて、自分の右手側に運んだ。暮林さんが手を伸ばしても届かない位置だ。

 困ったような顔で暮林さんに見上げられ、「早く何食べるか決めたら」と川田さんが素っ気無く返す。

 渋々引き下がって、暮林さんはメニューと睨めっこを始めた。


「川田って、金持ちなのか?」

「別に」


 秋山の問いかけにも冷たい声が返されたが、川田さんはいつもこんな感じだ。深く聞かれたくないわけでも、質問に苛立ったわけでもないと思う。

 テーブルに置かれている呼び鈴を鳴らして店員を呼ぶと、僕らはそれぞれ食べたいものを頼んだ。少しして、四人が頼んだ食事が卓上に並べられる。チーズの乗ったハンバーグを箸で切っている僕の横で、秋山が明太子パスタを口に含む。咀嚼してから、彼は「今度さ」と言った。


「いや、今度ってか、みんなが良ければ、明日。明日は、俺の家で遊ばね? 金かかんないし、ご飯食べる奴が多くなると母さん喜ぶし、カードゲームとかテレビゲームとかするのも楽しいだろうし。どうだ?」

「良いね」


 言下に返したのは僕だ。それはとても楽しそうだと思ったし、秋山がそれを提案したのは、もしかしたら暮林さんを色んな面で気遣ってのことだろうな、と思ったからだ。お金に余裕がないかもしれなくて、家庭環境も良くないかもしれない彼女に、一般家庭で楽しい食事をさせる。それは良いアイデアだと思った。

 川田さんと暮林さんも賛成のようで、二人とも「楽しそうだね」なんて話し始める。それから、トランプは何が好きか、だとか、どんなゲームがあるか、だとか、そんな会話が始まった。トランプのゲームはいくつか記憶にあったため、なんとか会話についていけたけれど、テレビゲームだとかRPGとかの話になってくると、流石に記憶と知識が追いつかなくて、相槌を打つことしか出来なくなる。

 暮林さんもあまりゲームはしないのか、川田さんと秋山の話を微笑んで聞いているだけだった。

 聞き側に徹する、というのも退屈で、僕は暮林さんのドリアの皿を指で叩いた。ガラス製の器が透き通るような音を立てて、暮林さんの興味を引く。こちらを見てくれた彼女に、にこりと笑った。


「暮林さんも、あんまりゲームとかしない?」

「あ、うん。私、そもそも友達、いなくて。ゲームを買ってる余裕も、なかったから」

「そっか。じゃあ、秋山の家でやるの、楽しみだね」

「時雨くんは」


 僕と彼女の虹彩が、真っ直ぐな線で結ばれる。眼鏡の奥の丸い目を、初めてちゃんと見つめたような、そんな気がした。だがそれは気のせいだ。実際に初めてだったのは、多分、暮林さんが真っ直ぐに僕を映したこと、だと思う。いつも恥ずかしそうに目を逸らしていた彼女が、真っ向から僕に、初めて向き合ったような感覚だった。

 暮林さんは、あ、と口を塞いだ。


「ご、ごめんね。えっと、明坂くん、は」

「え、あ、いいよ。時雨で」


 逸らさずに僕を見つめてくれたという衝撃に意識全部を持っていかれていたみたいで、下の名前で呼ばれたことには気付いていなかった。

 時雨で良い、と言われて、彼女はプレゼントを貰った幼子みたいな顔をする。そんなに嬉しそうに笑えるのが、羨ましいだなんて思ってしまった。

 相変わらず自分の思考が理解出来ず、掻き消すように後ろ頭を掻いていれば、暮林さんが続ける。


「じゃあ、その、時雨くんは、さ。絵本とか、好き?」


 いきなりの質問に、僕は首を傾げる。中学生が絵本を好きだと言うことを、恥ずかしく思っているのか、暮林さんの顔はみるみる赤くなっていった。それがなんだかおかしくて、僕を笑わせてくる。


「好きだよ」

「はっ!?」


 音量を最大にして曲を流してしまった時みたいに、大きな声を上げたのは秋山だ。川田さんと話していたはずの彼はいきなり僕の胸倉を掴んで、小声で怒鳴ってくる。


「おまっ、時雨どういうことだよ! せめて俺のいないところで、だなぁ!」

「いや、秋山、違う。絵本の話」

「絵本?」


 気が抜けたような顔を浮かべている秋山を、川田さんがクスクスと笑っていた。もしかしたら彼女は、秋山が暮林さんのことを好きだと知っているのかもしれない。

 暮林さんは喧嘩が始まったと思ったのか、狼狽して止めようとしていた。

 秋山が僕から離れて、ソファに背中を沈めたため、僕は話を戻す。


「暮林さんはどんな絵本が好きなの? シンデレラとか?」

「うん、好き。子供の頃、童話はたくさん読んでいたの」

「そっか。やっぱり女の子って、童話の王子様に憧れる?」


 暮林さんがどう反応するのか見てみたくて、少しからかうような声柄で言ってみた。けれど彼女は、ううん、と首を左右に振る。


「シンデレラなら、魔法使いの方が好きだよ」

「へぇ、どうして?」

「だって、舞踏会に行きたいって思いを叶えてくれるのは、魔法使いだから。シンデレラが王子様に会えたのも、幸せになれたのも、魔法使いのおかげでしょ。けど、魔法使いは一度助けてくれたきりで、それからは出てきてくれないのが、残念だよね」


 本当に、童話が好きなのだろう。普段みたいに言葉に詰まったりせず、饒舌に、楽しそうに彼女は言った。話を聞いていたら、確かに、と思えて、なんだか僕まで楽しくなる。


「そう言われてみると、僕もそう思っていたみたいな、そんな感じになる」

「時雨くんも?」

「昔、そう思っていたような気がしたんだけど、多分暮林さんの言葉でそう思っただけ」


 僕が共感を示したことで、暮林さんの顔色がパッと華やぐ。

 童話というと、コレが好きだったな、という話で場が盛り上がり始めた。自分達の深い部分とは関係してこない思い出話みたいで、誰かが嫌なことを思い出すこともなく、皆楽しそうに好きだった物語を語っていく。

 暮林さんが一番楽しんでいるみたいに見えたけれど、多分彼女と同じくらい、僕も楽しかった。

 窓の外から日差しが一切差し込まなくなって、もう遅い時間だと気が付いたのは、誰が最初だっただろう。恐らく、みんなほとんど同じタイミングで外か、時計に目を向けた。話がちょうど途切れた頃だ。そろそろ帰ろうか、と言った僕を、秋山が引き止めた。


「時雨と俺はもうちょい話していくからさ、暮林さんと川田は気を付けて帰れよ!」


 この後の予定は特にないから別に構わないけれど、話があるなんて一切聞いていなかった僕は少しびっくりしていた。川田さんと暮林さんは顔を見合わせて、微笑を交わすと、すっと席を立つ。立ち上がりざまに川田さんは自分と暮林さんのぶんのお金を置いていった。


「じゃ、お先に」

「じゃあ、また明日ね」


 暮林さんが先に通路に出ないと出られないから、川田さんが彼女の背をぐいぐいと押している。暮林さんはもう一度「また明日」を繰り返して、手を振りながら遠ざかっていった。

 また明日。思い返してみれば、彼女はいつも、「また明日」という言葉を口にしている気がする。また明日、なんてただの別れ際の挨拶だ。一般的なものだし、深く気にする必要性のないものでもある。だけど僕には、それがなんだか、明日もこの関係が続いていますようにという、おまじないをかけているみたいに思えた。

 既に見えなくなった二人の残り香を追いかける感じで、店の入り口の方をぼうっと見ていたら、秋山に肩を引っ張られる。


「なあ、時雨。俺、暮林さんが好きだ。なんとなくとかじゃなくて、本気で、好きみたいなんだ」

「あ、うん、知ってるよ」


 本気だということまで知られているとは思っていなかったのか、秋山の整った顔が固まっていた。互いに黙った中で、店内に流れている音楽と、他の客の会話が聞こえてくる。通路を挟んで隣のテーブルにいる女子高生達が、「どっちの子のことかな」「ギャルっぽい子じゃない?」なんて、多分僕と秋山の話について語っていた。ずっと同じ店にいたら話題がなくなるだろうし、目に見える範囲の中から話題を見つけたくなる気持ちも分かるけど、聞こえる声で噂をするのはやめて欲しい。

 苦笑していたら、秋山がようやく続けた。


「俺、さ。最初は、そんなに良い印象持ってなかったんだ。いつも一人だから、一人が好きなんだろうし、クラスの話し合いにも全く参加しないから、他の人間のこと見下して、心の中で笑ってる優等生タイプかなって思ってた」

「暮林さんのこと? へぇ……」


 相槌を打ちながら、なんだか嫌な気持ちが肺に溜まる。僕も、周りにそう思われていたことがあるような気がした。一人が好きなんだろうから放っておきなよ、とか、大人ぶって調子乗ってるんじゃないか、とか。教室内にいる人間なんて、孤立している奴のことを好き放題言うものだ。当人は聞こえないフリをしていても、案外全部聞こえていたりする。

 だけど、秋山が暮林さんにそう思っていたのは、意外だった。初めから彼女に好感を抱いているように見えたからだ。


「秋山は、人を嫌ったりしないと思ってたよ」

「別に、嫌ってはなかったよ。近寄りがたいし、話しかけても素っ気無くされそうだし、仲良く出来ねぇだろうなぁとか、思ってただけで」

「ふうん。そう思っていたぶん、彼女の笑顔を見た時に舞い上がった?」

「……まぁ。初めて話したっつっても過言じゃない俺にも、あんなに頑張ってる感じで笑ってくれるのかって思ったら、気にはなるよな」


 僕の肩を掴んでいた手を離して、秋山はテーブルに両肘を乗せた。絡ませた指の背に顎をぶつける。隣にいる僕では、彼の顔色は覗けなかったけれど、赤くなっていく耳はちゃんと見えていた。


「それで、時雨と川田も入れてみんなでさ、キャッチボールしたりカラオケ行ったりしてたら、暮林さん教室にいる時よりもすげぇ楽しそうで。友達って言葉だけでも、すごく嬉しそうで。なんか、可愛くて。もっと喜ばせてあげたいし、もっと楽しませてあげたいって」

「うん、分かった。分かったからさ、それ僕じゃなくて本人に伝えよう?」

「伝えて良い、のかな」

「良いでしょ。明日の放課後は君の家行くんだし、なんなら、僕と川田さんでなんとか二人の時間作ってあげるから、とっとと告白しちゃいなよ」


 恋愛経験なんて僕にはない。生前の僕にだってなかったはずだ。だから、告白する適切なタイミングなんて知らないけれど、出来るだけ早くした方が良いと、なんとなく思った。

 秋山に告白されて、嬉しそうに笑う暮林さんを、僕も見てみたいのかも、しれなかった。


「分かった。ありがとな、時雨。明日、頑張ってみる」

「うん。あ、最後にアイス頼んで良い?」

「あ、俺もデザート食べる」


 呼び鈴で店員にデザートを頼んで、待つこと数分。僕の前にはアイスが、秋山の前にはコーヒーゼリーが運ばれてくる。お互いスプーンでそれをつついて、どこか熱くなっていた体を冷やすように嚥下する。

 コーヒーゼリーも冷たいだろうが、秋山こそ今アイスを頼むべきだったと思う。僕と言う友人に好きな人を打ち明けた彼の頬は、日焼けした後みたいな赤さをしていた。

 食後のデザートで口内をさっぱりさせて、僕と秋山はようやく店を出た。暮林さん達が帰ってから、三十分くらいは経過していそうだ。僕はホテルに向かうから駅の方へ行くが、秋山はそうではないため、店先で別れた。

 月光と街灯に照らされる藍色の道を進んで、駅前に出る。少し遅い時間まで長居しすぎたみたいで、僕みたいな中学生くらいの子供は全くいなかった。

 だからだろうか、同じ中学校の制服を着ている女子生徒に、目がつられた。

 彼女は駅構内から、スーツ姿の男性と腕を絡ませて出てきた。一見親子のようだ。カラオケ店の前でぼうっとしている僕の方に、二人は歩いてくる。

 学校指定のリボンはだらしなく緩めて、ワイシャツのボタンも下着が見えそうなくらい開けられている。スカートも短くて、派手な女子という印象を受けた。だから、染めたことなどなさそうな黒髪と、大人しそうな顔立ちが、服装とちぐはぐに見える。

 男性の方を上目遣いで見て、彼女はにこりと笑った。どこかで見たことのある笑い方だった。けれどそれは、僕が知っているものよりも、明らかに作られた笑みで。


「……暮林さん?」


 男のことしか見えていないようで、それ以外の通行人や夜景に目を向けることなく僕の横を通り過ぎた女の子に、僕は、思わず呟いてしまっていた。


「――え?」


 僕の耳の後ろに、革靴の音が数歩響いた。そのたった数歩で、その音はぴたりと止む。体ごと振り向いたら、あの女子生徒が足を止めて僕を見ていた。

 赤いフレームの眼鏡なんてかけていなくて、髪は結んでいなくて、制服は乱れていて。それでも僕には、彼女が暮林霖雨なのだと、分かってしまった。

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