第4話 新宮小町

 やだ! やだ! やだ!

 堅くて、大きくて、優しさの欠片もない手が、新宮小町のお尻を鷲掴みにしていた。ときどき痴漢の爪がスカートと下着の上から突き立てられる。そのたびに、小町のお尻と心に激痛が走った。

 小町は満員電車のドアの窓に額を擦りつけながら、ぎゅっと目を閉じて、一秒でも早く高校近くの駅に電車が到着することを祈っていた。

 声なんて出せるわけがない。小町はさっきから続く吐き気を口を両手で押さえて堪えていた。


 振り返って痴漢の顔を引っ叩くのよ。

 痴漢のつま先を踵で踏み潰せばいいのよ。


 昼食中に友達と笑いながら話した痴漢撃退法が、小町の頭の中を何度も過り、そうせよと小町へアドバイスを残していく。


 けれど、そんなことできないよ。


 痴漢の手からは欲望と悪意と、小町はそれしか感じられなかった。身長150cmしかない小町の体を上から押さえつけるような――小町の背中側に立つ痴漢はそんな大男かもしれない。目もナイフみたいに鋭く、鈍く光っていて、尖った歯は剥き出しで、顔だけじゃなく、心根も悪魔そのものかもしれない。


 怖い! 怖い! 怖い! もしも怒らせたら、もっと酷いことされるかもしれない。振り返って顔を覚えられたらどうするの? このあと警察が痴漢を捕まえても、痴漢が刑務所から出てきたら、また襲ってくるかもしれない。そのときは、もっと酷いことされるかもしれない。


 小町はさらに体を強張らせて、進まない電車を恨んだ。

 そんな時だった。


「大丈夫?」

 甘くて優しい声が、小町の頭を撫でるように聞こえてきた。

 あの気持ち悪かった手の感触が、いつの間にか、お尻から消えていた。

 小町は恐々と薄目を開ける。そのとき白い開襟シャツの胸元が飛び込んだ。

「えっと、えっと、えっと……」

「もう大丈夫だよ」

 思わず耳を傾けたくなるような男の子の声に、小町は反射的に「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と早口で答えた。

「落ち着いてね。もう大丈夫だから」男の子は小町にだけ聞えるように囁いた。

 痴漢とあたしの間に、この男の子が入ってきてくれた。小町は神様と男の子に感謝する。

 男の子の後ろで、スーツ姿の男の人がこそこそと人ごみを分けて、小町から逃げようとしていた。スーツはクタクタで、とても痩せた背を丸め、髪の毛だって肌色の方が目立っている。あまりにも想像と違う姿に、小町は強く息を吐きだし、自分の頬を軽く叩いた。

「どうする? 君がいいなら警察に突き出すけど?」

「えっ、えっ、えっ、あっ、大丈夫です」正義感だけなら、痴漢を捕まえて、公衆の面前で駅員に突き出したかもしれない。けれどこの男の子は、そのとき晒し物になってしまう小町のことを気づかってくれていた。

「助けてくれてありがとうございました」

 小町がやっと男の子の顔を見上げた。

 けどその次の瞬間、男の子の顔が目の前から消えた。

「あっ、着いたみたい。それじゃ」

 男の子はあっさりと別れの言葉を発して、人の流れに乗って電車の出口へ向かう。

「あっ、あっ、あっ、待って。名前……」

 出遅れた小町が手を伸ばしても、男の子の背中に、もう届かなかった。




「……それで、全く関係ない駅で降りてヒーローを探していたから学校に遅刻したってわけでしょ? もぅ、聞き飽きたわよ。いったい何回、その話をするつもりなの?」

「アキちゃん、ひどぉい!」

 駅前の本屋の中で、小町の声が響く。

 ハイハイと小町へ生返事を返す亜季が、ティーン向けのファッション誌を閉じて平積みの一番上へ戻した。そして本屋の雑誌コーナーに並べられた別のファッション誌を手に取る。

「でも小町のがんばりは尊敬するわ。それから一ヶ月、毎夕、二時間も駅前に立ち続けているんだから」

「こっちこそごめんね。こうやって付き合ってもらって」

 小町が、二人以外のお客さんの視線も気にせず、深々と頭を下げた。

「ちょ、ちょっと止めてよ。周りの人がこっち見るから……」

「でもアキちゃん」

「も、もぅ、当たり前でしょう? 聞いちゃったら手伝わずにいられない。親友なんだから」

 亜季は周囲をチラチラと見まわしたあと、小町の頭をコツンと叩いた。

「ありがと、ありがと、ありがと」

「ありがとうは一回。何度も同じこと言う癖、子どもっぽいからいい加減にしなよ」

「ごめん、ごめん、ごめん」

「ごめんも一回。……あのねぇ、無暗に三回唱えすぎると、幸運が逃げるって言うでしょう?」

「ごめんなさい、ご……」

「小町ぃ~」

「ごめん」

 目を合わせた二人は、口を抑えて笑いあった。




「でもね、こっちの都合も考えずに突然腕を掴んで引き摺って行くのはやめてよね。小町は小さいくせに力は強いんだから」

 亜季が、本屋の窓越しに駅出口を見張っている小町へ言った。

「えっ、何か言った?」

 小町は視線を駅出口から離さずに、隣の亜季へ手を振った。

「で、本屋に入ってきた男の子は、小町の探している男の子だったの? って言ったの」

「……アキちゃんってときどき意地悪だよね」

 桃色の頬を膨らませた小町が振り返り、指をまっすぐに前へ伸ばす。


 探していた男の子だ! 駅のホームで見つけた後ろ姿の似ていた人は、今、レジカウンターに入ってレジを打っている。


「……円になります」

 その人がテキパキとレジを打ち、お客さんに笑顔を振りまいていた。

「けど、小町、あの人って女の人だよ」

 亜季がわざとらしく首を傾げた。

 店員さんの声は、とてもハキハキした女の子の声だった。

「すっと背すじが伸びた綺麗な子だね。身長も高いし、モデルって紹介されても信じそう……小町ってもしかしてそっちの方が好きだったの」

「怒るよ!」

 小町の尖った唇を、亜季の指がなぞった。

「馬鹿にしてないよ」

 亜季の答えに、小町は表情を和らげた。

「偉いよ。自分と関係のない駅に毎日降りて、助けてくれた男の子を探し続けるなんて……その人のことが好きになったんだね」

 小町は首を素早く横に振った。

「好きとか関係ないよ。お礼を言いたいだけで……」

「それだけで、ここまでする?」

 亜季は、目を逸らす小町の方へわざわざ回り込んでから、にやりと笑う。

「だ、だって顔もよく知らない相手を好きになったりしないよ?」

 まだ言い訳をする小町の頬を、亜季は人差し指で押した。

「まっ、小町は見た目もお子ちゃまだからね。恋愛対象って言うより、小学生の頃のヒーローものとかアイドルとか、そんな好きレベルしかわかんないだよね?」

「もぅ! あたしだって高校生なんだからね」

 怒った小町が亜季の手を握って上下に振り回した。亜季は苦笑いで応える。

「ごめん。お詫びに、これからもヒーロー探しを手伝ってあげるから、許しなさいな」

 親友から繰り返しのごめんの声に、「アキちゃんも三回言った」と小町は不平を言いつつも肯いた。

「それにしても、覚えていること少なすぎるよ。学生服のズボンと開襟シャツねぇ……ブレザーじゃない学校で、この駅で降りる高校は、北高と東高と……それに橘工業? せめて校章とか見てないの?」

 亜季は市内のマンモス高校の名前を挙げていく。

「声を聞けば、絶対にわかると思う」あの声は絶対に忘れない。

 亜季は瞼を軽く閉じて、首を横に振った。

「やっぱり声しかわかんないの? これから何千人の声を聞くつもり?」

 小町は顔を真っ赤にして俯いた。

「……しかたないね。根気強く、ね。とにかく、ここだと、その声、も聞けないから、駅前で待ちましょうか?」

 前向きな亜季の言葉に、小町はうんうんうんと肯く。

「あっ、でもごめん、この雑誌を買ってくるからちょっとまって……」亜季がそう言うと同時に携帯電話の着信が鳴りだす。「タイミング悪い」

「アキちゃん、その雑誌はあたしが買っとくよ?」

「ごめん小町」亜季は携帯を持った手で小町を拝む。「お金はあとで払うから」

 亜季はそう言うと同時に、店を飛び出た。慌てて携帯を耳に当てると、亜季の顔が一瞬で優しく緩む。誰からの電話か一目瞭然だった。

「いいなぁアキちゃん」

 レジ待ちのお客の列に並んだ小町は、外の亜季を眺めながら、呟いた。

 その瞬間にふっと息を呑んだ。

 どうしていいなぁって思ったのだろう。小町は自問する。


 ただお礼を言いたいためだけだったのに、もしかしたらあたし……。

 顔もちゃんと見なかった人を好きになるなんてこと、あるのかな?


 小町はそう思いながら、客の列から半歩出て、前後を見渡した。


 例えば、すぐ後ろに立っているジャージ姿の男の子を一目見ただけで好きになったりするのかな?


 後ろの男の子は、素敵な男の子だった。アイドルでもありだと思うほど格好いい。こんな男の子が彼氏なら最高だと思う。


 でもね。でもね。でもね。あたしはあの声をもう一度聞きたい。もう一度だけ。もう一度だけ聞けたら。




「ほら、レジが開いたよ」

 後ろの人から声をかけられた。考え事をしていた間に、小町の前のお客さんは誰もいなくなっていた。待ちくたびれた店員さんが、バーコードの読み取り機を持ったまま、むすっとした顔をしていた。

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 後ろの人の噛み殺し損ねた笑い声が聞こえてくる。恥ずかしい。小町は慌ててレジへ向かった。

 そして、レジに雑誌を差し出したとき、はっと気づく。

「お客様?」

 店員が小町へ首を傾げる。小町は深呼吸してから、ごめんなさいと一回だけ言って、後ろへ振り向いた。


《恋開き》


 無暗に三回唱えすぎると、幸運が逃げるって言うでしょう?

 親友の言葉が、小町の耳の奥で何度もリピートされる。

 落ち着け、あたし。一回だけ心の中で唱える。


「この前、電車で助けてもらった、新宮小町って言います」


《あとは彼女の勇気の言葉を一回だけ》

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