第6話 少しでも苦しくないように天国へ送ってあげるんだ。



 なんとなしに夜空を見上げてみた。

 星はない。月もない。ただしっとりとくらいだけの夜空が広がっている。ここまで黒一色だと薄っすらと浮かぶ雲が不純物のようにも思えてしまう。

 夜風もない。静かな、どこまでも静かな夜だった。


「空が天国、地面の下が地獄。じゃあ夜空は何なんだろうね?」

「何言ってんだ、お前?」


 いきなりひかるがワケの分からないことを言った。

 怪訝な表情を見せてやれば、光はこちらを揶揄するように眼を細めた。


「……何もないのに空見上げてる人に言われたかないよ。歳とると足元おぼつかなくなるっていうし、上見て歩いてるとスッ転ぶよ?」

「俺はまだ20歳だ、多分。しゃんとしてるよ」


 どうでもいい会話を適当に続ける。

 自動車爆走殺人カップル(仮)を殺した興奮が冷めていないのだろうか。何かをしたいような、吐き出したいような、そんな言いようのない感覚が胸の内で渦を巻く。

 あの後、まだいくらか話をして、今は帰路についている。

 今日出会ったばかりの間柄だが、未成年の女子高生を夜中に一人で帰すのはさすがに気が引けた。


「え、ストーカー?」


 という言葉を聞き流しながら送り届けることにした次第である。

 光の歩幅は小さい。俺は少しだけゆっくりと隣を歩く。

 横目でこっそりと光の姿を捉える。小柄な体躯、歩幅だけでなく肩幅も小さい。歳相応ではあるけれど、彼女が人殺しであるなどと、言われて信じる者もいないだろう。

 しかし、眼が輝いている。暗い夜道で、その双眸だけがギラギラと光って見える。

 それは炎のようで。それは星のようで。


「ああ、だから光なのか」

「……何のことか知らないけど、あんまそういうこと言わないでね」

「なんで?」

「嫌い、なんだよ、名前」


 合わないものを口にしたみたいに光が歯切れ悪く言い淀む。

 理由は、見当もつかない。


「そうか、じゃあ言わない」

「聞かないの?」

「聞いて欲しいのか?」

「ううん」

「だろ?」


 それで会話は完全に途切れてしまった。

 話題は思いつかなかったし、言っておきたいこともなかった。

 ただ、今日出会っただけの同業者ひとごろし。同じ街にいるだけの同類さつじんき

 それだけの相手に、それ以上関わる気も湧かない。


「ここ」


 静かすぎるほどに静かな夜の散歩は不意に終わりを告げられた。

 一軒の、何の変哲もない民家の前で光が立ち止まったのだ。

 その玄関先、門に掲げられた表札には確かに『逆本さかもと』の名が刻まれていた。


「……じゃ」

「おう。それじゃあな」


 振られた手に手を上げて返す。

 再び、夜道に歩を進め始める。不思議なもので、隣を歩く人間がいなくなっただけで夜の冷気が厳しくなったように感じられた。

 少しだけ夜空を仰ぐ。星はない。


「ま、って」

「うん?」


 背中から呼び止める声を聞く。光だ。

 振り返ってみると、どこか困ったような、曖昧な表情が玄関先の明かりに照らされていた。


「あ、あのさ。今日、楽しかったよね?」

「ん、まあ。いつもと違うってのはいい刺激だよな。学生じゃないとこういうのはなあ」

「うん。だから、さ」


 光の口は意外なくらいに歯切れが悪い。何を言いたいのかが判らない。日中に抱いていた歯に衣着せないというイメージが揺らぐ。

 少しだけ沈黙を置いて、光が言葉を作った。


「また、会えるよね?」


 想像もしていない台詞だった。

 その瞬間だけ、逆本光が『同類』ではなく、どこにでもいそうな取るに足らない少女に見えた。

 思わず笑ってしまう。


「な、何さ!」

「いや、いやいや。うん、うん。ああ、うん」

「……何さ」

「気にすんな。うん、そうか、そうだな」


 持ち上がった口角が降りてこない。そのまま言葉を続けた。


「またな」


 チカ、と明かりが一瞬だけ明滅した。電球の換え時だろうか。

 光の顔が少しだけ笑顔になったような気がした。


「うん、また」


 それきり、俺は振り返ることなく夜道を歩いていく。背中でバタンと扉の閉まる音を聞いた。

 夜空を見上げる。月のない静かな夜だ。


「お、星――ッ」


 一つだけ星を見つけたが、蹴躓けつまずいてつんのめった拍子に見失ってしまった。






     ●          ●          ●          ●          ●






「空の上には天国があって、地面の下には地獄がある。じゃあさ、夜空は」


 少女の言葉が呻き声に遮られる。

 沈むような湿り気に満ちたベッドの上、少女はそれを不快に思う素振りもなく男にまたがって身を揺らす。

 クスリと、蠱惑的こわくてきに笑った。


「苦しい? アハ――いい顔。九兎キュート燃えちゃう」


 少女、九兎の両手は男の首に寄り添っていた。這う蛞蝓ナメクジのように、脚を広げる蜘蛛のように。九兎の両手は男の首を絞めていた。

 男が酸素を求めて口を開閉する。パクパクと必死な様を、九兎は金魚みたいだと考え、胸を鳴らす。なんて愛おしいのだと肌を濡らす。


「もうちょっと、もうちょっとだから――ん」


 必死に蠢く男の唇に、九兎が己のそれを重ねた。

 多幸感に頬を赤らめる少女とは対照的に、男の顔が次第に青白くなっていく。唇は唇で塞がれている。


「ん、んぅ。ん――」


 口付けが続く。十秒、二十秒。三十を越えて一分になる。九兎はまだ離れない。

 二分になる頃で九兎の身体がビクリと跳ねた。一度ではなく二度三度と繰り返し、痙攣する。


「~~ッ、はあ。よかったぁ」


 唇を離し、九兎が声を上げる。恍惚とした表情で、口の端から、つうと唾液が線を下ろす。

 どこか淫靡なその様子に見とれる者はいない。男はぐったりと動かない。


「ごちそーさま。大好きだよ、タッくん。大好きだったよ」


 もう一度、紫色になった唇に己の唇を重ねて。

 だから、と言葉を続ける。


「楽園で待ってて。ら夜空の楽園に行けるから」


 天国ヘヴンでも地獄ヘルでもなく、楽園パラダイスでまた逢おうと言う。

 少女のように可憐な笑みだった。

 裸婦像のように美麗な笑みだった。

 人殺しそのままの残酷な笑みを九兎は浮かべていた。


「またいつか、ころしてあげるからね」


 また逢おう、また逢おうと少女は幾度も繰り返す。

 その日の夜空に星はない。一欠片の光も射さない夜だった。


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