石
身から出た錆。
黒々とした石が床に散らばる。それが自身の身体から湧き出したモノだなんて、鏡を見なければ信じられなかっただろう。
神頼みなんてするんじゃなかった。
後悔が石と共に零れ落ちたなら、激情に呑まれてこの手を振り上げることは無かったかもしれない。
*
投げ入れた五円玉には何の効果もなく、まるでゴミ箱に捨ててしまったかのようだった。たった五円。それを道に落としたとしても、気にしない程度の金額だ。
志望校に合格することが出来なかったというだけで、
「颯司ー、もういいじゃん。帰ろうよ」
もう一回蹴ろうと足を持ち上げたが、斜め後方から響いた声に勢いを攫われる。息と一緒に足を落として、社殿入り口の階段に腰掛けている幼馴染に顔だけを振り向かせた。
「
「まぁまぁ、落ち着けって。食う?」
「もらうけど、落ち着けはしない」
明人の隣に腰を下ろし、手の平を彼の方に出すと、一円玉よりも小さなラムネが一粒、生命線の上を転がった。そのまま手首に向かい始めたそれを落としてしまう前に、慌てて口に運ぶ。咀嚼して飲み込んでから、明人を軽く睨んだ。
「雑なんだよ、載せ方」
「お前が落ち着きなく手を動かしてたんじゃないの?」
「そんなことしてねぇし」
「ラムネ、あと全部やるよ」
四角くて薄いプラスチックのケースを差し出され、颯司は礼を言いながら受け取る。もう一粒取り出し、噛み潰して飲み込んでからケースをポケットに仕舞うと、空を仰いだ。
「あーあー、俺どうすんだろ。このままニートかな」
「就職すればいいんじゃない?」
「今から就活始める気なんて出ないし、I大学以外行きたくねぇんだよなぁ」
颯司がI大学にこだわる理由は、明人も知っている。昨年その大学に進学した女の先輩を追いかけたいのだ。颯司と彼女は委員会が同じだったというだけだが、何故連絡先の交換すらしなかったのだろうと約一年も後悔するくらい、恋焦がれている。
同じ大学に進学し、再会して気持ちを伝えたい。しかし今の颯司の表情は、そんな純粋な恋に身を
偏差値でI大学を選び無事合格した明人は、渋面を作る彼の肩にそっと手を置く。
「入学したら、俺が浅岡先輩の連絡先聞いてきてあげるからさ。専門行くなり就職するなり浪人するなり……とりあえず先生とか家族と相談してみたら?」
元気付ける為の笑顔が颯司の眼に映されるも、それは一秒にも満たない短い間だけのことだ。明人の笑顔も、今の彼にとって不愉快でしかなかった。「帰る」と一言呟いて立ち上がった彼を慌てて明人が追いかける。
付いて来られたくなくて、階段を下りてすぐに足を速めようとした。思考に体が追いつかなかったのか、颯司は足を捻って腕から倒れこむ。敷き詰められた石が立てた擦過音は、彼の呻き声に重なって霧消する。
「颯司!?」
「っくそ!」
上半身を起こした颯司は明人を睨んで、起き上がるために突いた手を丸めた。じゃり、という音は颯司の掌中で潰される。
力いっぱい投げられた石は明人の顔の傍を通り過ぎて行った。直後、彼らの耳に届いた音色は、入試の帰りに二人で聴いた五円玉の音とよく似ていた。
*
起床後に顔を洗い、ちらと鏡を一瞥する。そんな一般的な行為をした後、颯司は眼球を零してしまいそうなほど瞼を持ち上げて、鏡に見入っていた。己を映す硝子の上に手の平を滑らせる。
鏡は決して汚れていたわけではなく、むしろ今触れたことで指紋が擦り付けられて白くぼやける。洗面台の横に掛かっているタオルを手に取り、鏡を拭いた。綺麗になったそれをじっと見つめても、映っているものは拭く前と何も変わらない。
そっと手を持ち上げた。鏡の中の自分が自身の頬に触れる。指先から触覚を刺激したのは、ざらついた、皮膚ではないものの感触。
石だ。
鏡がおかしいのかと、自分が夢を見ているのかと、颯司はそう思っていた。けれど触れた感覚も、石の傍の皮膚に爪を立てた痛みも現実のもの。
石が、右頬から顔を覗かせていた。外側から埋め込まれたと言うよりは、内側から皮を突き破って出てきたと表した方が相応しいような佇まいでそこに在る。それを抉り取ろうとしても、頬の皮膚が傷付いて赤くなるだけで、石は取れそうになかった。
ふと、鏡に映る頬を見ていた颯司は、視線を僅かに下げた。ワイシャツの襟の隙間――つまりは首元にも、それが見えたのだ。片襟を掴んで引っ張ると、首から耳の後ろ辺りまで、沢山の石が湧き出していることが分かる。それらは顔にあるものよりも小さく、頬にある石を親指の爪くらいと表すなら、首にある石は小指の爪くらい。
颯司は首を擦る。指先が知らせてくるざらついた凹凸に意識を持っていかれ、その喉が震えていることには気付かなかった。
ひたすらに目を見張ったまま、だんだんと唇を開いて、そこから漏れ出したのは掠れた悲鳴だ。
「なんだよ、これ……」
自分の現状と何分間向かい合っても信じられず、これからどうなってしまうのかを考えれば顔面の蒼白さは色濃くなる。颯司は、誰かに助けを求めたかった。
慌ててリビングに駆け込む。扉が大きな音を立てて開いたため、ニュース番組を見ながら朝食をとっていた両親が驚いた顔をして颯司を見やった。彼らに近付き、卓上に両手を突く。
「なぁ! 俺――」
「朝からなんなんだ、騒がしい。大学落ちたショックをまだ引き摺ってるのか?」
颯司から見て対角線上に座っている父が、冷たい目を吊り上げていた。その顔から、動揺や恐怖といった、先ほど颯司が浮かべていたような表情は見て取れない。頬の石を隠せるほど髪は長くないため、見えていないということは無いだろう。
疑問を抱えたままその場で立ち尽くしていると、父が苛立ちを感じさせる声で吐き捨てる。
「だから下らない理由で学校を選ぶなって言ったんだ。大学に行くならちゃんとお前自身に合ってるところに行きなさい、と。人の意見をなんの参考にもしないからこうなるんだ」
「……んだよ、好き勝手言いやがって。人の意見なんか知らねぇよ! 合ってるかなんてどうでも良い! 俺は俺が行きたいとこに行けりゃそれで良かったんだよ!」
卓上に並んだ、まだ一口も付けられていないオムレツとサラダが載った皿を怒りに任せて払い落とす。それは颯司のために用意されていた朝食だったが、今の気分のままでは食べ物など喉を通らないだろう。
颯司は何を求めてリビングに駆け込んだかすら忘れるほど、激情に思考を占められていた。
毅然としたままの父の隣で、母が肩を震わせ目を泳がせて、狼狽していた。
颯司は父の姿にも母の姿にも怒り以外の感情を抱けず、舌打ちを響かせてから大きな音を立てて扉を開け放つ。八つ当たりの如く、足の裏を力強く叩きつけるようにして早足で廊下を進み、階段を上がって自室に戻った。
素早く制服に着替えて家を飛び出した。
*
――お前どうしたんだ? 大丈夫か?
自分の顔がおかしくないか、と学校で友人に聞いても、そんな言葉しか返されない。颯司は訳が分からぬまま、混乱していく脳髄の痛みに頭を抱えていた。
明人とは顔を合わせたくなかった為、他のクラスにいる彼のもとには向かわず、帰路を辿っていた。
授業には一切身が入らず、担任教師に進路相談をすることすら出来なかった。暗然として顔を俯かせ、夜空に暗い色を落とされているアスファルトだけを眺め入る。
爪先で蹴飛ばした小石の音に、過剰なくらい吃驚して、ひっと息を呑んだ。
思わず顔を上げて視界に入ったのは、入試の帰り道と昨夜訪れた、あの神社だ。鳥居の向こう、社殿に置かれた賽銭箱を目にして、昨夜のことが思い起こされる。
見えない何かに背を突き飛ばされるように、颯司は賽銭箱に駆け寄った。倒した賽銭箱の中からは小銭が散らばる。その小銭を掻き分けつつ、探していた。
自分がこうなった原因は昨夜石を投げ入れてしまったせいだろう。あの時、やってしまった、と後悔はしても取り出そうとはしなかった。このくらいなんとも無い、神も霊も呪いも信じていない颯司は自身にそう言い聞かせて、何もせずに帰宅した。それがいけなかった、と結論付け、必死に石を探す。
自分の鼓膜を叩いているのが、金の音なのか石の音なのか、だんだんと分からなくなっていくほどに、石のことしか考えられなくなっていた。
やがて見つけられた石を手にして、立て直した賽銭箱に小銭を全て戻し、階段を下りる。下りた先、石が敷き詰められている地面に石を投げ捨てて、逃げるような足取りで鳥居をくぐった。
家に着いてすぐさま洗面所に駆け込む。鞄を投げ捨て、洗面所の電気を付けて、鏡を覗き込み、思わず大声を上げてしまうほどの衝撃に全身を震わせられた。
「うぁぁぁぁあああ!!」
反響した自分の悲鳴が耳を刺し、耳鳴りがしていると錯覚してしまうほど、他の物音は何も耳に入ってこない。喉がナイフで切られたような痛みを訴えても、口から迸る声は止まらなかった。
鏡の中の颯司の右頬は、目の下辺りまで幾つもの石に侵されている。破られた皮膚はめくれ上がり、石の隙間から赤々とした肉が顔を覗かせ、血液と組織液がじんわりと溢れていた。信じられない思いで首を左右に振ると、頬からぶら下がった皮膚が揺れる。痛みを感じないのが不思議なくらい、グロテスクな光景だった。声が枯れたみたいに震えた息だけが吐き出される。
左頬は右頬ほどではないものの、やはり親指の爪ほどの大きさをした石が一つ、顔を出していた。両頬を掻き毟るように爪を立てていたら、左頬の石が爪と肉の隙間に入り込んで、嫌な感覚を走らせながら転がり、頬を伝って床に零れ落ちた。石が嵌っていた箇所は、裂けた皮膚が僅かに垂れ下がり、穴が空いていた。
石と石が擦れ合う音が響いたのは、どこからだったろう。耳の付近で立てられた音に総毛立つ。正面を見つめる颯司の目に映ったのは、頬の中に虫が這っているような、気味の悪い膨らみが穴に向かって蠢き、やがて穴から外に出ようとしている様だ。
それに触れようと手を持ち上げた時、嫌な擦過音が耳を撫ぜ、今しがた出てきたばかりの石近くの皮膚が持ち上がった。内側から突き破られる表皮。ぶちぶちと音を立てて引き裂かれているのは、その皮膚か、それとも血管だろうか。
本来皮下組織が露わになるはずの場所から、小さな石が三粒転げ落ちて床に散らばり、その音がやけに強く耳を打った。四粒目は落ちてこない。大きめの石が、三粒を落とした所に嵌っていた。それでも外に出ようと何かしらの力が加えられているみたいに、頬を痙攣させていた。そして再び、その傍の皮が持ち上がって――。
颯司は、膝を突いて頭を抱えた。ひたすらに叫んで、掠れた悲鳴を上げ続ける。
母親が買い物から帰って来たことに気付かないほど、何も聞こえていなかった。
そんな耳の奥で、賽銭箱に投げ入れた石の音が何回も何重にも重なって、ただただ脳髄を揺さぶるほど喧しく鳴り続けていた。
*
颯司が意識を取り戻したのは、リビングのソファの上だった。体を起こして室内を見回すと、倒れた彼をここまで運んだのであろう両親が、少し離れた所にあるテーブルを挟んで向かい合うように座っている。
足音を立てながら立ち上がった颯司に、母が顔を振り向かせ、父が視線を投げてくる。母は慌てて颯司に駆け寄った。
「無理しないで座ってなさい」
「……なぁ、俺、石……」
「石なんてないから。大丈夫。大丈夫よ」
洗面所で叫んだ後、颯司は震えた声で、石が、石がと言い続けていた。その度今言われた言葉と同じ言葉で宥め続けられていたことさえ、颯司の記憶にはない。いくら落ち着いたとはいえ、自分の目で見て、手で触れたものの存在を他人に無いと言われても、信じられるわけがなかった。
確認したい気持ちに突き動かされて、自分を座らせようとしてくる母の手を払い、洗面所に向かおうとする。そんな颯司に向けられたのは、白くて薄いケースだ。父がそれを手にしたまま、颯司を睨むように目を細めていた。
「最近ニュースで見たが、この薬、流行っているんだってな。なんでこんなものに手を出したんだ」
父が何を言っているのか、聞いてすぐには理解出来なかった。薬。その言葉を脳内で繰り返してみて、それを薬物という言葉と繋げてみる。そこでようやく、颯司は自分が違法薬物に手を出したという猜疑に満ちた目を向けられていることに気が付いた。
明人がくれたラムネが薬物だったなんてありえない。彼もあの時共にラムネを口にしたのだ。けれど彼は石がどう、なんて言っていなかった。
絶対に、あれは薬物などではない。胸の中で言い聞かせるだけでは足りず、口からも思いは溢れ出す。
「違う! それはただのラムネだ! 俺は薬物なんて飲んでない!!」
「じゃあ石ってなんのことだ。薬物じゃないなら精神病か? 石だなんてそんな下らないことで騒いで……今がお前にとって大事な時期だって分かってないのか?」
怒気を孕んだ父の声色に、颯司はただ唇を噛み締めた。何を言っても無駄だということを嫌というほど分かってしまう。今までの素行の悪さから自分が信用されていないのだということを思い知らされる。
自業自得だと分かっているからこそ、何も言えないまま、けれど穿たれた胸の痛みに歪んだ顔を見られたくなくて、顔を俯かせた。
その瞳に映ったのは、異様なくらい血管が浮き上がっている手の甲だ。信じられないものを見た思いで、ゆっくりと、震えながらも右手を持ち上げる。顔の傍まで持ち上げた手は、ひどく汗ばんでいた。
薬指の中手骨が、小指のそれとくっついてしまいそうなほど歪んでいる。歪んでいなければ本来その骨があるべき場所には、青緑色をした血管がはち切れそうなくらい浮かび、少し指を動かせば痙攣するように動いていた。
颯司の耳に、ひたすら彼自身の呼吸音が反響し続ける。乱れに乱れた吐息だけが、己の恐怖を脳にまで染み込ませていた。凝視している手の甲の血管が、皮膚もろとも内側から千切られた。生々しい管が血を流しながら顔を出し、その血を浴びながら小石が手を滑り落ちる。
ごろ、と立てられた音は二つ。悲鳴さえ枯れたまま恐る恐る手の平を返してみると、ピンク色の肉と赤黒い血ばかりが視界に飛び込む。剥がれた皮膚は、指の第一関節と、手首まで伸びる生命線を隠すようにめくれ上がっていた。
「っ……!!」
「……あなた、颯司だって疲れているのよ。もう少し優しく」
「疲れる? 勉強もせず遊んでばかりだったんだ。それで精神的にやられたなんて言われても信じられるわけないだろう」
「決め付けるのは良くないでしょう? ねぇ颯司、ちゃんと自分なりに頑張ってはいたのよね? やっぱり薬物なんてやってなくて、疲れちゃっ――……颯司? どうしたの?」
両親の声を聞いている余裕すらないくらい、吐き気を催す自身の手だけに見入っていた。どうすればいいかも分からぬまま、溢れ出す石を震えながら見つめる。そんな彼の肩を、母が揺さぶった。
遠慮ない強さで肩を掴まれ「颯司!」と叫ばれ、ようやく意識が手から離れる。救いを求めるように顔を持ち上げた颯司だったが、目の前にいる母の歪んだ顔に、血の気が引いていく。
輪郭が不気味な凹凸を描いて、千切れそうなほど張られた皮膚が震えていた。軋むような音が大きく響いて弾けた直後、母の左頬が破裂したみたいに血液を散らし、皮膚を垂らす。露出したのは、石。それは颯司と同じ症状に他ならなかった。
そこから零れた石が音を立ててフローリングに転がっても、母は何も気付いていないような表情のまま、怪訝そうに颯司を見ている。
颯司はその母から視線を逸らしたくとも逸らせず、硬直した全身を動かすことも出来ずに、肉が裂ける不快な音を聞いていた。彼女の左瞼から、小石が転がり落ちる。ひっと声を上げた颯司に、彼女が一歩近付いた。
心配そうな瞳がこちらを見ている――そう見えたのは一瞬だけだった。眼窩に埋まっていたのは、石だ。落涙するみたいに、ぼろぼろと落ちて行く。
「う……」
左手で口元を押さえて吐き気を堪えた。不気味な生き物の如く蠢いている石が外に出たがっているように見え、背筋が粟立つ。これ以上見ていられない。そう思えど、視線は外せない。がち、がち、と石が擦れ合う。止めどなく溢れ出る石が五月蝿いくらい音を鳴らしているのに、原型を留めていないくらい顔が歪んでいるのに、母は取り乱さない。母と颯司を見ているはずの父も、悲鳴一つ上げない。
何故、という言葉ばかりが頭の中を駆け巡った。どうして気付かない。どうして彼らには見えない。
まずい、と本能が告げていた。けれどどうすることも出来ない。母が母でなくなっていく様を、ただただ見届けるしかない。
「……あ、が……ッ」
堪えきれなくなったのか、颯司は嘔吐した。――否。口から溢れたのは液体では無かった。口を覆っていた手の平に触れた感覚、これは間違えるはずもない。はっとしたように足元に目をやって、散らばる無数の石に息を呑んだ。口から手を外し、顔に触る。いくら触っても、皮膚と思われるものに触れられない。頬に当てた手を押し退けるようにしながら、石が床へ転がる。石の蠢く音が、頭をおかしくさせようとしていた。うっ、と嘔吐けば石が吐き出される。
自分が今どうなっているのか。考えれば考えるほど、恐怖が全身を戦慄させた。
「大じょウぶ?」
おかしな声に正面を見やれば、石に覆われた母の顔が眼前にあった。彼女の薄い唇が開かれるたびに、ぼろぼろと小石が吐き出されて行く。肩に置かれた彼女の手を慌てて払いのけ、颯司はリビングを飛び出した。
そうして駆け込んだのは台所だ。包丁を一つ手に取り、次いで洗面所に飛び込んだ。
鏡をじっと見つめたら、自分の顔なのだと信じたくない姿が映り込む。その顔はもう、人のそれでは無かった。剥がれた皮膚が滅茶苦茶にぶら下がり、石が無数に湧き出し零れ行く。
これではもう生きていけない。誰もこれを信じてくれない。誰も助けてくれない。
颯司は何もかも諦め、包丁を握り締めた。
彼を追いかけてきた母が、後ろから悲鳴に似た声を上げつつ、彼の腕を握り締めて止めようとした。
「っそ、ウ――! やめ――」
石を口から溢れさせているせいで、その言葉は鮮明に聞き取れない。颯司は母を突き飛ばし、その姿を見下ろした直後、
「っあああああ!!」
包丁を振り上げて母に突き刺した。引き抜いた傷口から石が溢れ出して、颯司の恐怖心を煽る。尚も彼を止めようとしているのか、彼に手を伸ばした母へ、再び包丁が振り下ろされた。刃が、皮膚や肉ではなく石と擦れ合っているような感覚に、彼はひたすら叫んだ。
叫んで、時折石を吐き出して、それでも止まることなく包丁を振り下ろし続ける。母の悲鳴か颯司の咆哮を聞いて来たのであろう父に対しても、颯司は刃を向けた。
理性さえも、彼にはもう残されていなかった。
◇
石川颯司様
やわらかな春風に心華やぐ季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。――なんて、こんな堅苦しいのは、お前にも俺にも似合わないよね。
二年前、お前が両親を刺したって話は、近所だからすぐに耳に入ってきたよ。なんだかんだで家族のことって嫌いになれないだろうから、いくら颯司でも後悔してるんじゃないかなって、俺は思ってた。勝手なこと言ってごめんって感じだけど、世間じゃ悪い方向で勝手な考えが飛び交ってたから、俺の思ってることは、まぁ、許して欲しいかな。
二人共無事一命は取り留めたから、気に病まないで。今は元気そうだよ。
それで、おじさんに聞いた。俺のあげたラムネが、薬物だと思われたんだってね。ごめん。まさかそんなことになるなんて思わなかった。
けど、あれが薬物じゃなかったなら颯司の「石」がどうのっていう発言はなんだったんだろう、っておじさんもおばさんも言ってた。俺はそれが気になって、色々と調べたんだ。
最初は呪いの類かなって思ってさ、あの神社について調べまくったけど、そういう話は一切聞かなかった。
そこで俺が出した結論は、お前が自分で自分を追い込んだんじゃないかってこと。
人間って、薬物なんか無くても幻覚を見ることもあるし、幻聴を聞くことだってある。颯司は自分の無意識の内に、賽銭箱を蹴ったことも石を投げ入れちゃったことも咎めたいくらい気にしちゃってたんじゃないかな。祟られるとか、そういうことを考えちゃってたんじゃないかな。これは全部推測でしかないし、真実は知りようがないんだけどさ。
今更、こんなこと書き連ねて何がしたいんだろうね、俺。けど、こんなことになっちゃって、俺は悔しいんだ。
だってお前が本気で神様に縋ってたことに一切気が付かなかったし、呪いや祟りなんて思い込みで追い詰められて誰かを傷付けちゃうくらい精神的に参ってたことにも、全く気付けなかったんだ。それどころか俺、お前に石を投げつけられた後、気まずくて話しかけることすらしなかったんだ。俺が話しかけて、お前の、石がどうっていう言葉をちゃんと本当なんだって受け入れてやれたかは分からないけど、今だからこう言えるのかもしれないけど、俺は、お前のこと助けてやりたかったよ。お前が自分に包丁を突き立てる前に、駆け付けて止めてやりたかったよ。
懺悔みたいな手紙になっちゃってごめん。それと、手紙遅くなっちゃってごめんね。颯司が目覚めてくれるんじゃないかって、期待してたんだ。
それじゃあね。
この手紙がどうか、天国にいるお前に届きますように。
浅岡明人
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