第5話 豚だから死ぬ。



 微温ぬるい。微温ぬるい。なま微温ぬるい。


 マナ・ベネットは日本の文化が好きだった。

 ティーンの頃に出会った日本のアイドルソングの独特な華やかさには心を奪われた。

 スシやウドンも好きだし、ミソスープなどには深い味わいを感じずにはいられない。特にワガシは良いと思っている。とても良い。

 実際に日本に来てみれば、まるで異世界に迷い込んだように感じて年甲斐もなく心が弾んだものだ。


「私、将来は日本で働くつもりよ」


 大学を卒業して、すぐに日本へ飛んだ。

 縁にも恵まれ、早々と中学校の英会話講師に職を見つけられたのは幸いだったと今でも思う。

 言葉の壁には苦労こそしたが、大好きな日本の言葉を学ぶことは楽しかったし、身に着ければ身に着けるだけ、日本という世界くにへの理解を深められたのは最高のモチベーションになった。

 そうでなくとも、生徒や同僚たちは皆たどたどしい英語で歩み寄ろうとしてくれる。

 それがなんだか可笑しくて、こそばゆくて、そしてやはり嬉しかった。


「おはようベネット先生、おはよう」


 だが、嫌なこともある。

 碧い瞳に金髪ブロンド、透けるように白い肌、メリハリの際立つボディライン。

 彼女の容貌は日本においてはどうしても人目を惹くものだった。

 ただ視線を集めるだけならば気にしなければいい。笑みの一つも返す余裕を保つのも悪くない。

 だが、だが。


「やあベネット先生。今日もおキレイですな」


 好奇の視線だけは耐え難いものがあった。

 宝石の瞳に金糸の髪、滑らかに白い肌、肉感を想像させるボディライン。

 老いも若きも、情欲を刺激されて眼で追ってしまう。

 見るだけで声もかけないのがマナの不快をいっそう煽る。日本人にとってシャイの境界線はどこにあるのか。気安く声もかけられればキツい冗句ジョークの一つも返せるというのに。


「はは、いやベネット先生はお若いのにご立派だ、はは。あやかりたいものですな」


 特に、学年主任の伊達ダーティの存在は大きなストレスだった。

 彼は一見すれば真面目そうな風貌にも関わらず、その実は女を軽んじる人物だった。

 体つきをジロジロと無遠慮に見られるのは努めて気にしなければそれでよかった。

 しかし、伊達ダーティは時に身体に触れることさえしてくるのだ。

 直接的に尻に触れるようなことこそ少ないが、太腿、腰、手などへと、まるで情婦を相手取るように手を伸ばす。

 その度に、マナは胸中で最低ダーティと吐き捨て、言い知れないほどの怒りを沈殿させていた。

 空想の内でどれだけその手を捻じ切り、その頬を打ち砕いただろうか。時に切り裂き、火を点け、ばら撒いた。

 立場として、現実では不可能なことも想像の中ならば自由だ。どんな復讐も思いのままだった。


「みなさん、飴玉キャンディーをどうぞ」


 また、子供の頃から嫌なことがあれば飴玉を舐める習慣もあった。

 甘味は夢の味だ。それだけで怒りが冷め、不快の氷が溶けていく。

 もちろん、職場であったならば自分だけで味わうのも狭量というものだ。同僚や生徒たちに配ることもあった。


「お、では私も一つ」


 ――その日は、伊達ダーティも飴玉を欲しがった。

 手渡す瞬間、露骨に手を撫でられた折にマナ・ベネットは想像した。


「この飴玉キャンディーが爆弾ならいいのに」


 その10分後、校舎全体を火災報知機が揺らし、避難指示の放送が大音量で騒ぎ出すこととなった。

 火元は階段の踊り場。

 否、階段で歩を進めていた学年主任、伊達ダーティその人だ。

 身体は余すことなく火に巻かれて炭となっていた。

 顔はから微塵に砕け、廊下に、壁に、天井にこびりつく肉片となっていた。

 事態を確認するために現場を視て、思わず身体が震えた。

 焼ける肉の臭い。飛び散った血の臭い。そして仄かに漂う砂糖菓子キャンディーの香りはニトロのようで。

 それを同僚は恐怖と困惑によるものと信じてマナを気遣った。

 それそのものには感謝を抱き、しかし彼女は歓喜に震えていた。


「――嬉しい。最高だわ。こんなに幸せなことって今までどれだけあったかしら」


 血肉の死臭はたまらなく芳しかった。

 憎い、憎い人間の死は舌を介さず、心を直接に甘やかした。

 何より単純に、その死が己によるものだという確信が震えるほどの興奮をもたらした。

 それは言葉にしようとしてもまとまらない感情だった。

 ゆえに、マナにはただ震える以外にはできることもなかった。


「ベネット先生、大丈夫ですか、ベネット先生?」


 保健室で身を落ち着けている間にも心配した同僚、生徒たちが見舞ってくれた。

 己は恵まれた環境にいると爽やかな風を感じた。それもまた幸せだった。


「ベネット先生。貴女でしょう、伊達主任を殺したのは?」


 ――ただ一人だけ、変わり映えのしない見舞いの言葉を持ち寄らなかった男がいた。

 同僚の、男の、教師。


「お気持ちわかります。いいですよね。僕もアレは嫌いだったんです。ありがとう。いけ好かなかったでしょう、アレ?」


 イケスカナイの意味はよく分からなかったが、深刻な秘密を共有していることだけは確信できた。

 それは、マナ・ベネットが暗堂あんどう鉄矢てつやと交際を始める一週間前のこと――。




 夢を見ていたことにマナが気づいたのは、己がアスファルトの上に横たわっていることに気づいた瞬間だった。

 硬く、ゴツゴツとしていて、やはり堅い。

 斑な凹凸で身を削るような感触は不快で、すぐさま身を起こす。


「痛ッ」


 身体が痛む。服は焼け、自慢の金髪ブロンドも惨めに焦げ付いていた。

 それを確かめて、自分が自動車を爆発させたことを思い出す。

 痛む身体を抱えるように抱いて、周囲を見る。

 数十m先に原型を留めず、炎と煙を轟と上げる車があった。


「随分、飛ばされた。ハハ、生きてるものね」


 無論、生きているはずもない。それを可能にしたのは彼女がすでに人を外れていたからか。

 どうにか立ち上がって、もう一度視線を回す。

 そういえば、青年と少女はどうなったかと考えて。


「――え」


 ほぼ同時、マナの胸、その内側から人間の手が生えた。

 否、内側ではない。手は背後から貫かれていた。

 豊かな乳房が跳ねるように揺れる。その狭間で、赤い血液に染められた手は何かそういう、艶やかなオブジェにも見えた。

 マナがかろうじて首を背後に向けて回した。


「やっと起きたから、これで終いな。もうちょっと起きなかったら時間かかりすぎだ」


 青年がいた。

 その頬に、腕に、そこかしこには擦り傷が見て取れる。擦り傷だけだ。大きな怪我はない。


「ハ、ハ。無事、だったの?」

「いや、ヤバかったよ。車が爆発ってのはさすがに考えてなかった」


 青年が手を引き抜く。

 胸に触れれば、孔が開いていた。生微温い何かが溢れて止まらない。

 指先が痺れる。吐息が熱い。身体が芯から凍えて死んでいく。


「だから、まあ、全力で車蹴っ飛ばしてさ。俺、死にたくないし」


 アスファルトに付けられたタイヤの擦れた跡を見るような余裕は、霞んだ視界に残されていない。

 ゆっくりと、終わっていく。


「ねえ」

「うん?」


 少しだけ、強がりのように口角を持ち上げて、マナが問いかけた。


「どうして、私たちを殺したの?」

「別に。たいした理由もねえよ」


 青年がにべもなく応える。

 それは、暗堂鉄矢にもマナ・ベネットにも心底から関心がないと言っているようで。


「アンタらみたいに辺り構わずやらかすようなのは迷惑だから。自分以外の人殺しってのに興味があったから。あとは、やっぱ単純に殺しが好きだから」


 マナの腰元から探り出したハンカチで青年が手を拭う。べっとりと絡んだ赤は布一枚では容易く落ちず、かさぶたのように固まってこびりついている。

 そして、青年は思い出したように言葉を付け足した。


「ああ、それと、アンタ死にたがってたろ?」

「……死にたがってた? 私が?」

「おお。分かるんだ、俺。そういうの。てか、そういうヤツしか殺さないし。男の方はそうでもなかったからどうしようかと思ってたけど、ひかるが殺ってくれて助かったよ」


 死にたがっていた。

 その言葉をマナは空洞の胸で反芻する。

 死にたがっていた。生きるのを諦めたいと願っていた。


「どう、かしらね。分からない。アナタから見たら、私は死にたがっていたのかしら」


 青年は、言うべきことはもう何もないとばかりに、何も言わない。

 遠くで人の声が聞こえた気がした。ざわざわと蠢くような、喧騒の音だ。

 周囲を伺っていたと思しき少女が青年に声をかける。


「ねえ、そろそろ逃げよ」

「ん。そんじゃな、外人さん」


 去り行く背中はもはや見えない。世界が暗い。閉じていく。終わっていく。

 それでも、かすかに動く喉を震わせてマナ・ベネットは青年を呼んだ。


「どした?」

「アナタ、名前は? 最後に……」

裏垣うらがき遊汰ゆうた。あー、ユータ・ウラガキ? で、こっちが、何だっけ?」

「ヒカル・サカモト」

「そう、光。一応聞いとくか、アンタは?」


 マナ・ベネット。

 その名前をちゃんと言えただろうか。そう疑問するより早く、命が終わった。


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