咲き乱れ やがて散り行く 定めかな
花びらが一枚散ってしまっても、花は色を変えない。花が人のように心を持っていたなら、きっと、悲しみや苦しみに似た痛みを覚えたはずだ。
しかし本当に、植物には心がないと言えるだろうか。感情を表に出す術を持ち合わせていないだけではないだろうか。
飼っている動物が死んでしまった時に、泣く人間は多い。だが、育てていた植物が枯れてしまった時に、涙を流す者はどれほどいるだろう。
植物の声が聞こえる私は、学校で育てていた花が枯れてしまった時、誰も涙を流さないのが不思議だった。成長するにつれてその疑問は消えるも、私は彼らの声を聞き続けている。
――人と喋りたい。傍にいる花と喋りたい。
――声が聴けたなら。声を出せたなら。
そんな願いは、泡沫の現実となる。
*
「おーい、君」
溜息と共に吐き出された声に、少女は薄らと瞼を持ち上げた。肩を揺さぶる手は暖かく、乱暴さは欠片もない。先程の溜息にも、呆れの類の感情は混ざっていなかった。
上半身を起こした少女は、目の前でしゃがんでいる少年をぼんやりと見つめてから、周囲を見回す。白く綺麗な石壁で囲われた部屋には、棚だけが置かれていた。木で出来た棚の戸は硝子製のため、中を伺う事が出来る。大量の試験管とフラスコ、ビーカーを一瞥した後、少女は腰辺りまで伸びている栗色の髪を揺らした。
月の光を帯びた夜空のような瞳で正視された少年は、彼女のそれと似た色をした虹彩を、棚の方へ動かした。
「私……」
少女はようやく彼から視線を外して、何かを探すように左右を見た。忙しなく動くのは目だけではない。震えた指先が落ち着きなく冷たい床を撫ぜ、唇は小さな開閉を繰り返す。
明らかな不安と動揺を見て取った少年が、華奢な肩に優しく手を置いた。
「初めまして。僕はスミレ。よろしくね」
「スミレさん……」
「呼び捨てで呼んで」
首を縦に振ってから、少女も微笑を返す。笑い返されるとは思っていなかったからか、彼は一瞬息を止めて目を瞠っていた。吃驚とも狼狽とも取れる表情に、彼女は首を傾けた。
「スミレ、……私は?」
「君は…………キキョウだよ」
キキョウと呼ばれた少女にとっては一秒にも満たなかった間は、どうやらスミレの中で一分を優に超えていたのだろう。悩んでしまったことに頭を抱えようとした彼の意識は、名前を反芻したキキョウの声に引き戻される。
「やっぱり、覚えていないんだね」
「私、何なの? 何も思い出せない」
「……僕には分からない。ごめんね」
取り乱しはしないものの未だに不安に満ちた瞳を揺らすキキョウへ、スミレは屈託の無い笑顔を向け続けた。彼女が返した笑顔は微かに疲弊の色を残していて、心から安心出来たことで浮かべた顔ではない。安心させようとしてくれているスミレに応えたいが為の作り笑いだ。
スミレはそれに気付いているようで、伝染するように彼の口端が引き攣って行く。両者にとって気まずい沈黙が室内を占めて数十秒、ようやく彼が立ち上がった。
「ちょっとだけ待っていてくれる?」
「うん」
鉄製の片開き戸の向こう側へ消えたスミレの姿を思い起こしながら、キキョウは一人、口元を綻ばせる。頬が緩んでしまった理由は、不思議と彼女自身分かっていなかった。微かに頭痛がしていたが、暖かな気持ちに包まれてしまえばそれすら気にならなくなる。痛みは気のせいだ、と思えた。
一分も経っていないのではないかと思うくらい早く、スミレは戻って来た。入室したのは、スミレだけではない。白衣を着た女性がキキョウを見るなり「異常はないようね」と胸を撫で下ろした。彼女を一瞥したスミレはキキョウに視線を戻す。
「彼女はクチナシ。薬屋って呼ばれることもある」
「私、独学で色々な薬を作っているの。ここはその研究所で、彼は私の助手みたいなもの」
薬、という単語を唇の裏で繰り返してみて、キキョウは眉を寄せた。今までよりも強い痛みが脳髄を刺す。無意識のうちに顔が歪んで行くことに気付いたキキョウは、クチナシとスミレに心配をさせないよう俯いた。
しかしすぐに顔を上げることとなる。
「キキョウ、君は失った記憶をどうしたい?」
スミレが柔らかな表情を浮かべたのは、言葉から重い空気を取り去ろうとしたからだ。けれどそれは、問いかけに伴われて落とされる。まだ痛みの残っている頭に圧しかかってきた質問が、キキョウの平静など簡単に攫ってしまった。眉を顰めた彼女に、クチナシが助け舟を出す。
「思い出したいなら、外へ行って来なさい。ここにいても何も思い出せないわ」
頷いたものの、足元に表れている躊躇いのせいで立ち上がれないキキョウは、自身の両膝を見つめ、両手で太腿を軽く叩いて、なんとか立った。小さく震える足を前に運ぶ。まるで初めて歩く幼子みたいな感覚に、キキョウは、転んでしまうのではないかと恐れを抱いた。歩くのはこれほど怖いことだっただろうか、などと考え、足を止めてしまったキキョウの手をスミレが優しく握る。
驚いて顔を上げると、彼は「大丈夫」と唇を動かした。本当に発せられていたか分からない、とても小さな声だった。指先から冷たくなって行くように感じていたキキョウは、握られている手の平から暖められていく。キキョウがほっとしていることに気付いてか、知らずにか、彼は紳士的に笑った。
「何も分からないのにいきなり外に出るのは不安だよね。だから、僕も手伝うよ」
「……ありがとう」
安堵の息を吐いた唇の隙間から、自然と言葉が溢れる。そうして自然と笑みが象られて行く感覚が、どこか心地良い。作ったものではない笑顔を顔一杯に広げたキキョウと、それに微笑を返すスミレの耳に、クチナシの溜息が届く。
「珍しくお節介。他の人の時は何も言わずに私と見送るくせに。ホント彼女のことで頭が一杯よね。その子があなたの知っている彼女かもしれない、って、期待しているの?」
「……まさか。きっと一目惚れってやつだよ。とにかくキキョウ、行こう」
ほんの少しだけ低い声で苦笑したスミレは、元の声色に戻して、キキョウに笑いかける。その表情はクチナシに向けていたものよりも柔らかく、暖かな感情に満ちていた。
そんな彼に頷いたキキョウは、彼の瞳の奥で揺らいでいた感情を、知る由もなかった。
部屋を出ると、長い廊下が続いていた。その先に玄関が見えない代わりに上り階段が伺え、ここが一階ではなく地下なのだと分かる。階段に向かうスミレの歩調は遅い。キキョウが疲れないようにと配慮しているせいだろう。壁も天井も床も、コンクリートを固めたような造りをしている廊下に、二人の靴音だけが響いていたが、ようやくそこに声音が混ざる。
「キキョウ、僕らは『何か』を願ったんだ。だからクチナシは僕らの願いを叶えるために、ある薬を使った。けどその薬の副作用で、ほとんどの人は記憶を失った」
「……スミレは、記憶を失っていないの?」
「そう見える?」
隣を歩くスミレの、どこか自虐的にも見える笑みを見ていられなかったキキョウは、顔を俯かせた。それは首肯として彼の目に映ったようだ。何も口にされずとも彼は続けた。
「まあ、僕は思い出しているだけなんだけど」
「そうなの? じゃあ、もう願いは叶えた?」
そっと、スミレの手が離れる。キキョウよりも先に階段の一段目に足を乗せ、彼女の方を振り返って目を合わせてから、スミレは段差を上がり始めた。
右手側だけに取り付けられている木製の手すりに、何気なく手を滑らせながらスミレの背を見つめる。彼が質問に答えてくれないのは答えたくないからだろうか、だとすれば今の質問は口にすべきではなかったろうか、などと不安げな顔で考えていたキキョウの聴覚が、落ち着いた声にようやく刺激された。
「前に叶えに行ったんだけど。生憎、探していたものが見つからなかったんだ」
「そっか。……探してたのって――」
更に質問を重ねるかどうか逡巡はしたものの、意を決して口にしたが、キキョウは思わず言葉を止める。階段を上り終えた先で、スミレが長身の男性とぶつかっていた。
「悪ぃ……ってスミレか! 久しぶりだな」
キキョウよりも僅かに背の低いスミレは、彼と並ぶととても幼く見える。そのせいか、スミレを乱雑に撫で始めた彼は、息子に会った父親のような顔をしていた。
スミレはというと不機嫌そうに表情を歪め、彼の手を振り払う。
「リンドウ、記憶を探しに行ったんじゃなかったのか?」
「おう。思い出せねぇし良い女も見付からねぇから帰ってきた。っつーわけでそこの可愛いお嬢さんを紹介してくれよ」
「彼女はこれから記憶を探しに行くんだ。暇じゃない。行くよ、キキョウ」
リンドウと呼ばれた彼も自分やスミレと同じく何かを願った人なのだろう。そう考えて二人のやり取りを眺めていたキキョウは、名を呼ばれてからはっとし、歩き出したスミレを追いかける。
「キキョウ……? ってことはその子、お前の――」
「僕の、何?」
思わず、キキョウは双肩を跳ね上がらせた。キキョウと話している時の声色とかけ離れていた低声には、リンドウも動揺していた。
「な、なんでそんなに不機嫌なんだよ。というか記憶を探しに行かせないで、お前が教えてやればいいんじゃねぇの?」
「っスミレは、私を知っているの?」
「……お前、何を言っているんだ?」
慌てたように口を挟んだキキョウへ、スミレは軽く首を振って否定を示した後、リンドウに詰め寄る。その様子を気に食わないと言いたげに、リンドウは眉を顰めていた。
「その子、キキョウって言うんだろ? 確かお前の願いって――」
「人の願いは、他人が軽々しく口にするものじゃないと思うんだけど?」
「……けどなスミレ、キキョウちゃんについて何か知ってんなら、教えてやれよ」
「っキキョウが僕の知っているキキョウかなんて分からないだろ!」
声を荒げたスミレに駆け寄りたい衝動に駆られるも、キキョウはリンドウの鋭い視線を受けて身を竦ませた。しかしリンドウの憤りは彼女に向けられているわけではない。彼女に対するスミレの姿勢に苛立ちを覚えていた。
「じゃあ、なんでキキョウちゃんに手ぇ貸そうとしてんだよ。そうかもしれないって思ってるからだろ? 少しでも期待してるからだろ? だったら」
「っもういい、行こう」
状況に戸惑っていたキキョウの手首を掴み、スミレは足早に研究所を飛び出した。まだ話は終わっていないと言いたげなリンドウの声が背に降りかかるも、外に出たスミレはすぐさま扉を閉め、聞こえないフリをした。
クチナシの研究室の周りは草木が生い茂っていた。といっても、森の奥のようではなく、少し目を細めて遠くを見据えれば街並みや道路が見えてくる。獣道のような道とは違い、きちんと整備された道が玄関から真っ直ぐ続き、その先の階段を下れば歩道に出られるみたいだ。そんな道の作りはどこか神社に似ている。
スミレに手を引かれながら階段を下り、歩道に着いた。立ち並ぶ家々や、目の前を横切って行く自動車をキキョウがぼんやり眺めていたら、彼がその顔を覗き込んだ。
「この辺りに見覚えは?」
「……分からない。どうなんだろう」
キキョウは何気なく空を仰ぐ。頬を伝った雫は、涙ではない。泣き出したのはキキョウではなく、濃藍の夜空だ。「雨……」と零したキキョウは、不思議と泣き出したくなる。徐々に強くなる雨足に、視界が滲んだ。雨を掬うように持ち上げた手の平で雫が跳ねる度に、痛みを覚えた。呆然と手を眺めるキキョウを、スミレが引っ張った。
「横断歩道を渡った先の、青い屋根の家。あそこクチナシの家なんだ。雨宿りしに行こう」
研究所に引き返した方が良いのでは、とスミレに言おうとして、しかし先ほどのリンドウとの出来事を思い返し、無言のまま小さく頷いた。
スミレが持っていた鍵を使ってクチナシの家に入り、タオルで頭を拭い終えたキキョウは、リビングにあるソファに座っていた。タオルを綺麗に畳んでテーブルの上に置くと、その傍にコップが置かれる。
テーブルを挟んで正面に腰掛けたスミレは、手に持っていたコップに口付け、水を一口だけ流し込んだ。
「……そのコップ、可愛いね」
キキョウに言われて、彼は寸刻きょとんとしてから、自身の手に包まれているガラス製のコップを見つめた。底よりも数センチ上の位置に波線が引かれており、その上方に跳ね上がるイルカが彫られているデザインだ。それをまじまじと見てから、スミレはくすりと笑った。
「じゃあ、交換する?」
何気なくかけられた言葉に、キキョウは僅かに目を瞠った。交換、と胸中で反芻して、睫を軽く伏せ、首を左右に振った。
「ううん。私の手元にあったら、じっくり見れないでしょ」
それもそうか、と呟いたスミレに、キキョウは問いたいことが溢れていた。緊張して強張った唇にコップを押し当て、水を嚥下する。それで落ち着いたと思い込んで口を開いた途端、一つずつ聞くつもりだった疑問が洪水のように溢れ出してしまった。
「ねえ、スミレの知ってるキキョウ、って? 私じゃない、他のキキョウという人が、スミレの知り合いにいるの? スミレの願いは、そのキキョウさんに関係しているの?」
スミレは、視点をテーブルの上に置いた自身の手元へ落とした。そこを見ているようで見ていない、どこか遠くを見据えている瞳が、仄暗く揺れる。
「綺麗、だったんだ。彼女は星のようだった」
星、という例えを詩的に捉えたキキョウは、スミレにとってその『彼女』がとても大切な存在で在ったことを察した。
「……君が僕の知っているキキョウかもしれないって、そう思っているのは事実だよ」
「似ているの? 私と、スミレの知っているキキョウさん」
「……どうだろう。君といると、彼女といた日々を思い出すんだ」
「楽しかった?」
「分からない。僕は役目が終わった後、星のような彼女を眺めていただけだから。でも……それでも多分、楽しかったんだと思う。彼女が僕の前からいなくなった時、僕は辛かったから」
「いなく、なっちゃったの……? 別れも告げないで?」
首肯してから上げたスミレの顔は、その辛い過去の真っ只中に立っているようだった。咄嗟に彼から視線を逸らしてしまったキキョウを見てから、彼は唐突に話を変えた。
「秋の七草の一つ。山野に自生する多年草。釣鐘型で、五つに割れた青紫色の花を開く……それが桔梗だよ。君も、薬を使われるまではその姿をしていた」
「え?」
脳が軋んだ。そう思うほどの頭痛に、キキョウは疑問符を吐き出してから唇を噛んだ。瞬きをする度に、霞んで滲んだ記憶が瞼の裏に映される。けれどぼやけたそれをいくら見つめても、思い出せそうで思い出せず、焦燥感に似た感情が呼吸を乱すばかりだった。
キキョウを気遣うように目を細めてから、スミレはコップを持って席を立つ。
「続きは明日にしよう。晴れていたら気晴らしに夜景を見ても良かったんだけどね」
「スミレ、私……」
「二階にベッドがあるんだ。今夜はそこでゆっくり休んで。おやすみ」
流し台でコップを洗ってから、今しがた腰掛けていたソファに寝転ぶスミレ。キキョウはコップの中に残っている水を一気に飲み干し、彼と同じように身体を横に倒した。
◆
願いという意味での夢ならいつだって見つめていたが、記憶を全て遡っているかのような深い夢を見るのは、キキョウにとって初めてのことだった。
キキョウはゆっくりと身体を起こす。スミレが掛けてくれたと思われるタオルケットを呆然としたように見てから、丁寧に畳み始めた。
「おはよう」
「おはよ。ねえ、この辺りに海ってある?」
いきなり出された海という単語に、スミレは目を丸くしていた。悩むように顎に手を添えてから、こくりと頷く。
「徒歩だと二十分くらいはかかるよ」
「じゃあ、一緒に歩こっ」
嬉しそうに笑顔を咲かせたキキョウにひたすら動揺しながらも、スミレは「分かった」と苦笑を浮かべた。
早朝の空気はどこかひんやりとしている。クチナシの家に鍵を掛けてから外に出た二人は、心地良い秋風に髪を揺らされる。並んで歩道を進み始めると、キキョウが晴れ渡る青空を眺望した。
「私を育ててた人、私の他にももう一つ植物を育ててたんだ。もう一つの植物は、三月から五月にかけて咲くの。私は、六月から八月くらい。私が咲いていない時は、ずっとその花を眺めてた」
楽しい思い出を懐かしむような柔らかな声が、風に溶け込んで行く。スミレが「そう」とだけ相槌を打つと、キキョウは頷いて破顔する。
「私、その景色が好きだった。街並みも、遠くに見える海も、隣にいる小さな紫色の花も、微笑んで私達に水をくれるあの人も。大好きだった。でもね、その人とその友達が、私と別の花を交換したんだ」
スミレが息を呑んだ音に、空だけを見据えるキキョウは気付かない。彼女の桔梗色の瞳は微かに濡れて、朝露を零しそうになる。それでも、頭上を仰ぎながら彼女は笑う。
「だから私、そこにいられなくなった。別の場所に行くことになった。別の場所でずっと……海をもう一度見たいって、思っていたの。今度は、近くで見てみたい、って。それが私の願ったこと。願いを叶えられるのも勿論嬉しいけど、スミレと一緒に見られるのも、すごく嬉しい」
スミレに顔を向けたキキョウの笑顔に、彼が抱いた思いは『眩しい』というものだった。蛍光灯などの人工的な光に例えるのがおこがましいくらい、暖かな感情に満ちた明るさ。目を逸らせずにいる彼に、キキョウは口を開いた。けれども先に声を発したのは彼だ。
「僕はさ、手を伸ばせば届くはずのものに触れることさえ許されないのが、一番嫌だったんだ」
「……スミレ?」
足を止めた彼につられて、キキョウも立ち止まる。朝陽に目を細めた彼はそのまま儚げな笑みを唇で象り、キキョウの頬に触れた。かと思うと吃驚しているキキョウからそっと手を離し、彼は再び前へ足を運んだ。
「もう、気付いてるよね?」
「スミレは……あの、小さな紫色の花なの?」
「……もし、手があったなら、連れて行かれる君を掴んで、引き止めたかった。もし、声を出せたなら……君の名を叫んで、呼び止めたかった……っ」
泣き出しそうに震えた音吐が、キキョウに対する答えだった。無理に作っているような笑顔は、キキョウの胸を締め付ける。自身の爪先をじっと見つめたキキョウの肩に、スミレが手を置いた。顔を上げたキキョウに、彼は歩道の先にあるトンネルを指差す。
「海は、この先だよ。抜ければ見える」
「そう、なんだ。トンネルの先が海だなんて、なんだかロマンチックだね」
トンネルの中に足を踏み入れたキキョウは腕を掴まれ、引き止められた。どうしたのかと思って振り返ったキキョウの眼を、スミレは真っ直ぐに眺め入る。
「キキョウ、僕は君に会えてよかった。君といると、あの日々を思い出して……本当に、楽しかった。だから、ありがとう」
「う、うん。どうしたの、いきなり」
「なんとなく、かな。それと……ごめん」
スミレが謝った理由が掴めず、キキョウは小さく首を傾けた。昇ってきた朝陽が眩しいくらいに輝いて、トンネルの外にいる彼を明るく照らす。自分よりも少しだけ背が低く華奢な彼が、陽光に溶かされてしまいそうで、胸騒ぎがした。
「これから僕が言うことで、君は傷付くかもしれないし、嫌な思いをするかもしれない。だから、聞きたくないと思うなら、その目を閉じてその耳を塞いで」
「聞きたくないなんて、そんなこと、ないよ」
「そっか。良かった。……先に言っておくよ。キキョウ、さよなら」
「え?」
「僕は――」
「待って!」
喉が痛むくらい、声を張り上げた。スミレの胸にしがみつき、彼のシャツを強く握り締めた。手を離したくないという思いが彼に伝わるほど、強く、引っ張る。
「さよならなんて嫌だよ……どうして!? だって、せっかくまた会えたんだよ? 今度はこうして、人として会えたんだよ? もっと一緒にいようよ! スミレ、どこかに行っちゃうの……!?」
「……キキョウ」
「もしスミレがどこかに行っちゃったとしても、会えるでしょ!?」
「っもう、会えないんだよ……!」
悲しげに、悔しげに歪む彼の顔。その頬を伝った雫がキキョウの瞳を潤ませる。視界が滲んで、キキョウは彼の表情を伺えなくなった。持ち上げた片手で目を擦っても、すぐに溢れる涙が、陽の光を吸い込んでやけに眩しい。震える嗚咽を漏らしながら、キキョウは俯いた。
「どうして……? 会えるよ。スミレがどこかに行っても、私が探し出すよ。絶対に、探し出す……から……っ」
スミレが零した「ごめん」という小さな謝罪は、通り過ぎて行った自動車の音に掻き消されそうになる。それでも、息がかかるほどの距離にいるキキョウには、しかと届いていた。
彼に抱き締められ、キキョウは目を見開く。彼の熱が、泣き止まないキキョウに染み込んで行く。彼の背に手を回し、ぎゅっと抱き返した。優しい腕に込められているものよりも、強い力で両手を震わせた。
「スミレ、お願い。ずっと傍に――」
「――僕は君のことが好きだったんだ、キキョウ」
小さな愛が鼓膜に響いて胸を打つ。腕の中から、スミレの体温が消えた。力を込めていた腕はただ空気だけを掠める。彼の姿は、目の前にない。両膝が力無く地面に突いた。ぼろぼろと落ちる涙を受け止めてくれる彼はいない。まるで白昼夢を見ていたかのようだ。
脱力してアスファルトに触れた両手に視点を移すと、そこには一輪の花と鍵が落ちていた。
長い柄の先に紫色の花が横向きに付いている。それは見違えるはずもない、菫の花だ。
「スミレ……なんで? もう会えないって、こういうことなの? スミレ……戻ってよ! 喋ってよ……ねぇ! スミレ!」
「花は喋らないのよ」
すっと鍵を拾ったのは、クチナシだ。座り込んだまま彼女を見上げて、キキョウははっとしたように彼女の白衣を引っ張った。
「クチナシさん! お願い、あの薬をもう一回スミレに使ってあげて! スミレは、私に協力したせいでまだ願いを叶えてないの!」
「聞いていないの? 彼の願いを」
「え……?」
「残念だけれど、あの薬を使って願いを叶えた花はすぐに枯れてしまうわ。二度の服用は出来ない。例え枯れても願いを叶えたいって望んだのよ。あなたも、彼も」
クチナシの淡々とした声を聞きながら、キキョウは菫に触れる。それを震えた手で持ち上げると、涙が再び込み上げた。
「私、なんでそこまでして……海を見たかったんだろう……だったら、スミレとまた話したいよ……」
「生き物は出来ないことを強く願うものよ。あなたが選んだのは、近くで見たことのないものに対する憧れだった」
「……もう、いい。私、海を見に行かない。ずっとスミレといる」
「本気で言っているの?」
呆れたような声に反して、クチナシの目は咎めるようにキキョウを見つめている。それに気付かぬまま、キキョウは頷いた。
「だって、願いが叶ったら戻っちゃうんでしょ? スミレに触れることも、出来ないんでしょ?」
「……スミレの最後の言葉、思い出しなさい」
君のことが好きだった。そう言った彼の声は、思い出そうとしなくてもキキョウの耳に残っていた。鮮明に、頭の中で繰り返せる。その言葉の意味を今更想像して、喉を痙攣させた。
「彼はね、あなたに告白をしたかったの。そのために薬で人になって、ひたすらあなたを探し続けたわ。だから、あなたの願いはきっとスミレの願いでもある。叶えて来なさいよ、スミレとあなたの願い。ここで馬鹿みたいに立ち止まっていてどうするの?」
彼女の紡ぐ声が、キキョウの足を震わせる。キキョウは菫を手にしたまま、ゆっくりと、ふらつきながらも立ち上がった。首肯したキキョウに、彼女は小さく笑みを湛えた。
「本当に欲しかったものを手に入れられる人間って、ほんの一握りなのよ。当然誰だって、望んだ終わりは迎えられない」
「クチナシさん……」
「これが現実なの。けど、その終わりが幸せなものになるかどうかは、あなたの心次第よ」
「……私、人になれて良かった。スミレと話せて、良かった。だからね、クチナシさん。――私、幸せだったよ。ありがとう」
トンネルを進んで行く背中を見送りながら、クチナシは鍵を握り締める。
「……スミレ」
今までお疲れ様。そんな言葉を小さく零したが、それは当然、ここにはいないスミレに届きはしない。
「スミレ、私も、好きだった」
長いトンネルから光が差し込んだ頃、キキョウは両手で触れた菫に呟いた。
「私が枯れても、ずっと、愛してるよ」
やけに大きく響く靴音は、耳の奥で木霊する。それにようやく、細波の音色が混ざり始めた。キキョウの頬から零れ落ちた涙が、菫の花びらを伝う。
トンネルを抜けた先で、歩道を少し進んで砂浜に足を着く。どこまでも広がる海を見つめて、キキョウは顔を綻ばせた。
「スミレ、見て。海綺麗だよ。近くで見ると、こんなに――」
長い髪を揺らした風が、菫色の花びらを一枚舞い上げた。それを目で追って、キキョウは浮遊感に襲われる。ふわりと揺れながら、砂の上に菫が落とされた。菫の花よりも少し大きな桔梗の花が、それと交差するように舞い落ちる。
キキョウの後を追ってきたクチナシが、その二輪を、白く細い指で摘み上げた。
『クチナシ、ありがとう』
風や波音に攫われることなく、クチナシの耳朶を打った声。それは確かに、スミレの声だった。消え入るような声を発した、しおれて枯れて行く菫の花弁を、指で軽く撫でる。
「……さようなら」
力を緩めた指先から、菫と桔梗を風が攫って行く。既に色を変え、じきに枯れ行く二輪の花は、風に煽られても砂の上で重なっていた。
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