一分間だけの感情交錯
電話が鳴っているような気がした。けれども瞼を持ち上げた先に電話機はなく、機械音すら幻聴だったみたいに消えている。
まるで黒く塗り潰された紙上の世界に入り込んでしまったようだ。視界には色彩の欠片さえ見受けられない。黒色の闇を打ち守っても道が見えることはなく、壁さえ認められない。風声が耳朶を撫ぜることもなければ、生活音が響いてくることすらなかった。
人工的な明かりのない時代でも、夜はこれほど暗くないだろう。
そっと両手を持ち上げる。しかと捉えた己の体は黒くなく、影さえ落とされていない。この黒い箱の中で自分だけが存在していないみたいだった。
存在、という言葉が唇の隙間から零れ落ちる。その一滴がきっかけのように、沈淪していた感情が臓腑から込み上げてくる。
自分は、何者なのか。何一つ分からぬまま、心を掻き乱す類の感情ばかりが溢れてきて嘔吐感に襲われた。形の掴めない恐怖から逃れるべく、瞬きを繰り返して瞼の裏に過去を映し出そうとした。輪郭の滲んだ思い出は綺麗な色だけを見せていて、濡れた絵画を思わせる。乾ききった眼球が熱を帯び、落涙してしまいそうだった。気付けば両膝が黒い地面に突いている。叫び出したくなって震わせた喉は、いつの間にか驚駭して息を呑んでいた。
聴覚を刺激する単調な機械音。目の前には光が差し込んでいた。頭上からの光で照らされていたのは黒電話だ。鳴り止まない電話に、震えながらも手を伸ばす。そうすることで、この慄然も憂慮も、薄れてくれるような気がしていた。
耳に押し当てた受話器は、冷たくも暖かくもない。握れているようで、この手は何も掴めていないようでもあった。
『――
柔らかな声音が外耳道に流れる。その声を聞いた途端、不思議と心が落ち着いていった。何一つ思い出せていないのに、全て知ったような気持ちになる。冷静さを取り戻してきた中で、文目、という名前を唇の裏で反芻した。きっとそれが、私の名前だ。パズルのピースが一つ嵌められて、記憶が一部分だけ晴れていく。記憶を思い出す欠片を、彼ならいくつも持っているかもしれない。彼に助けを求めようとして、今し方投げかけられた問いを思い返す。
「殺された……?」
自分が亡くなっていたという事実は、どうしてかすんなりと受け入れられた。悲しいと思うどころか、どうりで、と納得してしまっている。けれども、彼に質されたことへ、疑問が溢れ出す。次いで彼が誰なのか、という疑問も湧き上がる。名前を知りたいわけではない。私にとって彼がどういった人物であったのか知りたいのだ。
ずっと前から知っているような、懐かしくて愛おしい声。聞けば聞くほど、何かを思い出せそうで思い出せない感覚に、脳髄が軋む。
思い出したい。
無意識下で首に触れた手が、震え出しそうな喉をそっと撫ぜた。
(一)
死者の死亡時刻に受話器を取り、名前を呼ぶことでその死者と話が出来るのだが、その者が瞑目した正確な時間を知っている人間などまずいない。電話を繋げる条件として秒数は関係ないらしいが、分数まで正確に分かることも珍しい。死刻電話が出来てからは大切な人の死亡時刻を書き留める人間が増えたが、それでも数分ズレていることもあるらしく、繋がる時間を当てるまで何度も訪れる者も居る。その上、時間が合っていても電話を繋いだ時間から一分が経過すると、その通話は強制的に切られてしまうみたいだ。
僕は死者との会話に興味がなかった為、あの電話を使うことなんてないだろうなと思っていた。それなのに、この爪先は市役所に向いている。文目が自殺した、と聞いて、何もしないわけにはいかないからだ。
彼女の訃報を聞かされた僕は、驚きもしなかったし、悲しみもしなかった。彼女が自殺だなんて、そんな判断を下したのはどこの愚か者だ、と鼻で笑った。きっとその時胸中を満たしていたのは憤りだ。今でさえ、吐き出す息に苛立ちが包含されている。納得出来ないまま、こうして夜道を進んでいた。市役所のぐるりを見渡し、月明と街灯を頼りに目的の電話を探す。駐車場の奥に電話ボックスを見つけて、足を踏み入れた。
自殺ではない、と声を上げるだけなら簡単だ。それでも、そうすることなくここに来たのは、彼女がどうしたいのかを聞く為。彼女が望むのなら自殺という結論を覆す。望まないのであれば――大人しく口を噤む。
どうか、自分は殺されたのだと言ってくれ。そう念じて深呼吸をした。腕時計で時刻を確認してから、暫し時計の針だけを眺める。意を決し、受話器を手に取った。
コール音に耳を傾けている時間は長く、焦慮が発露してくる。秒針を睨みながら繋がることを願い、嫌な汗が浮かび上がる手の平へ爪を立てた。
もしかしたら繋がらないのでは、と絶望しかけた時、機械音が止んだ。耳鳴りじみた無音が流れ込んできて、咄嗟に声を吹き込む。
「こんばんは、文目。単刀直入に聞くよ。君は誰に殺された?」
『殺された……? あなたは、誰?』
たった一分しかかけられない。それを分かっているからこそ簡潔に問いかけ、問いにだけ答えてもらうつもりだった。答えを聞いたら一弾指の間すら挟まず問いを重ねるつもりだった。
そんな僕から、彼女は台本を奪っていく。慮外なことに声帯が固まり、この状況で黙り込んでしまった。止まった歯車にどうにか油を差して思議していく。
「僕は
『自殺……』
「明日また電話を掛ける。それまでに記憶を出来る限り思い出しておいてほし――」
断線したような音が鼓膜を打つ。彼女の声はおろか吐息すら聞こえてこない。一分では何も話すことが出来なかった。
くそ、と吐き捨てて受話器を乱雑に置いたら、仕方なく電話ボックスを後にした。
(二)
警察は、事件性があるとみなすのが面倒だから自殺にしたのだろうか。文目を知っている人間なら誰だって、彼女が十月十八日に自殺をするわけがないと言い張るはずだ。他殺の証拠だって、きっとあの家を探せば見つかる。彼女が自殺をするわけがないのだから。
吸い込んだ夜の空気は、喉に沁みる。肌寒いせいだろうか、体が微かに震えていた。睫毛を伏せて眉間を押さえる。眼窩の熱を鎮めてから瞼を持ち上げ、今日も電話ボックスの扉を開いた。
時刻が一時十六分であることを確認し、受話器を耳殻に触れさせた。
「――文目」
『春草?』
「思い出した?」
『今までのことはなんとなく。けどまだ、死んだ日のことは思い出せないの。でも、確かに私がその日に自殺をするのはおかしい』
どうやら本当に思い出したようだ。安堵して胸を撫で下ろした。
『その日は何かがあったはずなんだけど、思い出せないの。春草、教えてくれる?』
「詳細は君が教えてくれなかったから知らないよ。けど君は、その日になるとどんな用事も断っていた。しなければならないことがある、そんな風に」
『しなければ――』
しなければならないことって? そう言いたかったのだろう。ソプラノの余韻すら満足に聴けないまま、間延びした機械音だけが一定感覚で何度も響く。僕は受話器から耳を離した。
十月十八日。それは、当たり前のように彼女が大事にしていた日だ。僕にとっても当たり前のようになっていたことだから、疑問を持ったことはなかったが、ふと気になった。彼女がその日を気にし始めたのは、いつからだったろう。
(三)
「文目は絶対幸せにするから、安心しろよ」
夢の中で、僕の記憶の中で、いつだって彼――桐嶋勇二は笑っている。それは高校の卒業式で最後に見た、彼の笑顔だったかもしれない。
勇二は中学一年で僕と同じクラスになり、僕と共に登下校をしていた文目とも知り合った。派手でも地味でもない文目の外見に惚れ込んだ彼は、文目とほぼ毎日一緒にいるようになった。
その頃から付き合っていた、と思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。高校に上がって、文目だけが僕達と別の学校に進学し、そこで勇二に吃驚せざるを得ない質問をされた。
「文目ってさ、お前のこと好きだよな。卒業式の時告白された?」
「まさか」
僕は言下にそう返していた。文目は誰を前にしても態度を変えないから、きっとどの友達のことも『友達として』は好いていると思っていた。僕もそう思われている中の一人だ、と確信していたからこそ、勇二に笑った。
僕の素直な微笑に、彼は安心したようだ。その翌日には文目に告白をして交際を始めたらしい。
いつも明るく、馬鹿騒ぎをすることが好きで、けれど人一倍愛に飢えていて、独占欲が強い。そんな彼に、色恋沙汰なんて向いていなかったのだろう。あの二人の恋は、どちらにも苦痛しか生まなかった。
寝ぼけ眼を擦って、僕は枕元の携帯電話を眼前に持ってくる。今から市役所まで歩いて行けば、ちょうど良い時間だ。コートを羽織って、家を後にした。
深夜は大通りでも通行人が少ない。信号が青に変わるのを待ちながら、目の前を横切った車に目を細める。勇二の車も暗い赤色をしていたなと考えて嘆息した。彼は今、文目が帰ってこなくなったあの家で、どんな日々を送っているのだろう。事も無げに笑っていたなら、彼を許せそうになかった。
信号が変わる。横断歩道を渡って市役所の駐車場の先にある電話ボックスへ踏み込む。時計を一瞥してから躊躇なく受話器を取り、「文目」と呼びかければすぐに返答があった。
『春草、覚えてる? あなたが私に蝶をくれたの』
アクセサリーか何かだろうか。忘れているだけかもしれないが、蝶をモチーフにしたものなんて贈った覚えがない。黙考している時間を取っていられないため、「ごめん」と苦笑したら『覚えていないなら良いの』と笑ってくれた。
文目が言いにくそうに『ところで、さ』と切り出した為、僕は色を正す。不安なことでもあるのか、彼女は尻すぼみに続けていった。
『気になっていたんだけど……春草はどうして私が死んだ時間を知っているの?』
――嗚呼、遅い。
その指摘はあまりに遅すぎて、僕の喉を痙攣させる。どこかわざとらしい、乾いた笑いが咽喉から搾り出されていた。
僕は何の気なしに揶揄を孕みながら言問う。
「どうして、だと思う?」
『……あなたが、私を殺したから?』
「それは、何故だと思う?」
『ずっと考えていたんだけど、動機が分からないの』
彼女はもう、自分は狐坂春草に殺された、という結論に至っているのだろう。緘黙の後、呻吟に似た震え声が、どこか泣き出しそうにも聞こえる音吐を携えて、か細く響いた。
『春草は、私のことが嫌いだった?』
糸のようなそれは簡単に切り落とされる。単調な電子音が、五月蝿い。
もう繋がっていない電話に、意味がないと分かっていながら呟く。掠れ声は機械音を縫うように響いてから溶けていった。
「愛していたよ」
不思議と、手が震えていた。そんな僕に嘲謔を向けるよう、膝が笑っている。平静を装う為に唇で象った繊月は、みっともないくらいに引き攣っていた。
震えの収まらない手を抓って、痕が付くくらい爪を突き立てて。それでもそんなことに、意味なんてなかった。
(四)
文目がDVに苦しんでいたことを知ったのは、高校卒業から二年後、去年の冬のことだった。久しぶりに会いたいと言われ、僕は彼女と、地元駅から徒歩五分程度の所にあるカフェで待ち合わせた。
先に待っていたのは文目の方だ。入店した僕に声を掛けてきた彼女は、どこか精彩を欠いていた。しかし話し始めてみれば、彼女は二年前と何も変わっておらず、高校を卒業してから何があった、という話を朗々と語ってくれた。どうやら夫である勇二と共にまたこの市で暮らすことになったらしい。昔みたいにまた三人で遊ぼうね、と言うなり、彼女が落涙したおかげで戸惑ったことを今でも鮮明に思い出せる。とても楽しそうに笑っていたものだから、室内でなければ雨雫ではと疑ったと思う。表情に似合わぬ涙を零し続け、懸命にそれを拭い続ける彼女はずっと謝っていた。泣き止むまで見守ろうとしていた僕は、涙を拭う為に持ち上げられている文目の腕が痣だらけであることに気が付く。長袖で隠されていたそれを見て眉を顰め「腕、どうしたの」と躊躇もせずに聞いていた。
問われた文目はすぐさま袖を引っ張って痣を隠した。なんでもないの、なんて無理に笑うものだから、「そう」とだけ返したが、なんでもないわけがないだろうと怒鳴ってやりたい気持ちを精一杯押し殺していた。
その後彼女の新居に案内してもらって、勇二に再会して。あの痣はこいつの仕業か、とすぐに分かった。
文目が家の扉を開け、ここだよと微笑みながら玄関に入る。直後、彼女は怒声と共に叩かれてバランスを崩し、僕が支えなければ倒れ込むところだった。勇二が僕に気付かずもう一度手を振り上げた為、咄嗟にその腕を掴んで止めた。咎めるべく開口したが、文目がそんな僕に泣きついた。
「私が、帰るのが遅くなったからいけないの。だから勇二さんは悪くないの。お願い、春草。……ごめんね。ごめん。今日は、もう……」
潤んだ瞳で、帰れと促される。どうするのが正解か、僕には分からなかった。ただ、彼女に応えるしかなかった。
まるで僕の知らない人間みたいになってしまった勇二を一瞥して、僕は仕方なくその場を後にした。
文目が僕を家に招くことは、それから、あの日まで一度もなかった。
(五)
「文目。こんばんは」
平坦な挨拶をしたつもりだけれど、彼女にはどう聞こえただろう。自分を殺した相手が電話をかけてくるなんて、彼女からしたら苦痛でしかないはずだ。それゆえ誤解を与えないよう、安心させるよう、投げかける言葉に色を塗ってはいけなかった。
『……ごめん。春草。ごめんね』
突然謝られては、なんのことだか分からない。「え?」という疑問符だけを電話線に乗せた。鼓膜を震わせたのは、聞いているこちらの心臓を刺すかのような、痛ましく悲しげな叫きだった。
『私、自殺で良い。変えなくて、良いよ』
彼女が何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。否、認めたくなかったのだ。
拳固がひどく震えていた。噛み締めた奥歯が擦れて、不快な音を立てる。堪えていた激情が、流露してしまいそうだった。
「っなんで!」
唇が空隙を生むとすぐに喚叫が迸る。叫んだのはいつ以来になるのか、喉が切れたように痛んだ。電話ボックスの中に叫声が反響して僕の耳を刺す。己で発しておいてその叫呼に驚いたのか、拍動が早まっていた。
「なんで、君は……ッ! 僕に裁かれるなって言うのか!?」
彼女の望むことは、いつだって聞いてやりたいと思っていた。僕に出来ることであれば力になろうと常に思っていた。だけど今回ばかりは、彼女の頼みを聞きたくない。今彼女の口から聞いてしまった言葉を、聞かなかったことにしてしまいたい。
僕が間違っていたことを認めて欲しい。お願いだから、僕は正しくなかったと言って欲しい。罰を受けることを許して欲しい。
このやり場のない罪悪感を、僕はどうすればいい?
震えた息に、声を乗せることはもう出来ない。情けないほどの哀哭が声を殺す。嗚咽で息が出来なくなる。喘ぐ僕へ、文目がまた謝罪する。
『ごめんなさい。あのね、言い忘れていたの』
――大好きだった。
ほぼ息に近い声で聞かされた事実は、簡単に受け止められない。けれどもそれは、僕の紛然とした激情を攫うには充分すぎる一言だった。
『愛してた。あの人よりも、誰よりも。ねえ、春草。小学校の鉄棒の傍。探して。十月十八日は、あなたのことを考える日だったの』
耳介に届くのは、もう、機械音だけ。彼女の声は聞こえない。一分は、経っていた。それでも、僕の耳に当てられた受話器はなかなか離れなかった。冷え切った手は、受話器を掴んだまま離したがらない。
まるであの夜みたいに、引き剥がせないくらい、指先まで硬直していた。
「……文目」
冷たい空気に触れた掠れ声は不香の花みたいに霧消していく。
ようやく分かった。何故彼女が、殺してもらう相手に、僕を選んだのか。
(六)
十月十八日の深夜。僕は文目に呼ばれて彼女の家に向かった。その日勇二は帰ってこないようで、彼女は一人で僕を待っていた。
「……春草、お願いがあるの」
俯かせていた顔を持ち上げて真っ向から僕を映した彼女の目元は、腫れていた。泣いていたのか、瞳が赤い。胸元まで伸ばされた横髪が微かに揺れて、左頬の痛ましい痣を垣間見せる。
聞きたいことはいくらでもあったが、彼女が話し始めるまで、出された珈琲を飲みながら緘黙を埋めた。文目が決心したのは、僕のカップの中身が無くなった頃のことだ。
「私を殺して」
思考が、一時的に停止する。脳室を泳いでいくその一言を何度も反芻して、膝の上に置いた拳を震わせた。笑えない冗談だ。
僕は微笑した。けれど上手く笑えなくて、唇の端が不自然に引き攣っていた。
「どうして?」
「ごめんなさい。ただ、私が死にたいだけなの。このままじゃ、勇二さん、私を殺しちゃう。彼は私に好きな人がいるって知っているの。でも別れようって言ってくれないし、言えない。言ったら、彼がどれほど強く私を打つか分からない。だから私が死ねば良いの。お願い、殺して春草。首を絞めて、自殺に見せかけて殺して。あなたに、殺して欲しい」
饒舌にそこまで言って、文目は黙り込んだ。俯いたまま僕の答えを待っている。自殺をすれば良いじゃないか。そう思ったけれど、きっと彼女に自分で死ぬ勇気なんてない。
「……勇二を、殺すって選択はないの? 君が望むなら、僕はあいつを殺しても」
「そうしたら私はどうすればいいの!?」
ヒステリックで甲高い声が、静寂を悪戯に切り裂く。悄然とした空気を裂いて、僕の胸をも抉っていた。
「勇二さんがいなくなったら、私は、どうすればいいの……?」
勇二じゃない、好きな人の所へ行けば良いだろう――僕はそう言えなかった。誰かも知らない男のもとへ彼女が行ってしまうことに、抵抗があったのだ。
僕がいる。僕は君を愛している。絶対に、君を傷付けない。
本心を披瀝出来たなら楽になれただろうか。
拒まれることを恐れ、彼女との関係が崩れることに怯え、幼い頃から抱き続けていたこの感情を、いつまで経っても吐き出せずにいた。それは今も同じだ。いくつもの選択肢が頭の中で綯い交ぜになり、混乱しそうになる。僕はどうすればいい。
自分の気持ちを瓶に詰め、見なかったことにしてから目の前の文目を見つめる。
殺したくなんかない。けれどそれは、僕の勝手な思いだ。
滅多に我侭を言わない彼女の、頼み事。それを断り僕の気持ちを優先させるか、頼みを聞き入れ彼女の気持ちを優先させるか。天秤にかけずとも、僕自身にとってどちらの気持ちが重くなるかなんて決まっていた。
すうと息を吸い込んだ。それでも吐息が小刻みに震えて出ていくものだから、酸素が足りなかった。もう一度、深く、空気を飲み込む。慄然も、躊躇も、恋情も、奥歯で噛み潰して喉奥へ押し込んだ。
「わかった」
大丈夫。そう、何度胸中で繰り返しただろう。暗示をかけるように、彼女を殺す動機を、噛み締めた唇の裏で呟いていた。
これ以上、傷付く彼女を見たくなかった。辛そうな目見を見ていることしか出来ないのは御免だった。これ以上、彼女の勇二に対する小さな愛を見つめたくなかった。もう彼女にあいつの名前を呼ばせたくない。彼女が望んでいるのだから、早く、楽にしてやりたい。
本当の気持ちは、いつの間にか見えなくなっていた。学生時代、三人で笑い合った思い出は、明滅しながら消えていく。僕は震える唇でどうにか弧を描いていた。
「春草、ありがとね」
用意していたらしい縄と手袋を手渡される。使い古されているような、微かに汚れている男物の手袋を両手に嵌め、縄を握った。ネックレスを付けてやる時の手付きで、そっと彼女に縄を掛けていく。
「春草、私のこと、すぐに忘れて良いから。これは私の、ただの身勝手な自己満足だから。ごめんね。勇二さんにも――」
勇二。その名前を聞いた僕は、両手に握った縄を強く引っ張っていた。彼女の顔を見ていたくなくて、瞼を固く閉ざす。手袋をしていても、細い首を絞めていく感覚が手の平に伝わっているように感じて、もうやめてしまいたかった。
喉の隙間から絞り出されているような苦しげな声が、耳朶を打つ。掠れる声が、空気を求める喘ぎ声が、絞めていく感覚が。何もかもが、僕の頭を狂わせようとしていた。軋んだのは、文目の首の骨だろうか。それとも、僕の両手の骨だろうか。震え続ける唇から呻吟が溢れる。まるで自分の首を絞めていくみたいだった。力を込めれば込めるほど、息が出来なくなる。
落ち着くんだ。落ち着いて、早く。強く、絞めないと。早く殺さないと。彼女が苦しがっているじゃないか。早く、解放してやらないと。
文目の携帯電話が、テーブルの上で鳴っていた。彼女はもう、出ることが出来ないのに。
それから、どれくらいの間、両目を固く瞑っていたのだろう。僕は震えた瞼を持ち上げて、人形のように脱力している文目を見つめた。どうして彼女が笑っているのか、分からなかった。こんな時まで、彼女は昔と変わらない笑顔を浮べていた。済まなそうに眉尻を下げて、けれど心底嬉しそうに唇を撓ませる。そんな大好きな笑顔の下、細く綺麗な首には縄の痕がくっきりと、痣のように残されていた。絞め付けられたことを示すように薄皮が線を引いている。
全身が、震え出す。両手は凍りついたまま痙攣していて、縄を離したいのに離せない。
涙が零れ落ちた。眼球は熱せられた硝子のように熱く、溶け出しそうだった。臓腑全てが押し潰されているような感覚に、虚しさばかりが吐き出される。縄を握り締めたまま、僕は文目の身体を抱きしめた。いつから、こんなに細くなってしまったのだろう。彼女を最後に抱きしめたのは、いつだったろう。
殺してしまった。彼女が望んでいたとはいえ、僕は僕自身のことが許せなかった。これを自殺にして良いとは思えない。僕が殺してしまったのに、僕は裁かれずにのうのうと生きていいなんて、思えない。
葛藤しながらも、ドアに寄りかからせるように彼女を座らせ、ドアノブに縄をかけた。首を吊れる長さに縄を調節して、深呼吸をする。ようやく彼女から離れて、やっとのことで離すことが出来た縄を床へ置いた。震えが収まらない手でどうにか手袋を外すも、それは手から滑り落ちた。
それを、拾う気はなかった。犯人にしてくれて構わない。裁かれても、僕はそれで良い。証拠を残して帰ろう。
ふと、死刻電話のことを思い出した。彼女に今更ながらの想いを伝えたいと思った。彼女はもうこの世にいない。だから、伝えてももう彼女との関係が崩れることはない。怖れることは、ない。
卓上の彼女の携帯電話を手に取って開く。十月十八日。月曜日。一時十六分。不在着信。表示されている名前は、勇二。時間だけを覚えて、その場を後にした。
翌日聞かされたのは、彼女が『自殺』した、という話だ。第一発見者は勇二。彼は悔しげに泣いていたらしい。
その涙に彼女への愛が在ったかどうかは知らない。それに、知りたくもなかった。
(七)
土曜日の小学校は人がいない。懐かしい校門を潜り、鉄棒の傍へ行った。
鉄棒の奥、学校を囲うフェンスの手前に、木で作られた小さめの墓が置かれている。彼女が見せたかったのは、きっとコレだ。十字架を模したそれには「十月十八日」とだけ書かれていた。
思い出した、かもしれない。
小学校三年生の頃、アオスジアゲハという蝶を、文目が綺麗だと言っていた。だから僕は、それを捕まえて虫かごに入れ、彼女にプレゼントしたのだ。僕が彼女に虫かごを渡したのは、確か十月の初めのことだった。
彼女は喜んでいた。蝶が死んでしまった時には大声を上げて泣いていたから、相当気に入っていたのだろう。夜中に虫かごを持って、泣きながら僕を頼りに来た文目。だから僕は、墓を作ってあげようと提案した。マンションに暮らしていた僕達は地面を掘ったら怒られると思って、学校に埋めに行ったのだ。
まさか彼女が、毎年このアオスジアゲハの墓参りに来ていたとは思わなかった。そもそも十年以上前なのに、よくこの墓が残っていたものだ。
懐かしい気分になって綻んだ面貌で、ふと頭上を仰ぐ。視界に舞った、鮮やかな青緑色。
その姿を見て、僕は文目に見せたかったなと思った。
*
もしあの夜、僕が気持ちを打ち明けていたなら。君のことを愛している、と口に出来たなら、何かが変わっていただろうか。
既に亡くなっている文目から聞いた、愛していた、と言う告白。
あの日告白していれば、なんて考えているのは、きっと僕だけだ。文目は未練も全て切り捨てて、その上で僕に殺された。
死なんてものが、救いや幸せという単語に結びつくなんて、正直僕は納得がいかない。けれども文目がそれで良いと言うのなら、その気持ちを、僕自身の唯一の救いにして生きて行くことしか、僕には出来そうになかった。
深夜一時十六分。辺りは薄暗く、空気はひんやりとしていて肌寒い。電話ボックスの中に足を踏み入れ、黒塗りの受話器に冷え切った手を伸ばす。
「文目」
電話は繋がっているのに、文目は何も言ってくれない。仕方がないから返事を待たずに話を続けた。
「知ってた? 僕は、幼い頃から君が好きだったんだよ」
返事は、聞かなくていい。僕は受話器を置いて、携帯電話を取り出す。開いて、一を二回、零を一回押した。無機質なコール音が、僕の心を冷静にしていく。
「……これでいいんだ」
自分に言い聞かせるように、まだ繋がらない電話へぽつりと零した。
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