第二章 依頼
7
翌朝。
食堂で皆と朝食を食べ終えた悠太は、リノンの部屋に来ていた。
「り、りっちゃん……」
「なあに?」
「その……きつくない?」
「うん。全然、大丈夫だよ。もっと体を預けてきてもいいから」
「いや、でも……」
「ゆーくんなら、んっ……平気だよ」
「う、うん……」
会話だけ聞くと、いかがわしい行為に及んでいたようにも思われるが、そんなことはない。昨日の約束どおり、悠太はリノンから文字を教わっていただけである。
ただ二人の体勢に少し問題があった。
机が悠太の背丈に合わず、また椅子が一つしかなく、立ちっぱなしで教えるのはキツイとリノンが言うので、椅子に座ったリノンが悠太を膝の上に乗せているのだ。
耳から入る音で理解はしているが、象形文字のようなヴェルバリタの文字を書くのは一苦労であった。
ゆえに、悠太は集中して取り組みたいところなのだが、たまにリノンが後ろからぎゅっとしてくるので、首から後頭部に胸が当たり、羽根ペンを取り落としそうになるほど心を乱した。
「……ハァハァ、ゆーくん、まだぁー? ハァハァ、早くモフモフさせてよー!」
「いや、だからさ……」
リノンは悠太以上に心を乱したらしく、怪しげな吐息で猫耳と尻尾をガン見し始めた。
苦労するとはいえ、まだ平仮名やアルファベットと同じ、表音文字の段階であり、見本を書き写しているだけなので、悠太も特に質問することもなく、それほどリノンの手を煩わせているわけではないのだが、この様子だと、
(僕、今度こそ失禁するかも……!?)
悠太がおののくと、扉が乱暴に開かれる。
「リノン! 貴様、何をやっているのだ! とっくに就業時間は始まってい……っ!?」
血相を変えて飛び込んできたアメリーは、悠太達を見て金魚みたいに口をぱくぱくさせた。
「どしたの? アメリーちゃん」
「どうしたもこうしたもないっ!! なんだ、その羨ま……もとい、けしからん体勢はっ!?」
本音を隠しきれないアメリーへ、リノンは事も無げに言う。
「だって、こうしないとゆーくんが机に届かないんだもん」
「む? 机……?」
怪訝な表情になったアメリーは、つかつかと歩み寄り、悠太の手元にある羊皮紙を見た。
「……これは、ユータが書いたのか?」
「はい。実は僕、読み書きが出来なくて……それでりっちゃんに教わっていたんです」
「なんだとっ!?」
アメリーはくわっとなって悠太の肩を引っ掴む。
「何故それを早く言わんのだっ!? 私ならリノンよりも上手く教えてやれるというのにっ!!」
「え、そうなんですか……?」
「無論だ! ユータ、今からでも遅くはない! 私が教えてやろう!」
「お断りだよ! ゆーくんはわたしが手取り足取り教えるんだからっ!」
「何を言うか! 魔導学院時代、貴様が一度でも成績で私に勝てたことがあったかっ?」
「うぅ、それは……でも、ゆーくんのお世話はわたしのお仕事なのっ!! アメリーちゃんはお呼びじゃないのっ!!」
「いいや、私のほうが適任だ!」
二人の遣り取りを目の当たりにし、悠太は得心する。
ヴァレンティーネもそんなことを言っていたし、確かに理乃も成績はよくない方であった。
すると、リノンに手を振り払われたアメリーが再び肩に手を置いてくる。
「さ、ユータ。私の部屋で続きをしよう。なに、心配せずとも三日もあれば詩の一つや二つ書けるようにしてやるし、十日もあれば魔法学の論文すら読めるようにしてやる……その代わりといってはなんだが、その耳と尻尾をだな……」
猫耳と尻尾をちらちらと窺うアメリーの授業料も、どうやらリノンと同じであるらしい。
「ダメっ!! ゆーくんをモフモフしていいのはわたしだけなのっ!!」
「り、りり、りっちゃんっ!?」
リノンがギュッとしてくるので、胸枕状態となった悠太が顔を真っ赤にしてはわはわする。
「ユータは貴様の所有物ではないだろうっ! さ、ユータ。私と一緒に来るんだ!」
アメリーが肩から手首へと握り直し、リノンから悠太を奪いにかかる。
「ダメっ! わたしたちのことは放っておいて、アメリーちゃんはお仕事に戻りなよ!」
「貴様が行け! ユータは姉である私がきちんと指導するから何も心配せんでいい!」
「だから、ゆーくんのお姉ちゃんとか認めないって言ってるでしょっ!!」
「もげるっ!? 腕がもげるっ!?」
腕と胴を反対方向に引っ張られる悠太はくの字になりながら叫んだ。
するとそこへ、
「朝っぱらから騒々しいのう……」
ジョルジョアンナが顔をしかめながらやって来る。
「おお、ジョル婆! いいところにっ!!」
アメリーは悠太の手を離さず、首だけ振り返る。
「リノンにユータを任せてられん! 私がユータの世話をする!」
「わたしなら大丈夫だって! それこそ、おはようから次のおはようまで、ずっとゆーくんを見守り続ける所存だよ!」
それは筋金入りのストーカーである。
絶賛くの字の悠太は、やる気満々のリノンにどん引きした。
「そう喚くでない。頭に響くわい……あと、いい加減ユータを離してやらんか」
ジョルジョアンナは耳を押えながら面倒臭そうに言った。
ギルドマスターに逆らえない見習い魔導士の二人は、渋々であるが悠太から手を離す。
自由を得た悠太は、リノンの膝から下り、ベッドの陰に隠れるようにしてリノンを窺う。
「なんでわたしを怖がるのっ!?」
「フッ、嫌われてしまったようだな? やはりユータはお姉ちゃんの方がいいのだ」
衝撃を受けて固まるリノンを鼻で笑ったアメリーが振り返ってくる。
悠太は彼女にも警戒の視線を送る。
「ユ、ユータっ!? 何故、そんな目で私を見るっ……!?」
この世の終わりを見たとでもいうように、アメリーは青い顔になった。
「まったく、お前さん方ときたら……」
ジョルジョアンナは呆れかえりつつ、悠太に歩み寄り、優しく微笑んだ。
「嫌な思いをさせたのう。じゃが、二人とも決して悪気はないんじゃ」
二人が単にモフモフしたがっていることは理解している。
だからこそ、彼女達の玩具にされている気がして我慢ならなかった。
「許してやってはくれんかのう?」
微笑むジョルジョアンナ越しに、申し訳なさそうな顔をするリノンとアメリーが見える。
悠太はこくりと頷いた。
「ゆーくん……!」
「ユータ……!」
途端に表情が晴れやかになるリノンとアメリーの元へ、悠太はゆっくりと近づく。
「ごめん、僕も大人げなかったよ。でも、撫でるのは……その、遠慮してくれると……」
「うん! わかってるよ、ゆーくん! モフモフするのは一日三回までにするよ!」
「ああ! 朝、昼、晩だな!」
「処方箋だよ、それっ!?」
皆まで言うな、と頷く二人にツッコむ悠太はショックを隠しきれない。
「それはそうと、お前さん方に話しておかねばならんことがあったわい」
悠太を気に掛ける素振りもなく、ジョルジョアンナがリノンとアメリーに向き直る。
「ほえ?」
「話とは?」
「実は、今日からお前さん方には、正式に依頼を引き受けてもらおうと思ってのう」
ジョルジョアンナがそう告げると、リノンとアメリーがびくっとなった。
「ほぇっ!? わたしたち『ほうき星』に入って、まだ二ヶ月だよっ!?」
「リノンの言うとおりだ! 私達にはまだ早い……せめて半年は誰かの下について学ぶべきだ、とジョル婆も以前、言っていたではないかっ?」
「うむ。確かに言ったのう。じゃがな……ほれ」
ジョルジョアンナは袖から丸められた羊皮紙を取り出し、リノンに渡す。
「これって……今月の?」
「む? もう出ていたのか」
広げたリノンにアメリーが身を寄せ、二人して神妙な面持ちで覗き込む。
気になった悠太はリノンの袖を引っ張った。
「りっちゃん、それ何?」
「魔導協会が毎月発行している会報だよ。お得な情報とか載ってるから、魔導士はみんな目を通してるんだよ」
「へぇ~」
こちらにもそういったモノがあるのかと悠太は素直に感心した。
「それで、なんて書いてあるの?」
「んとね、〝『アレキサンドライト』、聖誕祭に向けて秘策あり!?〟だって」
アメリーが、舌打ちしながら続きを読む。
「〝『アレキサンドライト』の次期ギルドマスターであるヴァレンティーネ・ハインカーツ氏は『今年は良い意味で皆様の期待を裏切っていこうかと思いますわ!』と何やら秘策を用意している様子。今年も『アレキサンドライト』は必見の価値があるだろう〟か……フン、一丁前に生意気だな!」
どうやらアメリーはヴァレンティーネのことを嫌っているらしい。
悠太は何があったのか気になったが、あえて触れないことにした。
しかし、
「ヴァレンティーネちゃんはね、学年次席のアメリーちゃんを引き離して、ずっと主席だったんだよ。それに『アレキサンドライト』はミルドフォードで一番大きな魔導ギルドなんだ」
気を利かせたつもりなのか、リノンが教えてくれた。
「フン、親の七光りには違いないが、アレが同期の出世頭だと思うと虫唾が走る……いいかユータ? 金輪際、あの女に近づいてはいかんぞ? お姉ちゃんとの約束だからな?」
「え、いや、あの……」
アメリーはさらに不快な表情になるも、姉アピールを忘れない。
悠太はどう返していいか戸惑った。
「〝お姉ちゃん〟はいいから……それで、ジョル婆。これが、どうしてわたし達が依頼を引き受けてもいい理由になるの?」
「読んで欲しいのはもっと下じゃ」
「下? ……あ」
「……ふむ、これか」
リノンとアメリーがほぼ同時に得心した。
読めない悠太が「ん?」と頭を斜めにすると、尻尾もふにゃっとなった。
「そこには、『見習い魔導士強化月間』とあってのう。今月は魔導士になって一年未満の者に限り、依頼達成の報酬からさっ引かれる協会への手数料が免除されるんじゃよ」
「ああ、それで…………いや、でもそれじゃ、りっちゃん達が正式に依頼を引き受けてもいい理由にはなりませんよね?」
「どうしてそう思うんじゃ?」
「だって、報酬はりっちゃん達個人に入るんでしょ? 『ほうき星』的には利益にならないんじゃ……?」
悠太の疑問にアメリーが「ほう」と感心する。
「ユータ、貴様がその歳でそこまで考えられるとは、姉として鼻が高い……だが、貴様は勘違いをしている」
アメリーこそ悠太の実年齢を勘違いしているようだが、悠太は話の続きが気になり、聞き流すことにした。
「勘違いって、どういうことなんです?」
「それはだな――」
「『ほうき星』の給料は歩合制じゃなくて、年功序列なんだよ。だから個人で得た依頼の報酬も、いったん『ほうき星』に渡さなきゃいけないの」
アメリーが得意げに語る前にリノンが言い終える。
途端にアメリーがムスッと睨むが、リノンは完全に受け流す。
「とはいえ、
「だったら、どうしてなんです?」
尚更リノン達が依頼を引き受けても良い理由が分からず、悠太は再び小首を傾げる。
「リノン、最後の部分を読み聞かせてくれんか?」
「あ、うん……〝尚、所属する見習い魔導士が依頼を達成させた件数に応じ、聖誕祭での出店を考慮いたします〟……あ、そういうことかぁ」
リノンが顔を上げ、ジョルジョアンナと頷き合う。
「どういうことなの? っていうか、さっきから言ってる聖誕祭って何?」
「聖誕祭は、お祭りだよ」
「うむ、魔導士の始祖グスタフ・シュタインヴィッヘルの誕生にちなみ、毎年夏に行われるんじゃ。そこで生産を行っておるギルドは店を出すことが出来るんじゃが、場所も限られておるゆえ、全てというわけにはいかんのじゃ」
「なるほど……」
リノンとジョルジョアンナの説明に悠太はようやく合点がいった。
しかし、アメリーには気になることがあるようで、怪訝な顔で首を捻った。
「どうしたんですか? アメリーさん?」
「ユータは何故、聖誕祭を知らんのだ? ヴェルバリタ一の催しだろうに」
「あ、えっと、それは……」
「ユータが知らんのも無理はない。ユータはワシの古い馴染みの孫でな。人里離れた山奥、それこそ僧侶が修行するような秘境にある村で育ったからのう。俗世のことには疎いんじゃよ」
悠太が言い淀むと、すかさずジョルジョアンナがフォローをする。
「ほう、そうなのか?」
「え、あ……はい、実は、そうなんです……」
アメリーが興味深げに見下ろしてくるので、悠太はこれ以上詮索されないよう、ジョルジョアンナの設定に乗ることにした。
「では、これからは、分からないことがあれば、全て私に聞くんだぞ。いいな?」
それが姉の務め、とばかりにアメリーが悠太の手を取ろうとしたので、リノンが会報をシュルルと丸めて叩く。
「あたっ! リノン! 貴様はどうして私の邪魔ばかりする!」
「でも、ジョル婆」
手を擦りキッと睨むアメリーをスルーし、リノンはジョルジョアンナを見る。
「なんじゃ?」
「わたし達が依頼を受けてる間、誰がゆーくんのお世話をするの?」
「それは確かに……いや私も懸念していたところだ。ジョル婆がユータを見るのか?」
リノンのもっともな意見に同調するアメリー。
本当に懸念していたかどうかは怪しい。
「ワシは余裕がないのう。かといって、他の者もポーションの納品で出払っておるし……」
そこまでは考えていなかったようで、ジョルジョアンナの顔も少し曇る。
「だったら、僕、ここの家事とか手伝いますよ」
「ほう、それは助かるのう。是非ともそうしておくれ」
「ダメだよ!」
ジョルジョアンナが悠太の申し出を喜ぶと、リノンは悠太を抱き寄せる。
「り、りっちゃん! なんで止めるのっ!?」
悠太は、リノンのぽよぽよした二つの膨らみが頭に乗っかり慌てたが、理由を問い詰める。
このまま何もせず、タダ飯喰らいで厄介になるのは心苦しい。
それに家事なら少し自信がある。
八年前に父が他界し、祖父母もすでにこの世にはいない。他に身内はおらず、仕事で忙しい母に代わり、必然的にやらざるを得なかった。
無論、幼かった悠太が独学で出来るはずもなく、理乃の母から手解きを受けた。
それは理乃であったリノンも、当然知っているはずである。
「だって、ゆーくんは『俗世のことに疎い』んでしょ? ゆーくんが育ったところと家事の仕方も違うかもしれないし、万が一怪我でもしたらどうするの? 近くに誰かがいればいいけど、みんないないんでしょ?」
「それは確かに……いや私も大変懸念していたところだ。ジョル婆、やはり私が残ってユータの面倒を――」
「わたしがいるから平気だってば。アメリーちゃんは一人で依頼をこなしてきなよ」
やはり懸念していたかどうか怪しいアメリーが言い終える前に、リノンが悠太の手を取ってバイバイをする。
「馬鹿を言うな! 右も左も分からない弟を放っておく姉がどこにいるっ!? リノンの方こそ依頼を受けてこい! というか、さっきから抱きつきすぎだろうっ!? 私にもユータを抱っこさせろっ!!」
「やだっ! ゆーくんにお姉ちゃんは必要ないのっ!! そうだよね、ゆーくんっ?」
「いやっ、あの……っていうか、りっちゃん、お、重いっ!!」
「ほえっ!? わたし、そんなに太ってないよっ!? ちょっと失礼くないっ!?」
「ち、ちがっ、頭が……いたっ!」
乗せ乳状態の悠太が首を横に振ろうとして首を痛めた。
「やめないかっ! ユータの頭は、その無駄がつまりにつまった貴様の胸を置く場所ではないのだぞっ!?」
「だって、すぐに肩が凝っちゃうんだよ……あと、ゆーくんの頭の高さってちょうどいいし」
「貴様、言うに事欠いて……!? もう、我慢ならんっ!!」
悩めるリノンに、アメリーが逆上し、リノンの胸をぐわしと鷲掴みにして持ち上げる。
ヴァレンティーネほどの残念さはないにしろ、アメリーも胸のことは気にしているようだ。
「どうだっ!? これなら肩も凝らんだろうっ!! ほれほれほれ~!」
「ア、アメリーちゃんっ!? だ、ダメっ!? そんなに強く、あんっ!! ダメぇえっ!!」
アメリーが胸を揉みしだきながら壁際まで追いやると、リノンが艶のある声を発した。
「やめんか!」
すかさずジョルジョアンナが飛んで行き、二人に拳骨を落とした。
「あいたっ!?」
「ぐがっ!?」
頭を押えて蹲る二人をジョルジョアンナが見下ろす。
「ならば二人で一緒の依頼を請け負い、その助手としてユータを連れて行けばよかろう……ユータもそれでよいな?」
「は、はい……」
ちょっぴり乱れたリノンの所為で前屈みになってしまった悠太は小さく頷いた。
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