第14話

 眩しい……、那生が呟くと、雨月の大きな手のひらがそっと両目を覆った。

 「お加減はいかがです?」

 髪を梳く雨月の手は優しく、春を越えようとする季節の午後の日差しよりもまだ穏やかだった。那生は雨月の手元の影の中で、まだ痛む目を軽く閉じた。

 「お前の膝はかたい……」

 那生が言うと、雨月は笑いだした。

 「私の、とおっしゃいますが、他に誰かあなたにこんなことをした人間でもいましたか?」

 雨月が体を震わせると、その振動が那生の頭を伝わってくる。那生は煩いと、雨月に告げた。

 研究室で化合の時に発生したガスを吸い込んだ那生は、雨月に抱えられ、こうして縁側に寝転んでいる。粘膜を少しやられただけで大事はないというのが、二人の共通の見解だったがさすがに気分は悪かった。

 それにしても、と雨月は言う。

 「……珍しいですね。あなたが失敗するなんて」

 咎めるわけでもない。雨月は囁いて、不意に沈黙した。

 竹林を渡る風が音を立てる。

 西に傾いていく陽の柔らかな温もりと、雨月の体温。

 相変わらず陰気な家とは質を異にした甘く官能的な香水。

 雨月がいる……。雨月はそこにいるだけで、確かにこの世界を変える力を持っている。今までそうとは気付かずにいた。しかしこの家に戻ってからさらに、那生は雨月の存在と、彼の持つ空気に……自分がどれほど依存していたかを悟った。

 「初めてお目にかかりましたのも、こちらのお庭でしたね」

 「そうだったか?」

 雨月は、裏庭の寂しげな光景に目を細めているだろうかと、那生は大きな影の内でそっと目を開いた。

 「そうですよ。あなたはまだ四つでしたか……。私を見るなり、お前は誰だとおっしゃいましたね」

 「……覚えていない」

 そんなこともあったかと、那生は雨月の膝にのせていた頭を僅かに動かした。雨月は、懐かしいですねと笑い、

 「あなたの後ろには……今のあなたくらいの如生様がいらして……その後ろに、高見沢がおりましたよ。……あれは、ちょうど今頃でした。温かい日で、あなたは叔父様と遊んでいらっしゃったんでしょう。そこへ私が現われたんです」

 「よく覚えてるな」

 那生の記憶に、そんな光景は残っていない。ただ、雨月がそう語るのであれば、きっと事実なのだろうと思う。

 「雨月?」

 雨月がそっと、那生の手を取った。そして指先を絡め、手の甲に静かに口付ける。

 「初めてお会いした時……あなたは、亡くなった私の妹と同い年でした」

 「妹なんていたのか?」

 それは初めて耳にする話だった。雨月はええ、と応じ

 「もう、二十年以上も前の話ですよ。あなたが生まれる以前の話です」

 ゆっくりと目隠しが外される。暗さに慣れた那生の目は西日さえ拒絶し、眉間にはしわが寄った。それでも雨月は再び主の瞳を覆うことはしなかった。ただ、雨月の手は那生の頬を撫でた。

 「どうして、死んだんだ?」

 目を細めたまま、那生ははっきりとは見えない雨月の顔を見上げた。

 雨月は那生を見下ろし、少しだけ笑ったようだった。

 「那生様」

 握っていた手を離すと、雨月は初めて見るような苦しげな表情を浮かべた。あるいは、那生にはそんな風に見えた。

 「あなたは……生まれてきたことを後悔なさったことがありますか?」

 「どういう意味だ?」

 那生は僅かに目を開け、雨月の表情を読み取ろうとした。しかし、雨月は既にいつもの微笑を取り戻した後だった。

 「ここは、そういう場所だ……」

 「雨月?」

 「……」

 雨月は何も言わず那生に笑いかけ、頬に手の甲で触れる。

 「申し上げましたでしょう。私は、那生様がいらっしゃったから生きることを選んだのだと……。あなたの存在が、私に決断させ、私を生かしたんです。それでも……たった四歳で死んだ妹の生の意味を、自分の生まれた意味を、この家が続いていく意味を、私は、ずっと考えていました」

 本音を口にすることのない雨月の、それは忌憚のない言葉だったか。

 「まだ……死なないで下さい」

 「まだ?」

 ええ、と頷く雨月の眼差しの内には……いつか見た暗い炎が揺れる。華やか過ぎる眼差しの、その翳り。

 「あなたが死んでしまったら……私には、生きる意味がなくなってしまう……」

 雨月はそこまでを低い声で告げ、それからふっと微笑した。

 「エゴですよ。あなたの為じゃない。これは、私が生きる為に必要なことなんです」

 何も言わず、那生は無意識のように雨月の顔へ手を伸べていた。

 柔らかな髪に指先が触れ、やがて温かな頬に手がかかる。

 「生きていく為に、私には理由が必要だ」

 雨月が那生の手を取った。自らに言い聞かせるように告げ、那生の指先をじっと見つめる。

 「どうして?」

 「あなたを愛する為に、あなたを守る為に、私は生まれてきたと、そう申し上げたら……信じてくださいますか?」

 「……」

 問いと答えが、理由と目的がすれ違っている。そう言おうとして、那生は思いとどまった。

 自分に注がれていた雨月の眼差しは、どことも知れない彼方に向かい、自分に開かれていた雨月の心は、どことも知れない彼方で閉ざされた。

 「ねぇ、那生さま……」

 深く煙った雨月の眼差し。強く那生をひきつけて……。

 「私は……」

 「那生様!」

 何かを言いかけた雨月から言葉を奪ったのは、襖の向こうから聞こえてきた乱れた足音と、悲鳴にも似た女の声だった。

 二人は一瞬顔を見合わせたが、雨月は那生の体をゆっくりと助け起こすと

 「どうした?」

 と、襖まで歩み寄り、そう問いかけた。

 「大伯父様が……」

 振り向いた雨月は眉根を寄せていた。那生は雨月の肩を借りて立ち上がり部屋を出た。

 「アナフィラキシーショックですね……」

 大伯父は、母屋と離れの合間、藤棚の下に倒れ込んでいた。濃紺の紬に身を包み、いつもと何ら変わった様子もなかった。ただ一つだけ、あの暗い小さな穴のようだった瞳が、もう二度と開かれないということをのぞきさえすれば。

 雨月は、腫れ上がった大伯父の顔面と首筋、それから手を検分しながら低い声で唸った。

 「以前、蜂に刺されたことは?」

 雨月は周囲に集まった家の者に尋ねたが、誰一人答えられる者はなかった。ただ突然の出来事に皆、なす術もなく狼狽するばかり。

 雨月は厳しい表情で顔を上げ、藤棚を仰いだ。確かに、数匹の蜂が今も忙しく飛び交っている。だが……スズメバチにでも刺されない限り、そう簡単にショック症状など起こさないはずだ。そして那生の目で見る限り、紫の花の下を飛び交うのは小さなミツバチのように思われた。

 「大伯父様は……?」

 誰かが絶望的な声で雨月に問う。

 「……」

 雨月は黙って首を左右に振った。

 誰も何も言えなかった。那生は雨月と大伯父の小さな体をじっと見下ろしていた。

 「まずは中に運びましょう」

 雨月の言葉に使用人たちが動き出す。

 雨月は那生の肩を抱き寄せ、行きましょうと囁いた。



 静かな夜だった。

 大伯父の急逝に揺れた家の中は、いつも以上に静まり返っていた。

 「大丈夫ですか?」

 那生の額に手を触れ、雨月が小声でそうきいた。

 「ああ」

 気だるげに那生が応じると

 「普通の人間なら、今頃大伯父のお隣だったかも知れませんね」

 雨月は不謹慎な冗談を呟いた。

 御雲の当主を継ぐ人間は幼い頃から毒や薬品に触れながら育つ。そのせいでいわゆる劇薬の類にも耐性がつく。勿論それは毒では死なないという意味ではなく、致死量が他の人間よりも多い、ということでしかないが。しかし那生が今回、命を取り留めるどころか軽症で済んだのはこの環境の賜物とも言えた。

 「……雨月」

 どこから漂うのか、那生は雨月の香りに包まれながら、昼下がりの手のひらの影を思い出した。

 「眠れませんか?」

 「ああ……。窓を、開けてくれないか」

 雨月はかしこまりましたと、ベッドから腰を上げた。

 看病をするわけでも、傍らでお悔みや励ましを述べるのでもない。雨月は那生の枕元に静かに侍り、

 「お疲れでしょう」

 那生の髪を一度撫でたきり、その距離を保っていた。

 「……満月ですね」

 独り言か、月明かりの中に雨月は佇む。

 からからと音を立てて開いた窓からは、清涼な、花の香りがした。そしてそれに混じる雨月の香水。那生は額に腕をのせ、雨月が戻るのを黙って待つ。

 「どうなさいました?」

 雨月がベッドに腰掛けながら、那生の顔を覗き込む。

 何のことかと黙っていると、そんなに、と雨月がかすれた声を発した。

 「寂しそうなお顔をなさって……」

 「僕が?」

 思ってもみなかった雨月の言葉に、那生は目を見張る。

 そんなはずあるわけないと……心の中で思い、戸惑う。

 「まさか大伯父様のことでもないでしょう」

 「まさか」

 言った那生の腕をどけ、雨月が額に手を触れる。そして、

 「ああ……あなたの位置からでは、月が見えませんね」

 身を屈めたままで呟く。

 「お前」

 那生は雨月の首筋を見つめながら、ずっと気になっていたことを口にした。

 「何を、つけている?」

 「どういう意味です?」

 不思議そうに顔を上げ、雨月が首を傾げた。

 「いつも、いい香りがする……」

 ああ、と雨月は微笑した。

 「私の香りがお好きですか?」

 髪を撫でる指先からも、雨月の香りが零れてくる……それは錯覚だったか。

 「嫌いじゃない」

 呟いた那生に、雨月は目を細め

 「この香りは、媚薬のようなものなんです」

 吸い込まれるように甘く、しかし優雅な声で、優しく秘密を打ち明ける。

 「あなたを私から離れられなくするんです……。いつでもこの香りに包まれていたいから、あなたは私を求める。いつ、どこにいても、必ず欲しくなる……」

 「……麻薬か?」

 濁っていく意識の中で、不意に閃いた言葉。雨月は、肯定も否定もせず、ただ凄艶な微笑で那生を愚弄した。

 それも、いい……。そんな思いが那生の中に浮かぶ。

 「あなたが笑うのを見たのは、いつ以来でしたか」

 雨月の眼差しの中、自分がどんな表情をしているのか、那生にはわからなかった。

 「笑う?」

 思わずそうきいた那生に、雨月は静かな微笑を返した。

 「無意識ですか?今、微笑んでいらっしゃいますよ」

 「……」

 自分の表情を他人に言い聞かせてもらわなければわからないほど、自分の感情は沈滞していたのだろうか。笑い方がわからないわけでもない。ただ、笑うことがないから笑わないだけだ……。けれど、それを……笑い方がわからないと、人は言うのだろうか。

 夜風が吹き込み、かすかに雨月の髪が揺れた。

 取り込んでいくような香りだと那生は思った。次第に、意識まで飛びそうになる。雨月は、麻薬だといった。それは、あるいは嘘などではないかもしれない。

 ……どうして、雨月がそんなことを?

 そんなことをして何になる……?

 雨月、と無意識に那生の唇が呼んだ。

 「那生さま」

 雨月の乾いた熱い声。

 雨月の乾いた冷たい眼差し。

 雨月は何を思うのか。じっとした眼差しが遠くの灯のように輝いて見える。

 誰より、長い時間をともにしてきた相手。それなのに今もまだ、雨月が何を考えているのか那生にはわからなかった。

 時に愛を囁き、時に忠誠を誓い、時に自分を抱きしめ、そして不意に突き放す。

 雨月には何も求めてはいないし、何も望んではいない。雨月と自分がともにあるのは、それはこの家が決めた役割だからに過ぎない。雨月も、雨月は、誰よりそれを心得ているはずだった。それなのに、どこかで、心のずっと深いところで、何かが騒いでいる。それは、何かを希求する声のようにも思えた。

 眠気と高揚感が、いつもは静まりかえった意識の表層を柔らかな愛撫のようにかき乱す。

 何か、と雨月はゆっくりと口を開いた。無意識の世界へと落ち込んでいく主を見守ることにも飽きたのかも知れない。

 「何か一つだけ願いが叶うなら、あなたは、何を望みますか?」

 唐突な問い。半ば瞼を閉じかけた主の髪を撫でながら、雨月は囁くように問いかける。何を望んだとしても、願いは全て叶えられるというように、静かな自信に満ちた声だった。

 「願い?」

 ええ、彼方から、深淵から返ってくるような雨月の声。

 僕は、と那生が声を震わせる。

 「お前が、知りたい……」

 重たげな瞼を開き、那生が雨月を見上げた。雨月は全てを知り尽くしているかのように、感情のない微笑で口元だけを歪めた。

 本当の望みはもっと、暗いもの。暗くて、残酷で……もっと意味もなく、価値もなく、名もなく。口にすることさえ憚られる。那生は緩慢な動きで髪を撫でていた雨月の手を捉えた。

 「お前は、何故ここにいる?」

 それは、と掴まれた手をゆっくり引きながら雨月は那生に問い返す。

 「何をお尋ねですか?那生様の側近になった理由ですか?今、ここに座っている理由ですか?それとも、私が生まれてきた理由ですか?」

 自分から近づいたのに、雨月はまた離れていこうとする。はぐらかすような微笑みは見慣れたもので、咎める気にもなれない。ただ、どこかで不安になる。

 どうして、我知らず口をついた言葉。雨月はそれに続くはずの那生の声をじっと待つ。この夜は永遠に終わることはない、そう知っているかのように、ゆったりとした沈黙を雨月は守った。

 風が吹き込む。雨月の香りに包まれて、那生には波のような眠気が押し寄せる。

 「どうして、逃げる?」

 僕から……、僅かに伸べた手が雨月に届くことはなかった。雨月は微かに目を細め、自分に向けられた手を取ることもない。重たげに落ちていく瞼。その向こうに何もかも見透かす力強い眼差しが、地平に沈む太陽のように消えていく。夜の中でさえ、夏の残照のように目を射る強い輝き。だからですよ、と雨月の唇からは掠れた声が漏れる。

 「あなたには、わからないでしょ?あなたは、強い人間だから……」

 那生は特殊な境遇で生きることを運命づけられてはいるが、決して虐げられたり、傷めつけられたりしながら育った少年ではなかった。

 その年齢で肉親を毒殺し、その悪習の為に親もなく、それでも惑わず立ち止まることもなく、真っ直ぐに生き続けている。闇のような歴史を持つ一族を担い、それでも逃げようともしない。そして、押しつぶされることもないのだろう。

 一族の持つ強大な力の内に、自らが生かされていることを、那生がどれだけ理解しているのかはわからない。けれど自分を守り、捉えるその力にも、那生は臆することがない。生かされていることへの卑屈さも媚もない。

 那生に捧げたいのは、偽りの愛の言葉ではなく、心からの敬意。それさえ自分に許すことができないほど、自分は卑屈で弱い。那生は、無意識にそれを見抜いている。

 「逃げる以外、私に何ができますか?」

 柔らかな笑みを浮かべた雨月の言葉が那生に届くことはない。深い眠りの内にある主の静かな寝息を聞きながら、雨月はゆっくりと立ち上がった。

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