欠陥人間の足枷
夜空に藍色の闇を落とされた車道は、どす黒い絵の具が塗られている。
猫が、寝ていた。昼に見れば真っ赤であったろう血液を黒色の毛に付け、腹の辺りからは臓器を露出させていた。息を零すことのない口から、粘っこく見える血が糸を引くように垂れている。
僕はブレザーのポケットから、二つ折りの携帯電話を取り出した。フラッシュ機能をオンにして、猫の死体にカメラを向けた。真上から一枚、顔のアップを一枚、臓器の付近を一枚、計三枚を写真に収め、口角を上げる。
感動のあまり吸い込んだ酸素は肺を満たし、嬉しさに似た感情を胸中に広げ始めた。息を深く吐き出しても、恍惚や興奮は内側から出ていかない。その心地良さと、秋の夜風の涼しさに足を縫い止められ、目の前の猫の綺麗さに瞳は捕らわれ続けていた。
生という枷を外された死体は、本当に美しい。
(一)
青空を駆けゆく鳥を、人はよく、自由や魂の象徴として扱う。それなのに、死が悲しいことのように考えられているのは何故だろう。
人間は思考する。生きることに意味を求める。それは目に見えない枷だ。身も心も魂さえも生きることに縛られて、自由を見出せない存在が僕達人間なのではなかろうか。だからこそ、空を飛び回る鳥に憧れる。空を見上げて翼を求める者は、皆自由を求めているはずだ。そうに違いないと決め付けた僕の中で、死体というモノは何より美しい。だから写真として残す。太陽に近付けない卑小な人間が、陽光の中に神がいると信じて手を合わせるように。地面に縛られたままの僕は、鎖を引き千切り飛び立った生き物を敬う。本当なら自由になった魂を捉えたいが、それは不可能だ。
尤も、死体よりも魂の方が美しいのかもしれない、と思っていたのは、死に憧れたばかりの頃だけだ。なぜなら肉体も、魂という枷に縛られている。つまりはお互いが枷であるのだ。価値の高さに違いはない。高価な金属で造られた知恵の輪は、外されても双方に価値があるのだから。
昨夜データとして残した猫の死体の写真を正視し、マスクの下の口元を綻ばせていたら、チャイムが五月蝿く響いて鼓膜を刺激した。法悦としていた気分は息を潜めるように沈んでいく。携帯電話を仕舞って、真剣な面持ちで黒板を見据えた僕の肩に、何かが触れる。ふと目をやると、右隣に座っている女子生徒が破顔して手を引っ込めた。
「楽しそうに何見てたの? 彼女さん?」
悪戯っぽい笑い方に、眉根を寄せて顔を逸らす。授業中だからか声量を抑えてはいるものの、可笑しそうに吐息を響かせている彼女に苛立って、声柄に小さな憤懣を滲ませた。
「美しい写真を見ていた。それだけ」
「へぇ……! どんなの? 見せてよ」
「いいから前向いてノート書いたら?」
その言葉で会話は終わり。そう思ったのに、彼女が黙ったのはほんの数秒で、「見せて」と小声で何度も繰り返される。いい加減我慢ならなくなって、僕は携帯電話の画像欄を開き、猫の画像を彼女の眼前に突き付けた。
「ほら、美しいでしょ。これで満足?」
携帯を受け取った彼女の顔色を見て、マスクの下の口元が歪んでいく。浮かんでくる冷笑は彼女に向けたのか、それとも自身に向けたのか、自分では分からない。教師の声だけが暫し耳に届いていた中、ようやく彼女が放ったのは、冒涜にも相応しいものだった。
「可哀想……」
「――っ可哀想なんかじゃない!」
咽喉から鋭い怒鳴り声が込み上げた。気付くと僕は、彼女から携帯電話を引っ手繰りながら立ち上がっていて、教室内の視線を集めていた。しん、とした静寂が場を占拠し、僕は苦虫を噛み潰したような相貌で着席した。
「
(二)
橙で彩られた教室を後にして、一階にある職員室へと向かっていたら、袖を引っ張られた。僅かに驚きながら振り返ると、そこにいたのは相生だ。僕よりも十センチは低いであろう背丈に、真っ直ぐな長い髪。先程まで名前を知らなかっただけでなく、容姿すら意識していなかった僕は、これが相生という少女なのかと改めて認知した。
彼女の丸く大きな瞳にじっと射抜かれて、見つめ合うことに耐えられず、目を逸らす。
「……なに」
「一緒に行こうよ、職員室。……あ、そうだ」
無視して歩き出そうとした僕の手が、彼女に握られた。真っ直ぐな視線は目に痛い。手を振り払おうとしたら更に強く掴まれる。
「私、相生
相生の発した言葉を、聞き流さねばと思った。しかし一度外耳道を通ったそれを聞かなかったことに出来るほど、小学校という単語による衝撃は小さくない。耳の奥がざらついて、視界が霞む。
「せっかくだし、伏満くんじゃなくて
口の中に、苦いのかしょっぱいのかよく分からない味が広がった。歯を噛み合わせれば砂利の音が聞こえてくるようだった。
「……伏満くん? えっ、ちょっと!」
駆け出して向かったのは、近くにあったトイレだ。洗面台に手を突いてマスクを外すと、口内からざらついたモノを吐こうとした。顎を伝って零れ落ちたのは唾液だけだ。砂は吐き出せない。嚥下してしまう前に口から出さなければと、急かしてくる自身に従って流し出そうとしているのに、どれほど唾液を零しても、喉を酸っぱくさせても、こびり付いたような砂が取り去れなかった。
「――っ黒音くん! 大丈夫っ?」
強く引かれた自分の手の平が、やけに冷たく感じた。伝わってくる誰かの体温が熱い。目に映る景色はまだぼやけたままで、僕を見ている人物の顔すら見えない。
「……君、あぁ、相生か」
トイレの入口と廊下の色。廊下の窓から差し込む茜色。それらと相生の輪郭の色が混ざり合っていた。僕は何事も無かったかのように蛇口から水を出して、それを両手で掬う。口元を洗ってから、制服の袖で水を拭った。
「ここ、君が入って良い場所じゃないよ」
僕が苦笑すると、相生は「ごめん」と言いながら後ろ歩きで廊下に出た。不快感の残る口にマスクを被せ、僕も廊下へ足を踏み出す。
「ホントに、ごめんね。くろ……伏満、くん」
「黒音で良い。苗字で呼ばれるのは、正直あんまり好きじゃないんだ」
「……じゃあ、改めて、ごめんね。黒音くん」
廊下を進みながら窓を横目で見た。少しだけ開いた窓の隙間から涼風が流れ込む。心地良い風と夕陽で気を紛らわせ、早くなっている拍動をなんとか鎮めようとする。相生といくつか言葉を交わしただけでは、まだ足元が覚束なかった。廊下の壁に向かって伸びる自分の影が、過去の自分に思えてくる。切り離したいのに切り離せない。どこまでも付いてきて、僕を冷笑する僕。影踏み鬼みたいに誰かが踏み付けて、僕を脅かす鬼を奪ってくれたら良いのにと思っても、虚しいだけだった。
過去ばかりに意識をやってしまっていたが、徐々に正気を取り戻していく。唾を飲み込んでも異物感はない。音も鮮明に聞こえてくる。瞳は目の前の物を明瞭に映していた。
職員室の扉を開けて「失礼します。
「来週の月曜日までに反省文を書いて来い」とだけ言い放ち、彼は席に戻っていった。
職員室を後にすると、微かな解放感で体が軽くなったような気がした。早足で廊下を歩き、下駄箱へ向かう。上履きからローファーに履き替えて、昇降口を出た。
校門をくぐると左手側に進んだ。右手側は駅がある方向のため、人通りが多く、死骸はあまり見つけられない。左手側をずっと進んで行くと、閑散とした住宅街がある。誰も住んでいない家が多いようで、人気は無く、代わりに猫や鼠の死骸を多々見かける。日々被写体を求めて、その周辺を歩き回っていた。
滑り台しかない小さな公園に足を踏み入れて、木の傍などをじっくりと見ていくと、聞き覚えのある声が、静かな中で響いた。
「何か探しもの?」
双肩を跳ね上がらせて声の方を見れば、相生がこちらを覗き込むように立っていた。
「……何か用?」
「黒音くんと仲良くしたいなぁって思って」
「僕は、可哀想なものを探しているんだよ」
「黒音くんにとって美しいものなんでしょ」
妙な感じがした。僕の撮った猫を見て、心から可哀想だと感じていたはずの彼女は、何故か僕を軽蔑していない。それどころか、彼女があまり見たくないであろう死体を探しているのに「私も一緒に探すよ」などと言ってきた。僕は訝しげに眉を顰めたが、勝手にしてもらうことにした。
「ねぇねぇっ、鼠!」
公園に来てから何分経った頃だろう。焦りを感じさせる声遣いで相生が僕を呼んだ。彼女から少し離れた所の草木を見ていた僕は、立ち上がってそちらに向かった。
滑り台を背にして、相生はしゃがんでいる。その隣に屈み、彼女の視線の先を辿ってみると、鼠の死体があった。自然と朽ちていったような姿に鳥肌が立つ。外傷のない死体というのは、僕が思う中で一番美しいものだ。
携帯電話を鼠に向けて、数回シャッター音を響かせる。相生がいることも忘れて写真を撮り、眺めることに夢中になる。気が済んだところで携帯電話を仕舞い込むと、相生が鼠に触ろうとしているのが見えた。無意識下で、僕はその手首を掴んで止めていた。
「何してるんだよ。無闇に触らない方が良い」
「埋めてあげたいと思ったんだけど……そっか。でも、ティッシュで包めば平気かな?」
言いながら、ティッシュを取り出して鼠を包み込む相生。止めるのも面倒くさくなって、好きなようにさせることにした。相生は太めの木の枝を手にして穴を掘り始める。僕はその手元をずっと見つめていた。
埋められて行く鼠の姿が、鍵を掛けていた記憶の引き出しを開けようとする。それを拒むべく、僕は空を仰いだ。暗くなり始めた空で、飛べない僕を烏が笑っていた。
(三)
死体を羨望したのは、小学生の頃のことだ。
自分から誰かに話しかけるタイプではないから、僕は孤立していた。誰からも意識されず、興味を向けられず、まるで存在しない者のように扱われていた。
そのままの日々が続いていってくれれば良いと思っていた僕の中で、友達が欲しいという気持ちは少なからず在ったのだろう。
小学六年生の頃、同じクラスの男子生徒五人くらいが、僕に話しかけてきた。話しかけてもらえたことが嬉しくて、彼らと共に校庭へ走る。僕も自然と笑える場所が出来るかもしれない、なんて愚かな考えは、十分もしない間に砕かれていた。
サッカーボールが勢い良く頬を打つ。バランスを崩した僕が倒れ込む。立ち上がったら今度は彼らに蹴られた。どうしてこんな目に遭っているのか、全く理解が出来なかった。
それからは毎日外に連れ出されて、彼らに蹴られ続けた。
「伏満ってさぁ、不死身なのかなぁ」
「こえぇ。埋めてやろうぜ」
ある時は、そんな風に笑われながら砂をかけられた。やめてと叫べば口に砂が入り込む。砂場から持ってこられる大量の砂が全身を汚す。彼らが去ってから口と耳の中を洗い流す度、不安と恐怖はどうして洗い流せないのだろうと、感情の在り方を恨んだ。
暴力だけでも辛い日々。それなのに彼らは、ありとあらゆる嫌がらせを考えて持ってきていた。泥団子や雑草、虫さえも口に突っ込まれたことがある。そのせいで、人前で口を晒すことが怖くなった。
怖い。嫌だ。そんな悲鳴ばかりが脳室を駆け巡る中で、ある時、救いが差し出された。
彼らは僕を怯えさせようとしたのだろう。机の上に、鼠の死骸が置かれていた。干からびたような痩せ細った体。手足を動かすことも鳴くこともない鼠が、とても綺麗に見えた。
生き続ける日々の中で下卑た笑声を上げる生き物に抱いていた嫌悪感。はっきりと、何を嫌悪しているのか分かった。生きている奴らは、死んで美しくなれないくせに喚いていて醜いのだ。僕も、その醜い生き物の一人。死ぬことは怖い。けれど、やはり死は美しい。生き物は死んでようやく美しさを得る。その美しさに手を伸ばしてしまうのが、とても恐ろしかった。
だから、枷を切り離せない僕にとって、自由と美しさを手に入れた死体は羨望の対象であり、何より貴ぶべきものであった。
(四)
反省文を渡されてから四日が経つ。あれから、相生は毎日僕に話しかけてくるし、毎日放課後、僕の散策に付いてくるようになった。
「黒音くん、明日は土曜日だけどさ、明日も一緒に死体探さない?」
使われていない民家の庭を漁っていると、相生に意図の掴めない提案を持ちかけられる。断ろうと思って、立っている彼女を振り仰いだら、彼女は道の向こうを指差した。
「この道をもっと歩いて行くと、橋があるでしょ。あの下に、死んだペットを捨てていく人がいるんだって。ネットに書いてあった」
「わざわざそんなこと調べたんだ?」
「う、うん。休みの日も会いたいなー、って」
「なんでそんなに僕と関わりたいわけ?」
ずっと気になっていた問いかけが、話の流れのせいだろう、自然と口を衝いて出た。そこに深い感情を込めたつもりはなく、関わるなという意を込めたつもりもない。
ずれてきていたマスクを少し持ち上げて、僕は相生の返事を待った。こちらを見ようとしない彼女は、途切れ途切れの言葉を空気に溶かす。
「それは……え、っと。ご、ごめん。明日! 一緒に河川敷行こう。そこで、話せそうだったら、話すから」
「……分かった」
相生が僕に話す事柄なんて、見当も付かない。考えてみようと思ったが、視界を横切った茶の毛並みが僕の意識を奪う。
はっとした時には民家の庭を飛び出し、道路を歩いていた猫を掴もうとしていた。勿論、僕が触れるよりも先に、猫は道の先へ姿を消してしまっていた。けれども指先には、猫の毛を掠めた感覚が薄らと残っている。
「く、黒音くん。どうしたの? 今の猫、生きてるでしょ」
自身の手の平から視点を移すと、相生が不安げな面差しで僕を打ち守っていた。不思議なことに笑いが込み上げてきた。声を伴う笑いに、相生が華奢な肩を震わせる。
「驚いた? 死体を見れない日が続くとさ、殺したくなるんだ。殺したことはないけどね」
「……そう、なんだ」
「いいよ、軽蔑しても。死体を撮ってるだけで皆そんな目で見るんだから。君だって同じように軽蔑するのが普通でしょ」
放つ一言一言が、己の胸を刺す。僕は自身に言い聞かせていた。彼女といることに、どこか心地良さに似た嬉しさを感じているから。そんな自分に期待を抱かせたくなかった。分からせようと思った。――ほら見ろ。彼女は顔を歪ませて言い放つのだ。おかしい、気持ち悪い。そういう類の言葉を吐き捨てるのだ。
それを、期待した。希望を抱きたくなかったから、そういう言葉を、心の表面で求める。
「じゃあ私、普通じゃないのかも」
夕陽なんかよりも眩しくて、目に痛いほどの笑顔が、僕の肺を一瞬だけ潰した。息が出来ないくらい吃驚していた。
「また明日ね、黒音くん。明日はきっと、絶対、美しいもの見せるから。一時くらいに、ここで待ち合わせしよ」
彼女が去ろうとしたのは、僕を軽蔑したわけでも、幻滅したわけでも、ましてや恐れたわけでもないのだろう。早口で紡ぐ彼女は、何かを押し殺そうとしているみたいだった。引き止めようとした僕が「相生」と呼ぶ前に、彼女は振り返らずに「じゃあね」と呟いた。
(五)
昨日と同じ家の前に着くと、相生が待っていた。互いに挨拶を交わし、木々の多い道路を進んで行く。
「黒音くん、反省文書いた?」
「いや、まだ書けてないよ」
反省文のことをすっかり忘れていた僕は、苦笑混じりに返した。私も、と相生に返されて少しほっとする。葉の色を変え始めている木を見上げながら、人通りの少ない道を歩き続けた。たまに相生が話しかけてきたりするが、基本的には無言だ。粛然とする中で、風に揺らされる草木の音色が綺麗だった。
それから二十分くらいで、河川敷に着いた。二人で土手を下り、川の手前まで行くと、周囲を見回す。僕達が下りた辺りは手入れがされているのか、あまり草は伸びていない。橋の下も同様だ。橋から離れた辺りは、人の姿を隠せそうなくらい草が伸びていた。
「あるとしたら、あの辺りかな」
「私もそう思う」
探しに行こう、と相生は歩き出す。その後に続いて、僕は相生と共に死体を探し始めた。
その日、太陽が空を赤く塗るまで探したが、鼠の死骸すら見つけられなかった。これ以上探しても無駄と判断して、帰路を辿ろうとした。しかし、相生が僕の腕を掴んでくる。
「ここを探してもきっと見つからないよ」
「でも……絶対に美しいものを見せるって、私、言ったでしょ」
彼女の目元が赤いように見えた。けれどもそれは、夕陽に焼かれているせいだろう。僕が仕方なく帰宅を諦めると、それを察したようで、彼女は腕を放してくれる。
「……ねぇ、私は生きている人間も美しいって思うんだけど、そうは思わない?」
「……そうだね。生きている人間は、醜いよ」
「そっか。……そうだよね。あのさ、私の話を聞いてくれる?」
「話?」
土手を上がる階段の一段目に、相生は腰掛けた。その正面に立ったままの僕を見上げると、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「小学生の頃のことなんだけど。ずっと、謝りたかったの。ごめんなさい」
嫌な記憶が瞼の裏に映されて、心臓が締め付けられた。だがそれ以上に、理解が及ばなくなる。何故、全く記憶に無い少女に謝られているのか、分からなかった。どうして、と問いかけたくても、上手く声が出なかった。
「あなたが虐められる前にね、私の友達が虐められていたんだ。その子を助けたくて、いじめっ子達に言ったの。『あの子より伏満くんをいじめた方が楽しそうじゃない? いつも一人で居るし、男子だから、暴力振るっても遊んでただけって言えば怒られないよ。あの子を虐めるの、飽きてきたでしょ?』って」
声を失う。動揺に塗れた息を吐き出すことしか出来なかった。胸の中に溜まっていく感情が、吐き気を催す。それを堪えるように、マスクの上から口元を押さえた。そんな僕の右手首を見て、相生が悲しげな顔のまま、唇だけで笑った。
「ずっと、後悔してたの。黒音くんへの過激ないじめが始まって、最初は、ほっとしてた。私の友達が虐められる事はもうないって思ったから。けど、黒音くんの手首にリストカットの痕を見つけちゃった時、怖くなった」
僕は、思い出したくもない記憶を、ゆっくりと想起する。確か、死骸を見せられた後だ。美しい死体に憧れて、自由になった死者を羨んで、死のうとした。何度も手首を切った。だけれど痛みが怖くて深くは切れなかった。羽ばたく勇気が僕には無かった。
「私のせいで黒音くんが死んじゃうかもしれないなんて、嫌だった。だからいじめっ子達に、もうやめようって言ったの。そしたら今度は私も虐められるようになった。私は弱いから、すぐにお母さんに相談して、転校したよ。その後くらいかな、黒音くんも転校したって友達から聞いて……けどまさか、同じ中学校になるなんて思ってなかった」
相生が、真っ直ぐに僕の瞳を眺め入る。瞳孔を貫いて、その奥の脳髄を揺さぶろうとする虹彩に、息が震えた。
「中学の頃からずっと謝りたかったんだけど、話す機会が全くなくて。けどどうしても謝りたいって思いが収まらなくて、高校まで追いかけたの。だから、すごく遅くなったんだけど、黒音くん。本当にごめんなさい」
頭を下げた相生の黒髪がさらりと揺れる。風で波打つ長い髪を、綺麗だと思ってしまった。けれどそれは一時の錯覚だ。生きている者のそれが、綺麗なはずがないから。
その髪に伸ばしたくなっている手を、堪えた。その白い首筋を掴みたくなっている両手を、必死に理性で押さえつけた。その理性すら掻き乱しているのはきっと、憎しみや恨みではない。ただの、渇望だ。
僕の胸の内を見透かしたように、顔を上げた相生は笑みを湛えた。
「だから、殺して良いよ」
幼い子供が、一緒に遊ぼう、とでも言うような声音で、彼女は言った。
「相生?」
「少しは私に好意を抱いてくれたでしょ? 他の人よりも、私に一ミリくらいは心開いてくれてたでしょ? 私のこと友達だって、少しは思ってくれてたでしょ?」
どうかそうでありますように。まるでそう願いながら発している言葉のようだった。詰められる距離に、思わず身を引いてしまう。というのに突き放せなかった。彼女の言う通りだ。僕を真っ直ぐに見てくれた人も、僕と関わろうとしてくれた人も、これまでいなかったから。ずっと、求めていた友人。その立ち位置に、彼女の存在を置いていたと思う。
泣き出しそうな目をしながら、相生は感嘆符みたいな声を上げた。だがそれは、掠れていてあまりに弱かった。
「黒音くん。あなたが本当に、生きている人間より死んだ人間の方が美しいって思うなら、殺してみてよ」
「……君が、僕に美しいって思われているとでも?」
「どうだろう、分からない。ねぇ、試してみようよ。それとも、やっぱり人を殺すのは怖い? じゃあ自殺でもすれば良いかな」
「何がしたいの君」
泣き崩れる寸前で強がって笑うような、壊れそうな微笑。彼女にそんな顔をさせているのは、一体なんという感情なのだろう。
「気付いて欲しいだけ。今の黒音くんが人としておかしいって」
「おかしくない」
「おかしいよ」
「っ普通じゃないのかもなんて言ったくせに、僕を否定するのかよ」
「するよ」
間髪入れずに返されて、何も言えなくなる。喉が痙攣していた。昨日、期待するなと言い聞かせてきた僕が、今の僕を嘲弄しているみたいだった。
それ以上はなにも言わないでほしい。それ以上僕を否定しないで欲しい。歪めた眼に黙れという意を込めているのに、彼女はひたすら、僕に刃を突き立てた。ひたすら、僕の胸を穿ち続ける。
「否定する。おかしいことだから。黒音くんは何か欠けてるよ。欠陥人間ってやつじゃないかな。だって死体は、美しいって目を輝かせながら写真に撮るものじゃない。死ぬことは、羨ましがられることなんかじゃない。確かに生きている人間は五月蝿いかもしれないし、醜い心を持ってるかもしれない。けど美しいよ。生きてるから美しいんだよ。黒音くんが写真に撮った猫も、鼠も、生きたがっていたかもしれないんだよ。死んじゃったら美味しいもの食べられない。なにも思えない。笑えない。そんなの悲しいだけだよ。それなのにそんな悲しいことを羨ましがって、どんな思いで息を引き取ったかも分からない死体を美しいって写真に撮るなんて、おかしいんだよ。黒音くんは」
「――分かった、もういい、殺してあげるよ」
押し倒した体は抵抗を示さない。両手を押し付けた首は細くて、熱かった。首の薄皮が皺を作る。僅かに開いたままの相生の唇は、小刻みに震えていた。同様に震えていて涙声に近い音吐が、唇の隙間から漏らされた。
「…………うん」
薄い唇が弧を描く。僕は無意識の内に目を閉じていた。冷たかった僕の手が、どんどん熱を帯びていく。相生の首から熱を奪い去っているみたいだった。力を込めれば込めるほど、彼女の首は細くなっているように感じた。手が食い込んでいるのは皮膚の中だろうか、それとも皮下組織をも抉っているのだろうか。僕の手にそれほどの力があるとは思えない。一思いに首の骨を折ってやることも出来ない。
にも拘わらず、やけに柔らかく感じる首へ、全体重をかけた。陽が落ちるまで、頸部を締め付け続けていた。
あの夕陽に、彼女は羽ばたけただろうか。
(六)
冷静だった心は、辺りが暗くなってから騒ぎ始めた。夜空に影を作られて、相生の顔色は上手く窺えない。
震えながら、携帯電話を取り出した。死体は綺麗なものだ。彼女の死体もきっと美しいはずだから、写真に収めようとした。彼女に向けた携帯電話を、思わず取り落とす。拾いに行く気力は無かった。先ほど力を込め続けていたせいか、両手の平は痙攣し続けていた。
「……ほら。死体になっちゃえば、五月蝿くないよ。相生。君だって、綺麗……」
蚊の鳴くような声で、どこかにいる相生に聞かせるように言ってみた。けれど言葉に詰まる。全身が震え出して、声を出せなくなる。喉から絞り出されるのは母音だけだ。言葉になっていないそれを、嗚咽として吐き出した。
なんだこれ。なんで。
疑問ばかりが頭の中に蔓延り、割れそうなくらい頭が痛かった。わけも分からず、彼女の両肩を掴んで揺さぶりながら、ねぇ、などと呼びかけ続ける。
相生、起きて。笑って、返事をして。頼むから。この声が聞こえたなら、寝たふりはやめて起き上がってくれ。
「相生ッ!」
歪みに歪んだ口を動かして、なんとかその名を投げかける。けれど彼女には届かない。夜空が叫びを吸い込んで行く。涼しいくらいの川のせせらぎが哀哭を攫って行く。
何故自分が悔やんでいて、何故自分が彼女の声を聞きたがっているのか。どれほど考えようとしても乱れた思考では何一つ分からない。ただ、彼女に笑って欲しかった。固まった笑みではなくて、柔らかな笑みを見せて欲しかった。
死体は、美しいもの。それは間違いではないと信じていたいから、僕は唇の裏で呟く。ねえ、幸せでしょ? 幸せだって証明するように笑ってよ。生きていた時と同じような顔を、見せてよ。
「……奏!」
嗚呼。何故今更、朧気な意識の中で聞いた彼女の声を思い出したのだろう。今更叫んでも、彼女には届かない。枷を外されて飛び立った彼女はもう、表情一つ動かしてはくれなかった。生きている頃の彼女だったなら、奏と呼ばれて笑顔を浮かべてくれただろうか。
泣き叫んでその体を抱きしめた。そんなことをしても、溢れ出る感情に蓋をすることは出来なかった。
*
人間から自由を奪っている枷は、足枷だ。重りが付けられていて、決して空を飛ばせてくれない足枷。僕には、足枷だけではなくて手枷も付けられていればよかった。手が自由でなければ良かった。この手が動かなければ、本当に自由になりたかったか分からない人間を、まだ自由になる時が来ていなかった人間を、殺すことはなかったのに。
……余計な私情まで語ってしまったね。長くなってしまったことは申し訳なく思うよ。それでも、全てを聞きたいと言ったのは貴方だ。分かっただろう? 僕には弁護なんていらない。余計なことをされたら答えを見付けられなくなりそうなんだ。
空いたままの穴は、今は贖罪で埋めていくことにする。そうしたらいつか、なにが欠けているのか分かる気がするから。
…………ところで、それは? 相生奏の反省文? 相生、反省文は書いてないって……――そっか。彼女が償おうとする必要なんて、なかったのにね。
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