第5話 富乃香織
「富乃香織さん!」
目の前の友人が突然、私の名前をフルネームで、周りに大勢の客がいる大学近くのカフェの午後一時に叫んだ。
あまりのことに、私は声よりも早く、友人の頭を叩いた。
「突然叩くなよ」
「それはこっちのセリフよ。突然、どうしたのよ。いまさら私の名前でも忘れたの? 記憶喪失? こっちこそ今すぐこの状況を忘れたいわ」
私はテーブルに肘をついて大きく息をついた。
「香織さん!」
「だから声が大きいって」
「あっ、わかった、わかったからお冷を入れたグラスをテーブルに戻して」
「……まったく」
私はグラスの水を一気飲みしてからテーブルに置いた。
友人の奇行の原因は何なのか。我ながら、予想がついていた。
自慢でも、謙遜でもない。経験的に、この後、友人が何を言い出すのか、彼の玉のような額の汗を見れば一目瞭然だ。
私は身構え、お断りの言葉を数個用意する。
彼のことが嫌いではない。でもそれは友人としてだ。彼のことを恋愛対象として分析すると、好きでも嫌いでもなくて、無関心に分類されている。
ただ、もう友人でなくなるのは、非常に惜しいなぁと思う。
もちろんお断りしても、私の方から疎遠な素振りをしようなんて毛頭ほども考えていない。実際、大学で遊ぶメンバーの中にも、告白された後、何となくお互いギクシャクしてしまう友人はいる。他の女友だちに知られないように、ちょっと気を置いてしまうからだ。純粋に、自分を曝け出して話せる男友だちがいなくなるのは、私は凄く残念だった。
コン。その音で思考海から私の意識が戻る。
彼は私と同じく、冷や水を一気飲みして落ち着こうとしているようだ。
「あわてないで」
何を? と問い返すことなく、彼は私に肯いた。
そんな様子に、私はあらためて残念っと思った。彼はとても私と気が合う人だ。
異性の友だちは存在しない。
下心なしで女性の頼みに何でも答える男性はいない。
私の親友の持論だった。
私はそれに肯定も否定もしないけれど、異性の友だちはとても大切だと痛感していた。
私の趣味はアウトドアだ。けれども、本格的なアウトドアとか高い山に登りたいわけでもなくて、とはいえ、近所の川原でみんなで焼肉パーティーをすれば満足というわけでもなく。友だちに言わせれば、私の考えるアウトドアはとても面倒くさい、らしい。
きちんとキャンプ場でテントを張りたいし、ダッチオープンを使って調理したい。スノーピークスやロゴスだけでなく、いろんなメーカーの商品を見るのも使うのも楽しくてしかたない。けれども、火起こしは煙たくて髪に匂いがつくから嫌だし、できれば夜の灯りや暑さ対策に、キャンピングカーのコンセントを利用したい。
つまり私は、山登りはきついし大変だから嫌いだけれど、山頂からの景色を見るのはとても素敵だと憧れているってタイプの人間だ。
はい、わかっています。それって嫌な人間ですよね私。自分でも十分わかっているけれど仕方ない。
そんなとき彼の存在は大きかった。
力仕事は全部してくれたし、美味しそうに料理は食べてくれてたし……。
それに彼の一番は、男性と一緒にいるって気持ちを持たなくて良かったところだ。
いくら男女半々十人以上のグループのキャンプと言っても、男性に対する警戒までは本能から切り離せない。なのに、彼だけは私に男を感じさせなかった。
別に彼が、女性っぽい容姿とか性格っていうわけでもない。
農学部で実家は山奥にあって、「確か……家から自転車で学校に」
「うん、二時間かけて学校に……」
「そ、そうだよね。この前の合宿で教えてくれたよね」
どうやら私の心の声が口から零れ落ちていたらしい。
彼の顔が少しだけ緩んだ――ような気がした。
キャンプ場に泊まった夜、テントから離れたところに寝転がっていた彼に気づいた私は、何も警戒せずに彼の隣に寝そべった。その時に、彼が細マッチョな理由を私は聞いていた。
綺麗だね。
会話はその事を聞いただけで、すぐに言葉はなくなった。
その時の私は彼と会話するのに言葉なんていらないと本気で思っていた。この世界にたった二人しか存在していない。そんな歌詞に出てきそうな気分になってしまっていたのだ。
明かりのない暗闇なのに、星々の光でとても眩しかった。
しばらくの沈黙の後、彼が指さしで星と星を繋ぎ、星座を教えてくれた。
私はスマホのアプリがあるよなんて野暮なことを言わなかったし、そもそもそんなことすら忘れて彼の声に耳を傾けていた。彼の声はとても澄んでいて、耳に心地よかった。ずっと聞いていたいな。そう私は目を閉じて、無防備にもそのまま心地よく眠ってしまっていた。
朝、目を覚ました私は、テントの中にいて、もちろん何も無かったと女友だちが私を叱りながら教えてくれた。キャンプ帰りの車の中で、隣の席に座り、何度もお礼を言ったことはきっと一生忘れられない。
傍にいても安心できて、頼りがいのある友人を、私はとても失いたくなかった。
「あぁ、やっぱり待って」
私が彼の前に手のひらを見せる。
彼は私の行動に目を何度も瞬かせた。
「何を待つの?」
彼が探りを入れるような小声で私に問う。
「……告白するつもりなのよね」
私がずばり核心を突くと、彼は途端に項垂れた。
「それって俺のことが嫌いってこと?」
絞り出したような彼の声に私はごめんと手を合わせた。
「そうじゃなくて、友だちをずっと続けたいっていうか、告白されたら友だちじゃなくなるから残念だというか……」
「それって俺は男として見てもらえないってこと?」
「そうじゃなくて、うー、上手く言葉にできないけれど、男友だちとしてこれ以上の存在は私の人生にきっと現れないっていうか、だから無くしちゃうのはもったいないっていうか……」
「それって、俺のこと嫌いじゃないってこと?」
「嫌いじゃないよっ。当たり前じゃない。嫌いな子と平然と二人っきりで昼ごはんを食べれちゃうほど私は人間ができてないよ」
「だったら、俺……富乃香織さんのことが好きです。是非、付き合ってください」
「あーっ! どうして言っちゃうかなぁ。もぅ友だちでいられなくなっちゃうじゃない」
「大丈夫。断られても……っていうかこの時点でもうそれ確定っぽいけど、今まで通り友だちとして付き合えるよ。香織さんが『俺の顔も見たくない』っていうなら別だけど」
彼はそこでぎゅっと唇を引き締めた。
「そんなことないよ。私は一緒にいて楽しかったもの。それに合宿をキャンプ場でしたいって私がわがまま言ったときだって、一人だけ賛成してくれたじゃない。普段から色々と助けてくれるし、優しいし、私にはもったいないぐらいだよ!」
「だったら」彼の鍔を飲み込む音を私は聞いた。「だったら、どうして俺じゃだめ? 男として魅力がない?」
≪恋開き≫
そうだ。
その通りだ。
どうして断ろうと思っていたのだろう。
外見も内面も、声も、その行動も、私の趣味に付き合ってくれるところも。
私の一生の中で一番の男友だちになってくれるだろう彼は、たぶん私の一生の中で一番の男性なのかもしれない。
急に顔が熱くなった。
私は恥ずかしくて、彼の視線から目を逸らす。
この男友だちを逃がしたくないという一心でしか見ていなかったら、全然、この展開まで考えていなかった。
無関係に分類していた人が、いつの間にかハッシュタグをつけて、私の心に浮上してきたのだ。
「俺のことを男として考えてくれる?」
彼が一押しの言葉を入れた。
立場逆転。私は空になったグラスを口につけた。
≪あとは私の自覚待ち? それとも彼のもう一押し?≫
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