第4話

 「矢崎さんの、下のお名前です」

 「いえ……違います。ですが、どうしてその名前を?」

 「千秋、秋宗、宗真、真利亜、亜里栖、秋宗さんの長子には宗という字が付き、真利亜さんの上の兄弟には、真という字が付くはず。繋げると、宗真、恐らく男性でしょう。僕はもしかしたら貴方が宗真さんなのではないかと思っていました」

 矢崎は驚いたように、いえと首を横に振るだけだった。

 「宗真さんを、ご存知ですね」

 「……」

 追い詰めるわけでもない。ただ静かに確かめる晴治の微笑みに、矢崎は動揺を隠せなかった。そして、一度大きく息を吸い込むと、肩の力を抜き、ゆっくりと口を開いた。

 「宗真は、私の弟でした。血の繋がりはありませんでしたが……津田家から養子として引き取られたんです」

 「なるほど……そういうことでしたか。御兄弟にしては、亜里栖さんたちとお顔が全く似ていないので、確信が持てずにいたのですが……宗真さんのお兄様だったんですね」

 晴治は一人納得したように何度か軽く頷いた。

 「僕の聞き違いでなければ、弟でした、とおっしゃいましたよね?宗真さんは今、どちらにいらっしゃるんですか?」

 晴治に問われ、矢崎は悲しげに首を左右に振った。

 「宗真は、亡くなりました。小児白血病を発症して……まだ、十代だったんですが。もう何年も前の話です」

 「そうでしたか。辛いことを伺ってしまいました。申し訳ありません」

 天は晴治が何を言っているのか理解しようと頭をフルに働かせたが、どうしても追いつくことができない。真利亜と亜里栖の兄は死んだと、先程亜里栖は話していた。しかし矢崎は宗真の養子先の兄で、弟は病気で亡くなったという。これは、どういうことなのか。叔父に説明を求めようと天が顔を向けたが、晴治は一人納得したような表情でティーカップを手に取った。

 軽いノックに続き、ドアが開くと、真利亜の手を引いた亜里栖が現れた。同じ顔、同じ髪、同じワンピースの二人は、見分けがつかないほどよく似ていた。しかしその表情を見れば、天にもどちらが真利亜でどちらが亜里栖なのかはすぐにわかった。気品と威厳を漂わせる亜里栖と、その背後で怯えたような目を晴治たちに向ける真利亜。真利亜はソファの傍まで来ると、亜里栖の手を軽く振り払い

 「その人、嫌」

 矢崎の背に隠れるようにしながら、子どものような口調ではそう言った。

 「エルヴィンが来ますからご安心下さい」

 矢崎が宥めるように真利亜に声をかける。

 亜里栖は少しだけ嫌そうな顔をしたが、部屋を出て行く矢崎を止めはしなかった。

 矢崎が連れてきた黒猫を腕に抱くと、真利亜は大人しく晴治の向かいのソファに腰を下ろした。

 「それでは、少し真利亜さんと二人でお話させて下さい。君も外してくれますね」

 晴治は天を見て頷いた。それぞれ気がかりなことがある様子ではあったが、亜里栖、矢崎、天の三人は晴治の言葉に従い、ドアに向う。

 「そうだ、天くん」

 三人の一番後ろにいた天を呼び止め、晴治はその腕を引いて自分の方へ引き寄せ押し殺した声で短く告げる。

 「亜里栖さんから離れないで下さい」

 「え?」

 「頼みましたよ」

 あっさりと天の腕を放すと、晴治はその肩をぽんと叩いた。これ以上聞いてはいけないのだと判断し、天は頷いて今度こそ部屋を出た。

 ドアが閉まるのを見届けてから、晴治は真利亜の対面に再び腰を下ろした。

 さて、とどこかおどけた口調で自分に笑いかけた晴治を、真利亜は真っ直ぐに見詰めた。

 その瞳には怯えも動揺も、迷いさえなかった。

 「どうして、お伽の国から戻ってこようと思ったんですか?」

 ゆっくりと晴治が問いかける。

 「引き出しの家系図、ご覧になったんですよね?あれは、家にあった本物を元に私と矢崎さんで作った物でした」

 亜里栖によく似た声。よく似た表情。けれど亜里栖の瞳にはなかった悲しみの影が深くその眼差しに漂っている。

 「私の存在に気付いて、この世界の歪みに気付いて下さる方が現れるのを待っていました」

 「やはり……ここは別の世界ですか?」

 「ここは、亜里栖の世界です」

 真利亜は頷いて腕の中の猫の背を優しく撫でた。

 「どこまでご存知ですか?」

 「そうですね。宗真さんは矢崎家へ引き取られた後に病死されたこと、宗真さんを好きだったのは貴方ではなく、亜里栖さんの方だったこと……それから、お母様に毒を飲ませようとしたのも亜里栖さんだったこと、くらいでしょうか」

 「さっき矢崎さんが、エルヴィンが来ますから安心して下さい、と言ったのを聞いていらっしゃいましたか?全て話してもいい相手が現れた時の、合言葉だったんです」

 「そうでしたか」

 「エルヴィンを、一番可愛がっていたのは、叔父ではなく、兄でした」

 「宗真さんが?」

 ええ、真利亜は猫のあごの辺りを指先で軽く掻いた。

 「叔父は、兄をとても可愛がっていました。勿論、母には秘密でしたが、私たちは、四人でよく遊びました。物理の話も、叔父がそんな時にしてくれたんです。シュレーディンガーの猫の話、当時は難しくてよくわからなかったし、残酷な怖い話だと思っていたんですが、兄だけは、叔父の言うことを理解していたようでした」

 「なるほど。亜里栖さんは、昔から猫がお嫌いだったんですか?」

 「いえ。叔父と、兄がいなくなってからです。亜里栖の世界が、私たちの世界と、少しずつ変わり始めた頃から、エリーを避けるようになりました。何故かは、私にもわかりませんが」

 「そうですか……。動物は、思い通りになりませんからね」

 晴治の言葉に、真利亜はどういう意味ですかと問い返した。

 「真利亜さんや、このお屋敷の方々はきっと、亜里栖さんの望むように振舞って下さるのでしょうが、動物はそうはいきません。もしかするとエルヴィンが、亜里栖さんの世界を壊してしまうような何かを、持っていたのかも知れませんね」

 「確かに……そうかも、知れませんね。亜里栖の世界を守る為には、私たちは役割を守らなければいけなかったんです。あの子の世界で矛盾が生じないようにするには、本人の記憶を書き換えるだけでは不十分だった。過去だけじゃなくて、今という時間も、これからの時間も全て、過去と辻褄が合う物語でなければいけなかったんだと思います」

 「それで、真利亜さんは正気を失ったふりを?」

 「姉は病気だから、おかしなことばかりして、おかしなことばかり言うと、亜里栖はそう思っていました。それなら、私が何をいってもあの子の世界は傷つかない。それに、私自身も楽でした。家からは出られませんがある程度の自由は許してもらえますから」

 なるほど、と頷くと晴治はしばらく黙りこんだ。あの、と真利亜が控え目に声をかけると穏やかな笑みを返す。

 「いくつか、確認させて下さい」

 「はい」

 「まず、叔父様が亡くなったのは、事故ということで間違いないでしょうか?」

 「ええ。それは確かです。亜里栖は母が車に細工したと思っているようですが、そこはわかりません。ただ、珍しくひどい言い争いをしていて、その後叔父が事故死を遂げたのは事実です」

 「わかりました。次に、宗真さんのことです」

 「兄の名は、矢崎さんから?」

 「ええ。そんなところです。それで、宗真さんは、秋宗さんが亡くなった次の日に、養子として矢崎家へ入られたということで間違いないですか?」

 「はい。矢崎さんからもそうきいていますし、いなくなってしばらくしてから、私は兄から手紙を受け取りました」

 「お兄様とはずっと手紙でやり取りをされていたんですか?」

 晴治の問いに、真利亜は悲しげに首を横に振った。

 「中学を卒業する頃には、家の外にほとんど出られなくなっていましたから。亜里栖にはもう、何が本当のことで、何が自分の空想なのか、わからなくなっていたんです。兄は、母に殺された、亜里栖にとってはそれが真実でした。だから、私が兄へ書いた手紙を見つけた時にはとても怒って……手紙を破り捨ててしまいました」

 「怒って、というのは?」

 「私が、おかしくなってしまったと思ったんでしょう。こんな手紙、届く訳がない、そう言っていました」

 そこまで言うと、真利亜は少しだけ唇を噛んだ。

 「どうすればいいのか、わからなかったんです。私はずっと兄に亜里栖のことを相談していました。兄は、いつかきっと家に帰ってくる、そうしたらきっと亜里栖も元に戻ると、よくそう書いていました。ですが、高校三年生の時、白血病で亡くなってしまったんです……。兄の死後、私との手紙を見つけたのが、矢崎さんでした。兄からの返信も途絶えて、絶望的な毎日を過ごしていた時、矢崎さんが新しい執事としてうちにやってきました。それでも、矢崎さんでも、亜里栖を連れ戻すことができなくて……彼も結局、彼女の世界の住人としてこの屋敷に留まっています」

 静かに頷く晴治に亜里栖は真剣な眼差しを向けた。

 「先生が、うちにいらっしゃると聞いて、これが最初で最後のチャンスかも知れないと思いました。亜里栖に悟られないように、どうしても先生に気付かれたくて、必死でした」

 「そんな風に思って頂けることは光栄ですが……なかなか難しい状況ですね……」

 真利亜の目に不安が過る前に、ですが、と晴治は言った。

 「このままというわけにはいきません。ああ、それと、もう一つ。お母様が亡くなった日のことは覚えていらっしゃいますか?」

 「ええ。叔父が亡くなって数日した頃でした。納屋で死んでいる母をメイドが見つけて、警察の方がたくさん来ました」

 「納屋ですか?」

 はい、と真利亜は確信を込めて頷いた。

 「中は、ご覧になりましたか?」

 真利亜は黙って首を横に振った。

 「ただ……母の姿は見えませんでしたが、納屋の床に、いつも母が寝室で使っていたガラスの水差しがありました。どうしてそんな物があの場所にあったのか……あの時はわかりませんでしたが」

 「床に、転がっていた、ということですか?」

 「いえ。置いてあった、という感じでした。中身もいつも通り入っていて、どうしてこんなところにあるんだろうと、子ども心にも不思議でした」

 なるほど、と晴治は二度頷いた。

 「先生?」

 「辛い思い出をお話下さってありがとうございます。僕は真利亜さんの勇気と優しさに、心から敬意を表します」

 「そんな」

 「叔父さん!」

 突然のノックに二人は揃ってドアを見た。

 「亜里栖さんが、いなくなった」

 部屋に飛び込んできた天は息を切らしながらそう言った。

 「いつです?」

 「五分くらい前。お手洗いに行くって、そのまま戻らなくて……」

 遠くで、何か大きな物音がした。三人は反射的に庭の方を見る。

 「亜里栖」

 膝から黒猫が飛び降りると、真利亜は庭に面したガラス戸から外に走り出て行った。真利亜を追って部屋から出た二人は片方だけ残された女性物の靴に気が付いた。

 「亜里栖、何をしてるの!?」

 納屋に収納されていたのか、大きなステンドグラスが粉々に砕け散っていた。ユリと天使の絵柄だけが天にも辛うじて判別できた。

 その破片と思しき物を握りしめた亜里栖が床に散らばったガラスの中心に立っていた。靴を履いていない方の足からは出血しているようだった。

 「ここじゃないの」

 かすれた声で亜里栖はそう言った。

 「ここじゃないの。わたしの世界は、ここじゃない」

 「亜里栖さん、落ち着いて。手に持っている物を僕に下さい」

 晴治は穏やかに見える表情で、腕を広げながら亜里栖に歩み寄る。

 「ダメ。わたし、ここにいたくないの。この家にも、この世界にも」

 亜里栖が首筋にあてた色ガラスの欠片に光が走る。

 「亜里栖さん、ダメです!止めなさい!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 亜里栖の白いワンピースに真っ赤なバラの花びらが降りかかるのを天は見た。晴治は素早く亜里栖の身体を支え、赤く染まっていく首筋を手の平で押えた。

 「亜里栖!」

 真利亜が叫んだ。

 「タオルを早く!救急車を呼んで下さい」

 天と後から駆け付けた矢崎は、ははじかれたように駆けだした。

 「亜里栖さん、まだ死んではいけません」

 腕に抱いた亜里栖に晴治が声をかける。

 「ありす……」

 二人の傍らに跪いた真利亜は片手で口元を覆い、もう一方の手で妹の手を握った。

 「先生……ここは、どこ……?」

 半ば閉じかけた目に涙が溜まっている。かすれた声に晴治は言う。

 「ここは、貴方が生きるべき世界ですよ。貴方が、お姉さんとともに生きていかなければいけない世界です」

 「……」

 亜里栖のその表情が、絶望しているのか、安堵しているのか、晴治にさえわからなかった。ただ瞼が閉じ切る直前、乾いた唇が微かに震えた。

 マリア、晴治には亜里栖がそう呟いた気がした。

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