第3話 どうしたって死ぬまで止まらねえ。
苦しい。苦しい。息苦しい。
普通に学び、普通に遊び、普通に励んで、普通に怠けて。
普通に学校に行って、普通に友達を作って、普通に恋人を作って、普通に大人になって。
普通に笑って、普通に怒って、普通に泣いて、普通に殺して。
そんな、普通に普通の男だった。
「俺さ、先生になろうと思うんだよ」
大学では教育の道を志した。
特に壮大な夢を見ているような人間でもなかった暗堂は、普通に己の進路を決めた。
彼の趣味に喩えて言うならば、車に乗ってアクセルを踏むようなものだった。
ハンドルを柔らかく握って、背筋はそれ以上に柔らかくシートに沈める。
気負うものなど何一つない。目的地を決めてアクセルを踏めばそこに行ける。
そんな、単純な
「えー、暗堂鉄矢と言います。教師に成り立てで、まだまだ未熟な先生だけどこれからよろしくお願いします」
大学卒業後にある中学校へ赴任した。
年頃の生徒たちは手のかかるもので、まるでガラス細工を恐る恐る扱い続けるような仕事だった。
だが、授業の成果が生徒の経験に現れれば我が事のように嬉しいし、生徒が自分を『先生』と呼び慕ってくれるだけで何ともこそばゆい、にじむような喜びがあった。
「先生ー、バスケやろうぜー」
だが、どうしても好きになれないこともあった。
休み時間になって、生徒に声をかけられるとついドキリとしてしまう。
イマドキにしては珍しいだろうか、生徒には活発な子が多く、休み時間になれば積極的に身体を動かす生徒は必ずいた。
内容はその時々で違う。
バスケットボール、バレーボール、卓球、キックベース、等々。
気兼ねなく、一緒に遊ぼうと言ってもらえるのは嬉しかった。
先輩の教員からは、あまり付き合いすぎると友達感覚になって尊敬してもらえないぞ、なんてからかわれたりもする。
生徒と運動に興じるのはとても楽しかった。もちろん加減も必要だが、まるで自分も学生に戻ったような感じがするのだ。これは、何とも言えない楽しさだった。
だが、だが――。
どうしても好きになれないこともあった。
ドッジボールだ。
ドッジボールだけはどうしても好きになれなかった。
小学校の時はいくらでも興じていた遊びだったが、中学に上がった時にケガをしたことがある。
非力な小学生ならば軽い球当て程度だった遊びは、中学生にとっては立派なスポーツだったのだ。
小学生の遊び、その延長線で気軽に臨んだそれで暗堂鉄矢はケガを負った。
それ以来、ドッジボールをやったことはなかった。見るのもイヤだった。
手の平から少し余るほどの球が勢いよく応酬されるのがまるで砲弾のように見えた。
「先生ー、ドッジボールやろうよー」
だから、生徒の口からその言葉を聞くのが恐ろしかった。
自分も大人になった。中学生の投げる球なんて怖いもんじゃない。
そう言い聞かせるように参加したこともあったが、
生徒からは、先生ドッジボール下手だなー、なんて笑われて。自分もそれに拙く笑い返して。
地獄のような時間だ。
断ればいいのだろうが、できる限り生徒とのコミュニケーションの場を維持したいとも思う。
ドッジボールだけ断り続けるのもばつが悪いというものだ。
だから、ドッジボールをしようと言われるのを恐れる日々はずっと、ずっと続いていた。
「こういう時は、やっぱこれだよな」
車を走らせる。それがストレス解消になった。
昔から車が好きだった。見るのも好きだったし、大人になってからは乗るのも楽しみになった。
こつこつと貯めた給料を惜しげもなく使って購入した愛車の値段に、友人知人たちは口を揃えて、すごいなと笑ってくれる。
ドッジボールに誘われて、胸によどみができた時はいつも車に飛び乗るのだ。
アクセルを踏んで目的地もなく愛車を走らせる。
エンジンの振動がたまらなく心地よい。ペダルをじっくりと踏み込む感触なんて痺れるようだ。窓を開ければ吹き込む風も気持ちがいい。
ハンドル一つ、アクセル一つでどこにでも行けてしまいそうな、全能感にも似た高揚が幸せだった。
「――あ、ああ」
だから、初めて人を跳ねてしまった時は凄まじい衝撃だった。
連日、雨が続いていた時期のことだ。屋外で遊べない分、屋内球技に興じる生徒は多く、当然ドッジボールにも誘われた。
その日も腐ったような気分を抱えて車に乗った。
ワイパーでフロントガラスを綺麗にしても、振る雨に視界は狭められる。
とはいえ、それも心地よかった。静かな雨の中で車中はより静かになる。雨粒の音だけを聞きながらのドライブも悪くはなかった。
――ドンッ。
鈍い、芯に響くような衝撃が車を揺らした。
雨で視界は悪く、通行人が見えていなかったのだ。
注意を怠った自分が悪かったのか、信号を無視した通行人が悪かったのか。
車外に飛び出し、雨に打たれながらピクリともしないそれを見下ろしながら、暗堂は自分の心を抑えつけるので精一杯だった。
「ああ――最高だ」
跳ねたのは学生の少年だった。
おそらく中高生。年頃にしては背が高く、肩幅もしっかりしている。スポーツマンだったのだろう。
嫌いな嫌いなドッジボールの憂さを晴らしていた時に、跳ね飛ばしたその少年が、暗堂にはかつての級友にしか見えなかった。
「ざまあみろ、ざまあみろッ。お前が、お前が無神経にあんな球投げさえしな、しな、ければ」
興奮の余りに叫びがこぼれる。自分でも何を言ってるのか分かっていない。ただ、それまでに蓋をし続けていた何かが溢れて止まらなかった。
雨の道路は静かで、周りに見咎める者は誰もいなかった。
ひとしきり笑ってから、暗堂は死体を放置して帰路に着いた。
人を轢き殺すことを最高の趣味とした暗堂は、今日に至るまで一度も気づいていない。
大質量の肉塊と衝突してなお彼の愛車には傷一つ、凹み一つ付いていないことに。
「先生ー、ドッジボールしよー」
世界が変わった気がした。
手こそかかるがカワイイ生徒たち、厳しくも頼もしい同僚たちに囲まれた日常が輝いて見える。
遊びに誘われるのは相変わらず恐ろしいが、それと同じくらい楽しみにもなった。
ドッジボールなんてやりたくない。薄暗い感情が湧き上がる。
ならば仕方がない、とほくそ笑んだ。
車に乗らなければ。走らなければ。だってストレスの解消は大事だろう、と笑ってしまうような言い訳を並べて暗堂は愛車に乗った。
――ぐちゃ。
子供を跳ねた。童女を跳ねた。老人を跳ねた。妊婦を跳ねた。
何度でも繰り返す。何度でも反芻する。
沁みるような、響くような衝撃がたまらない。
基本的には芯のある柔らかさを打つ感触だが、時々にはゼリーをぐしゃりと潰すような場合もある。
偶に、跳ねただけでは物足りず、行過ぎた後にバックして丁寧に轢き殺すのにも独特の楽しさを感じていた。
割かし好むのが交番の前を通り過ぎることだ。
その時には少し速度を落として走る。
眼が合った警官に軽く、お疲れ様ですと会釈しつつ、その脇にある『昨日の交通事故』と表記された掲示に眼をやる。
100を超える負傷者と、1だけの死亡者。
その『1』が己によるものなのだと思うと、ぞくりと背が粟立った。電流となった快感が脳天から脊髄、指先へと全身を甘く痺れさせる。
「お好きですね。ワタシにはよく分かりません」
助手席に腰かけた恋人が、跳ねた被害者を追うように車窓の外へと視線を流すのもいつものことだ。
窓を開けていると流れ込む風にブロンドの髪が揺れて美しい。
思わず見とれていると何かを跳ねていた、などというのもやはりよくあることだった。
恋人が飴玉の包みを窓からほうり捨てる。特に咎めることはない。
強烈な爆発音を後ろに置いて、ドライブを満喫する。
これが暗堂鉄矢の日常となっていた。
「そこのブルーの車、停まりなさい! ブルーの車!」
最近には静かに車を走らせる機会が減っていた。
騒々しい。鬱陶しい。そんな不満は暗堂を愛車へと縛り付ける。ストレスを解消する。
もう一ヶ月は車を降りていない。アクセルを踏み続けている。身体に変調はない。ガソリンメーターもFのままだ。
跳ねる。跳ねる。跳ねて跳ねて跳ねて跳ねる。
轢く。轢く。轢いて轢いて轢いて轢く。
時には走路を邪魔するように
「楽しいなあ、オイ! 楽しいなあ!」
――そして、今日も。
街の中を走り続けていた。
眼が冴えている。意識が醒めている。もっと走りたい、もっと殺したいと全身の
殺して殺して殺して。
「そこまでだよ、
「あーあー、派手にやりやがってまあ」
進路の前に一組の男女が立ちはだかった。
中高生くらいの少女とそれより少し上くらいの青年だった。
エンジンの音と周囲の悲鳴が耳を心地よく掻き乱す中で、暗堂には二人の会話がくっきりと聞こえてしまった。
「で、
「こうやって」
少女が細い手指に持っていたのは、一本のティースプーンだ。
まるで、カフェでコーヒーを楽しんでいたところから直接ここに現れたかのように状況と似つかわしくない。
「そらいけ!」
言って、少女がティースプーンをこちらへと投擲した。
瞬間、底冷えするような悪寒が暗堂を襲った。
それが生命の危機であることも理解しないままに大きくハンドルを切った。
アスファルトとタイヤがこすれて、けたたましい悲鳴を上げる。
車体は激しく振られて、暗堂と恋人の身体を大きく揺さぶる。
強引に進路を変えて、しかし暗堂の眼はスプーンの少女を見失っていない。
だから、視えた。
大きく全身を揺さぶった自動車に対して、投げられたティースプーンは不自然なまでに軌道を変えて車へと向かっていた。
否、それは暗堂へと飛んでいた。
それはたいした音も立てずにドアガラスを
その瞬間、暗堂鉄矢の意識は断ち切――。
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