第5話
外傷自体致命的な物ではなかったにも関わらず、亜里栖が目覚めたのは二日後の明け方だった。
「おはようございます」
目覚めた亜里栖に晴治はそう声をかけた。亜里栖は驚いたようにベッドに上体を起こし晴治を凝視した。
「お帰りなさい。貴方が、帰ってきてくれて、僕は嬉しいです」
「先生?」
亜里栖は自分の置かれた状況がわからないというように室内を見回した。そして首を動かした痛みによって、自らが科した傷を思い出したようだった。
わたし、と首筋に巻かれた包帯に触れながら亜里栖は微かに俯いた。
「よく、一人で頑張ってきましたね」
「え?」
晴治の言葉に亜里栖が顔を上げる。その青ざめた唇が微かに震えていた。
「貴方は優しい人だから。自分で全て守ろうとしたんですね。自分を犠牲にして、大切な人たちを必死に守ってきた。でも、もう充分です。貴方が守ってきた人たちがこれからは、きっと貴方のことを守ってくれます。だから、もう一人で耐えなくていい。全部一人で解決しようとしなくていいんです。貴方はただ、大切な人たちと一緒に、ゆっくり生きていけばいい。それだけのことです」
顔を伏せた亜里栖。
「亜里栖さん、僕と一緒に、あの家に戻ってもらえないでしょうか?」
「……」
戸惑いなのか、躊躇いなのか、静かな拒絶なのか、亜里栖は晴治の問いに沈黙を守った。
「僕には、貴方と真利亜さんにどうしてもお伝えしなければいけないことがあります。僕が長崎に来たのも、お二人に出会ったのも、きっとこの為だったのではないかと、思っているくらいなんです」
「どういう、意味です?」
かすれた声で亜里栖はきいた。怯えたような眼差しが、震えているように晴治には思えた。
「僕たちは、お伽の国では生きていけません。痛みも苦しみも悲しみもある、この世界でしか生きていけない」
亜里栖さん、晴治は呼びかけ、汚れないような美しい瞳をじっと見つめた。
「この世界には、汚い部分もあるし、残酷な部分もある。それでも僕は、この世界のほとんどは、美しいものだと思っています。亜里栖さんは、それを知っていたから、その美しい景色を守りたかったんじゃないですか?」
「そんなこと……」
「亜里栖さんの考えていた通りです。貴方の世界は、貴方がご両親や真利亜さんと生きていた世界は、美しいものでした。僕は、貴方が見落とした世界の真実を、どうしても伝えたいんです」
長い長い沈黙の後、帰りましょうと晴治が言った。同じくらい長い長い沈黙の後で、亜里栖は微かに頷いた。
応接間に集まったのは、双子の姉妹と矢崎、天と晴治だった。初めてこの場所を訪れた日と同じように、蓄音機からは柔らかく曇ったピアノの音が流れていた。
「ショパンの、別れのワルツですね。この曲が、お好きなんですか?」
姉妹の正面のソファに腰掛けていた晴治は穏やかな表情で二人のどちらにともなく語りかけた。
「生前、母が好きだったもので……子どもの頃からよく流れていました」
そう答えた真利亜に亜里栖は頷くように目を伏せた。
「そうでしたか。美しい曲です。初めてお邪魔した時にもこの曲が迎えてくれましたよ」
ね、と晴治に顔を向けられ、天はとりあえず頷いた。確かに、初めてこの屋敷を訪れた時にもかかっていた気はするが、それが誰の何という曲なのかは知らなかった。
「母と叔父が、この部屋で、たまにふざけて踊っていたんです」
「ワルツを、ですか?」
ええ、と真利亜は懐かしそうに頷いた。
「私と亜里栖も、母たちの真似をして……四人で。今思えば、楽しい思い出です……」
悲しみの内に、伏せられていく美しい眼差し。地平に消えていく残照の見守る思いで、天は真利亜の消えた笑みを探した。
「この曲については、ご存知ですか?」
「え?」
何を言い出すのかと、天までも晴治を見つめた。晴治はどこか嬉しそうに頷くと、姉妹に向ってゆっくりと語りかけた。
「この曲は、ショパンが、結ばれることのなかった恋人の為に作ったワルツなんです。彼の生前は、ショパンと彼女、二人だけの秘密の曲だったそうです」
「そんな曲だったなんて、知りませんでした……」
「ロマンチックな話ですよね。どうやら彼女が、ショパンの生涯を通じ、最愛の人だったようです」
今、その雑学必要?と天は一瞬だけ思ったが、晴治には何か言いたいことがあるらしい。晴治はその場の空気が固まる前にゆっくり口を開いた。
「初めに、お伝えしておきます。誰も、自分の愛する人を、殺してなんていなかったんです」
「え?」
その場に居合わせた全員が驚いたように晴治を見つめた。
「まず、宗真さんについては、真利亜さんや矢崎さんがご存じの通り、残念ながら小児白血病による病死でした。宗真さんは、秋宗さんの事故死の翌日、矢崎家へ引き取られています。これは、千秋さんではなく、秋宗さんの意向でした。秋宗さんが事故に遭われたのは、矢崎家に宗真さんを養子として迎えてもらえるよう、お願いに行った帰りです」
そんな、と呟いた亜里栖に晴治は優しく頷いた。
「ご家族が続けていなくなったんです。しかも亜里栖さんは、お母様が宗真さんを傷つけるのではないかと、ずっと心配していた。ですから、そうした記憶の錯誤が起こりやすい状態だったと言えます」
多感なお子さんにはよくあるんです、と晴治は学者らしい顔つきで付け加えた。
「それから秋宗さんは確かに事故死されていますが、事故の直接の原因は、心臓発作を起こされたことだったようです」
「え?」
「以前亜里栖さんから、秋宗さんのお話を伺いました。その時、いつも缶に入ったミントタブレットのような物を持ち歩いていたと。当時は今ほど一般的な物ではなかったですし、何より、可愛くてたまらないはずの娘にねだられても絶対にあげなかったというところが、少し気になりました。そこで、その缶に入った物が、キャンディーではなく、薬だったのではと思ったのです。秋宗さんのかかりつけは、大学病院だったそうですね。つまり、今回僕が、夏期講座を任せて頂いた大学の、附属病院です。なので、少々無理を言って秋宗さんの病状を調べて頂きました。子どもの頃から、狭心症の発作を患っていらっしゃったようです」
「それじゃぁ……」
ええ、と晴治はゆっくり頷いた。
「秋宗さんが持ち歩いていたのは、狭心症の発作を抑える為の薬です。お母様が車に細工をした、というのは、ただの思い込みです。それに、もし事故を起こすほどの細工が車にされていたとすれば、警察が見逃すはずがありません」
誰も何も言えない沈黙が流れる。ワルツの優しい調べが、古い洋館の中に柔らかな陽光のように満ちる。
真利亜と亜里栖はよく似た姿勢で微かに俯いていた。
「お母様は、叔父様を、とても愛していたのだと思います。それに、真利亜さん、亜里栖さん、貴方がた、お二人のことも、とても」
真利亜と亜里栖が同時に顔を上げる。瓜二つな愛らしい顔に見つめられ、晴治は少しだけ微笑んだ。
「それに、叔父様……お父様も、お母様をとても愛していたと思いますよ」
だから、と晴治は静かに言葉を続けた。
「宗真さんを、矢崎さんの家に託されたんだと思います。お母様をこれ以上追い詰めない為に。それに、宗真さんをこれ以上、傷つけることのないように。苦渋の、選択だったのではないでしょうか」
でも、突然そう声を上げたのは亜里栖だった。不安げに傍らの真利亜が妹を見守る。
でも、と亜里栖は繰り返した。
「私は、母を殺しました」
最後は消え入るような声で、俯いた亜里栖の瞳から滴が落ちる。真利亜が労わるようにその肩を撫でた。
「真利亜さんは、お母様が病院へ運ばれた日、お母様の水差しを、納屋で見たとおっしゃいましたね」
「ええ。確かに」
「それには、貴方が入れた農薬が入っていた。亜里栖さん、それで、あっていますか?」
はい、亜里栖は、微かな声でそう呟いた。誰も驚く者はいなかった。
「水差しは、いつも通り、お母様の部屋にあったのですよね?」
「そうです」
亜里栖は俯いたままに、けれどはっきりと頷いた。
「お母様は中に入っているのが水ではないことに気が付いた時、それが誰の仕業であるかも、気付いたのではないかと思います」
亜里栖が青ざめた顔で晴治を見た。
「すみません、言葉足らずでした。恐らく、それが真利亜さんか亜里栖さん、または二人が相談してやったことだと思ったかも知れません。ただ、自分の娘が、水に毒を入れたということに気付いたんだと思います。同時に、何故そんな真似をしたのかということも、わかったのだと思います」
どうして、と声を上げたのは亜里栖だった。晴治は頷き、真利亜と亜里栖の顔を順に見た。
「毒の入った水差しを、納屋まで持って行ったのは何故だと思いますか?部屋にそんなものが残っていれば、他殺が疑われる。けれど、自ら命を絶った場所にそれがあったとしても、殺人が疑われることはまずないでしょう。水差しをそのまま床に置いておいたのは、中身は飲まなかったということを、犯人に伝える為だったと思います。この毒で、命を落としたわけではないと、千秋さんは言いたかったのではないでしょうか」
そんな、と声を震わせた亜里栖が震える手で口元を覆った。
「除草剤や農薬には、独特の臭いや味があります。多少水で薄めたところで、大人が致死量を気付かずに飲んでしまうということはありえません。だから、例え千秋さんが水差しの水を飲んでいたとしても、それで命を落とすことはなかったはずです。お母様が、息を引き取られたのも、大学病院だったそうですね。今さら、こんなことをお二人にお伝えするのは、残酷なことだとは思いますが……お母様の死因は薬物によるものではなく、別の方法による自死だったそうです」
「……」
誰も、と晴治は静かな声で続けた。
「心から愛する人の死など、望むわけがないんです。お母様とお父様は、確かに世間から認められるようなことは、なかったかも知れません。それでも、とてもお互いを愛して、大切に思っていらっしゃったんだと思います。その感情は、とても尊いものだと僕は思います。加害者も犯人も、お二人のご家族の中にはいなかったんですよ。愛した人を守りたくて、幸せにしたくて、それぞれがもがいていただけだと僕は思います」
いつしか終わったワルツの調べ。押し殺した嗚咽がどちらのものなのか、天には区別が付かなかった。
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