第6話 新荘一香
うそぉっ。やっちゃった。
一香は持っていたホウキを抱きしめてふるえていた。足元に水が流れている。振り回したホウキで割ってしまった水そうから、水が一気に流れ出し、ロッカーを伝って、床へ流れ出していた。中で、作り物の水草が、水そうの底にしいた砂の上で倒れていた。空気を送っていたポンプから、気の抜けた音が鳴っている。六年二組のみんなで、お金を出しあって買った熱帯魚の『ぷっち』と『のりちゃん』が、水そうから消えていた。
ぷちゃり、ぺちゃり。
足の方から嫌な音が聞こえてくる。一香は思わずホウキを机の上へ放り出して、両耳を手で覆う。逃げ出したい。逃げ出しちゃダメ。心の中の二つの声は、どこか担任の先生だったり、ママの声に似ていたりした。
涙がボロボロと落ちる。怖くて、なさけなくて、自分が許せなくて……。でも逃げ出すほどの勇気? 悪い子? でもなくて……。
ただ、このまま立っていたら、きっとマンガやアニメみたいに、誰かが自分を助けてくれるなんて……どこか信じていた。
「新荘さん? 新荘さん! どうしたの! 大丈夫?」
一香の全身に電気が走る。誰もいなかったはずの放課後。固まっていた一香と割れてしまった水そうの前に、同じクラスの勝本君が真剣な顔をして立っていた。
怒られる! みんなが大切に育てていた熱帯魚だから、しかられるのも当たり前だ。一香はぎゅっと瞼を閉じた。
でも、勝本君は何も言わない。
何も言わない。
一香は気になって、ゆっくりと瞼を開ける。
「一香ちゃんはケガしなかった?」
勝本君が両手に持っていた熱帯魚を、水そうの掃除用にいつも置いてある洗面器へ放した。
「大丈夫だよ」
その場にへたりこんでしまった一香へ、勝本君は優しく声をかける。
勝本君はてぎぱきと、水そうで役立たずになっていたポンプも洗面器へ移した。水そうの水草も何本か選んで、洗面器の底へ置いていく。
「ほら、見て。ぷっちも、のりちゃんも心配ないから」
勝本君の引っ張り起こされた一香は、洗面器を覗きこんだ。自分の顔がうっすらと映る水面に、元気よく泳ぐ熱帯魚と、元気よく揺れる水草が見える。
「……ありがとう」
一香は涙を服でぬぐいながら、勝本君へお礼を言った。
「どうして、こうなっちゃったの?」
「誰もいなかったら、ホウキのマイクで踊って……」
壊したことと、自分が人気アイドルのまねをここでしていたこと。恥ずかしいことが重なって、勝本君に説明するのは、とてもムリだ。一香は黙ってしまった。
「そっか、わかった」
勝本君はそれ以上、何もきかず、一香の頭をなでた。
勝本君の手はぬれていて、冷たさが一香の頭に伝わる。とても心地よかった。
「何、何の音なの!」
そのとき、突然、担任の遠藤先生が教室へ入ってきた。
すっとまた固まってしまった一香と遠藤先生の間に、勝本君が入ってきた。
「まっ! この水槽はどうしたの? ケガしてない?」
遠藤先生は、まず一香と勝本君のことを心配してくれた。
けれど、二人がケガしてないとわかると、顔がだんだんと険しくなる。
机の上に置いていたホウキの先がぬれているのに気づくと、目が怖くなった。昨日の給食の時間に、暴れていた男の子たちを怒ったときと、遠藤先生は同じ顔をしていた。
一香はいつの間にか、勝本君の影に隠れて、その肩を強く掴んでいた。
「放課後はすぐに帰ることって言ってあったのに! ……誰がしたの? 正直に言いなさい」
遠藤先生は腰に手を当て、一香と勝本君をしかる。
他に友達は、誰もいない。嘘をついたってすぐにばれる。
謝らなくちゃいけないのに、遠藤先生の顔が怖くて、一香はますます、勝本君の背中におでこを押しつけた。
「遠藤先生……僕がやりました」
一香もその声を聞いて、はっと顔を上げた。
「そうなの? 一香ちゃん?」
遠藤先生に聞かれても、一香は何も言えない。勝本君がかばってくれている。うれしい。それで、このまま助けてもらいたい。けれど勝本君に悪い。だって水そうを割ったのは、一香だ。
「でも、先生」
勝本君は振り返って、一香の手をつかむと、一緒に手を上げた。
「一香ちゃんも割りました!」
えっ、なんで? 一香の目から涙がまた流れ出す。本当のことだし、バツを受けるべきだけれど、勝本君の裏切りに、一香の涙は止まらない。
「正直に言ってくれて先生も嬉しいわ。でも、責任はとらなくちゃね。水槽は先生が片付けるから、二人は濡れたロッカーと床をきちんと掃除すること!」
「わかりました」
遠藤先生は、明るく返事した勝本君の頭をなでたあと、水そうを抱えて、教室を後にした。
「どうして……」どうして一香のことも言ったの?
ぞうきんを持って、一香の目の前で、勝本君が床をふいていた。一香はふく手を止めた。理由を聞きたくなる。けれど、勝本君を責めるのは間違っていると、一香もわかっていた。だから声がこれ以上、出てこない。
「あのね、一香ちゃん」
勝本君も床をふく手を止めて、笑顔を一香へ向ける。
「僕ね、一香ちゃんの歌っていた歌、好きなんだよ」
勝本君が突然、歌詞を大声で言い出した。
「『悲しいこと、二つにわけてくれる人、やっと見つけた』」
サビでも、歌いだしでもない、とちゅうの歌詞。だから、勝本君の、この歌が好き、って言葉が本当だって、一香も信じられた。
「遠藤先生に、ね。正直に言わなかったら、絶対に、あとで気になってしかたなかったと思うんだ。だって一香ちゃんは良い子だから。悪い子になったらとっても苦しむと思う。でもね、一香ちゃんだけが遠藤先生に怒られたらかわいそうかなって。僕だって一人で怒られたら怖いもん」
勝本君は、そこで言葉を止めて、うつむいた。さっきよりひっしに、それこそおでこから汗が落ちちゃうぐらいに、床をぞうきんで、ものすごい勢いでみがいていく。
「……勝本君」
「だからね。僕と一緒なら、ちょっとは怖くないかなって」
《恋開き》
「じゃあ、僕、ちょっとぞうきんをしぼってくるよ」
勝本君が一香のぞうきんを取ろうとした。
「一香ちゃん?」
一香は、ぞうきんを離さない。
「一緒に、ね。だって『二人でいると楽しさも百倍』だよね」
やっと一香は、勝本君へ笑えた。
《あとは、わたしもがんばるだけ》
恋開き @9mekazu
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