第13話
今は亡き主が生まれた日、高見沢は許しを請い、屋敷の裏山にある墓前へ参った。
御雲という一族の墓が、そこには並んでいる。どの墓石にも何も彫られてはいない。かつてこの場所を管理していた寺も今は、朽ちかけた本堂を残すばかりとなっている。
竹林を吹きすぎる風。振り向けばそこに、懐かしく愛しい面影が佇んでいるのではないか。そんな夢想を抱きながら背後を振り向いても、そこには何もない。わかっていながら、何かを願うのは、人の悲しい性なのだろうか。
初めて出会った日、高見沢には、彼が主となるべき人と、すぐにはわからなかった。
今は冷たく硬い鉱物の下に眠るかの人の微笑みを、これほど寒々とした場所のどこに見出せばいいのか。高見沢は一つの墓石の元に跪いて、目を閉じた。如生との出会いを、その日を忘れることなど生涯ないだろう。
人気のない部屋を見回し、高見沢はゆっくりと立ち上がった。庭に面した縁側へ導かれるように進む。
芽吹いたばかりの木々が、香り立つ程に青々としていた。
誘われるように縁側のガラス戸を開けると、木の陰に何かが揺れた。
思わず濡れ縁から身を乗り出した高見沢の目に映ったのは、今まで見たこともないほど美しい少年だった。
白磁を思わせる肌、漆黒の髪は艶やかに。目じりと頬を微かに朱に染めて、少年は泣いていたのだった。
立ち上がりながら振り向いたのだろう。不自然な姿勢で高見沢を見つめている。制服なのか、白いシャツに黒のパンツを身につけていた。
「大丈夫、ですか?」
高見沢はそう言葉を発した。
「はい」
少年は相手に敵意がないことを感じ取ったか、いくらか落ち着いた様子で高見沢に対峙した。そっと両手を払って、手の甲で頬を拭った。
「何かありましたか?」
高見沢の言葉に、少年は躊躇いがちに口を開いた。
「スズメが、ガラスに当たって死んでしまったので」
そう言った少年の足元を見れば、小さな山がある。
「それで墓を?」
少年は、はいと頷いた。
「泣いているのを見つかると、叱られてしまいますから」
年齢に不相応な落ち着いた口調に、物腰。気品とでも言うのだろうか、少年の清らかで威厳ある雰囲気に高見沢は圧倒されていた。
「あなたは?」
少年は警戒心のない、しかし凛とした声で誰何を問う。
高見沢は居住まいを正す思いで、ゆっくりと口を開いた。
「高見沢と申します。こちらにいらっしゃる、ある方のお世話をさせて頂く為に参りました」
少年は高見沢の言葉に何か思い当たることがあったのか、くっきりとした目を微かに見開いた。
桃の花のような唇が、言葉を形作ろうと震える。
高見沢はそれを、神秘的な光景を目の当たりにしているかのように、厳かな気持ちで見守った。
「如生様、こちらにいらっしゃいましたか」
前庭から回り込んできたのか、如生が佇んでいたのとは反対側の垣根の方から、高見沢をこの部屋まで案内してきた使用人が姿を見せた。
「ああ、すまない」
この少年が、と高見沢は今度こそ目を見張った。
その名を聞けば間違いない。いささか傲慢とも聞こえる口調で応じた少年が、高見沢の主となるべき人だった。
「これは……大変な失礼を」
咄嗟にその場に膝を着いた高見沢に、如生はいいえと穏やかに首を振る。
「私こそ、お客様を奥の間にお通しすることはないのに……もっと早く気付くべきでした」
足音は聞こえない。如生はゆっくりと高見沢の元に歩を進め、縁側に腰を下ろす。
間近に仰いだ瞳の、痛々しい程の清らかさを、忘れることはないだろうと、高見沢は打たれるような思いで如生を見つめた。泣き跡が、白い目じりに微かな朱を添えている。
親を知らずに育ち、高校卒業とともに施設を出た時、まさか住み込みの仕事をしながら大学にまで通えるとは思ってもいなかった。どんな曰くつきの屋敷に勤めることになるにせよ、それは奇跡のような幸運だと、そう思ってさえいたが。奇跡は、自分の前に、人の形をとって現れた。目前に微笑むその人こそ、自分が仕えるべくして出会った人間と高見沢は唐突に感じた。それはまるで神託のようでさえあった。この身を滅して、全てを捧げることを自身に誓った時、高見沢は無意識にその人に深く頭を垂れていた。
その瞬間、自分の主と、全てとなった少年は、よろしく、と厳かにも聞こえる涼やかな声を震わせた。
御雲の家が背負う因縁を知ったのは、それから間もなくだった。まだ幼さを残す主人が研究している物が、殺人にしか用いられることのない毒薬だと知った時の衝撃。それでも、如生から離れる気にはならなかった。例えそんな気を起こしたとしても、御雲の家がそれを許さないということは、わかっていた。しかし、如生との出会いの日に生まれた使命感は、既に、自分を生かし、突き動かす力となっていた。
小鳥の死にさえ涙する少年が、見ず知らずとはいえ他人の死を、自分が招く他人の死を、容易に受け入れているとは思えなかった。如生が受け止めているのは、ただその宿命だと、そう悟ったのはいつだったか。
「雪が降りそうだな」
中庭に向いた窓を眺めながら如生がため息のような声で呟いた。高見沢は主の声に顔を上げ、静かな眼差しを暗い庭に注いだ。
「……ホワイトクリスマス、か」
不意に微笑みながら振り向いた如生と目があった。高見沢は主の口から聞いた言葉がひどく唐突で意外なものに思えて一瞬の間、主人の瞳を見返した。
「どうした?知らないのか?」
「いえ……」
まさかご存知とは、と応じるわけにもいかず高見沢はそっと視線を外した。
如生は小さく笑って、再び外に目をやった。
山奥の深々とした夜には、世界の音も届かない。
「あの子は」
そう、ため息がちに如生は言った。
「何を、しているのかな……。雨月も……職務を怠っているとは思えないが……。いずれは、ここを出る気かも知れないね」
「如生様」
感傷的にも聞こえる如生の声に、高見沢は労わりの眼差しを向ける。ほっそりとした浴衣の背中が、光のない夜の内に消えていきそうに儚い。
床をのべ終わった高見沢は主の傍まで膝行し、わずかに首を傾けたまま中庭に見入る姿を背後から見守った。
面白いものがあるわけでもないだろうに、如生は飽くことなく暗い景色を眺めていた。
「お寒いでしょう」
薄い布一枚に覆われた背中にふと寒気を覚え、高見沢は傍らの羽織を主の背にかけた。
「ありがとう」
蝋のように白い指先で自らの肩口を押さえた如生が、高見沢を振り向いて微笑んだ。
花のようにも雪のようにも例えられる如生の儚い美しさには、白いという形容が相応しかった。冷たく、痛々しいほど澄んだ白の、潔い哀しさ。宿命を従容と受け入れる如生の、繊細な神経の痙攣を、高見沢は誰より近くで見つめ続けてきた。
壊れそうな体と魂をこの腕に抱きとりたいと切望するのは常のことで、今さら言葉にすることは憚られた。狂おしい愛しさを伝えることは、ない。今までになければ、これからもないだろう。
これほど傍にありながら触れ合うことは叶わない。それでも、ただ……必要とされることは至上の喜びだった。
「……雪」
不意に呟いた主の声に表を見れば、暗い空からはちらちらと白いものが舞い始めていた。
「雪だ……」
繰り返した如生は、ゆっくりと高見沢を振り向いて、外に出たいと、子どものような目をして笑った。
仕方ないなと苦笑して、高見沢は如生の手を取り立ち上がる。
縁側から外に出ると、雪は先ほどよりも激しく降り出した。
「如生さま」
宙に手を伸べた如生の肩から音もなく羽織が滑る。高見沢の手が捉え、再び如生の体を覆うと、如生はゆっくりと伸べていた手を下ろした。
「街は、賑やかなんだろうね」
白く霧散すると息が、雪の一片を消し去った。
高見沢は如生の肩を両手で包み込んだまま、暗い空からの使者を見つめた。
「祝福された存在というのはいいな」
「如生様?」
不意の言葉に驚いて主を見つめたが、如生は果てしない黒と白のコントラストに目を奪われているようだった。悲壮感はなく、ただ穏やかな表情だった。
「誕生を、寿がれるというのは……一体、どんな気持ちなんだろうね」
従者の胸に体重を預けるようにして、主人は頭一つ分上にある顔を見上げる。
「……」
主従は黙って見詰め合った。その時主人の長いまつげに触れた雪が解けることなく留まった。従者がそっと手指を伸べると、主は軽く目を閉じた。
指先に触れ、一滴の雫となった雪を、高見沢は見つめた。如生はまだ目を閉じている。白い頬に触れたいと、紅い唇に触れたいと、傍で見つめる度に激しさを増す願いが、また頭をもたげた。
「理解できないな……」
言いながら目を開いた如生の言葉に、高見沢は全てを見透かされているのかと、一瞬体を強ばらせた。
しかし、如生は穏やかだった。
「聖なる夜、なんて……私には遠い異国の幻想だ」
「如生様」
この雪さえも、彼の存在の誕生を祝福しているのだろうか。如生はそんなことを呟いて、小さく震えた。
毒は、と吐息のような声で如生は呟いた。
「知っているか?毒は、美しいんだ。私たちは物心つかないうちから、蔵の中でいろいろな物を見る。毒をもつ動物や植物の標本、極彩色の液体、生き物のように細胞を殺していく毒の作用を顕微鏡越しに見せられて、眠る前にはおとぎ話の代わりに、クレオパトラやモーツァルト、シェイクスピアに出てくるような毒にまつわる話を聞かされる。私には確かに充分だった。気がついた時には研究に夢中になっていた」
毒は、内側から静かに体内へまわっていく。ゆっくりと、しかし確実にひとつひとつ細胞を殺しながら、やがて一つの機能を奪う。ただ一つ、その機能を失うだけで、内部からの崩壊は一気に進み、もはや外側からも内側からも、押し留め、立て直す術はなくなる。後は、ただ見守るしかない。いくら外側を堅固に守ったとしても、内側の結束がどれ程強かったとしても、中からの浸食は防ぎようがない。毒の本当の恐ろしさはそこにあった。
「それが何の目的で存在しているものであっても、純粋な好奇心にとっては意味がない。必死に追い求めて、突き詰めて、本当はそれだけなのに。何故、人を救う為に、助ける為に、その知識を生かせないのかと何度も思った。それなのに、御雲の人間は、毒に魅せられる。罪悪感さえ置き忘れる。御雲の人間に流れているのは、血液じゃない。毒だろうと、私は思う。……汚れた、一族だ。その長が……今は私だということを、これでも、たまには思い出す。それで、何かを変えられるわけでもないのに」
如生の遠い眼差しは過去の情景を望んでいるのだろうか。高見沢は如生の言葉に返事はせず、微かに目を細めた。
「……寒くなってきたね。入ろうか」
「あなたは」
「潤一郎?」
不意に自分の前に跪いた従者に瞠目し、如生は瞳を揺らした。
「私にとって、誰より聖なる存在です」
主の白い手を取り、頭上に頂く。頭を垂れ、目を閉じたその姿は、悠久の祈りに身を捧げる人間のもののようだった。
「……誰より、私は穢れた存在だ」
「如生様」
悲鳴のような声をもって主を仰いだ高見沢の目に、雪に包まれた主は神々しく美しい絶対の存在として映る。
「それでも……お前が与えてくれる祝福なら、喜んで受けよう」
ありがとうと、主人は微笑んで、従者の手を導いた。
あれが、最後の冬だった。春を待たずにこの世界から消えた人との、最後の冬の景色。
ゆっくりと目を開ければ、悲しくも愛おしい気配は絶え、共に並び立った冬の夜の庭よりも、寒々とした景色が目前に広がる。
黒々とした墓石に指先をかける。ひんやりとして固く、どんな記憶の気配さえ感じ取らせはしない。これが、今の主の体温なのか。
「如生さま……」
願いのように、呪いのように、消え入りそうな声で高見沢は主人の名を呼んだ。
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