第3話

 長崎にやって来てから一週間が経った。晴治は大学での講演や大学院生との共同研究に勤しみ、長崎を観光する時間はほとんどなかったが、特に不満はないようだった。元々ワーカホーリックの気がある人間なので天にとって、それ自体は想定内のことだった。

 「この時間が、長崎での一番の思い出です」

 本気でそう思っているのか、感慨深そうに晴治は目を細めた。

 ガーデンテーブルで三人は午後のティータイムを楽しんでいた。いつの間にこんな高尚な文化に馴染んだのか、叔父のような変わり者がいかにもセレブなこの家にどうやって馴染めたのか、天には不思議で仕方なかった。

 夕方に近づいていく午後の時間。日の出や日の入り近くの時間は、普段より加速しながら過ぎていくように思える。

 翳ってきたバラ園の方へ天が顔を向けるといつかの黒猫、物理学者の名を持つ猫が不意に姿を現した。

 どういう過程で意気投合したのか。叔父と亜里栖は喜々としておしゃべりに興じている。亜里栖が猫に気付かなければいい、天はそう願っていたが、気配を察したのか、亜里栖は黒猫に気付き、思わず席を立った。

 「矢崎!」

 鋭く響く短い声。晴治はゆっくりと亜里栖の視線の先に目をやり、悠々と庭を横切る猫に気付いた。

 「エルヴィンですね」

 「申し訳ありません。外にも出さないように言ってあるのですが」

 矢崎、と亜里栖が再び呼ぶと、若い執事はバラ園のアーチをくぐって主人の元へ走り寄ってきた。

 「お呼びでしょうか」

 「エルヴィンを連れて行って。どうして外に出したりしたの?出さないでって言ってるでしょ?」

 愛らしい顔を微かに引きつらせ、亜里栖は矢崎を責める。それ程まで猫が嫌いなのだろうかと天は屋敷の方へ向かっていく黒猫を見た。猫の方は、亜里栖に興味もないらしい。ただ自分の行きたい時に、行きたい場所へ向かうだけなのだろう。

 「……?」

 天はふと亜里栖を見た。よほど腹立たしかったのか、矢崎にまだ小言を言っている。続けて叔父を見ると、自分と同じ何かに気付いたのか、バラ園の方へ顔を向けていた。

 「矢崎」

 くすくすと誰かが笑っている。同じ声が、矢崎と繰り返す。

 その声は亜里栖の声だった。しかし、彼女は笑ってもいなければ執事の名を呼んでもいない。

 「失礼」

 席を立った晴治を、亜里栖と矢崎が驚いて見つめる。

 今、と言いかけた天に軽く頷いて、晴治は立ったままバラ園のアーチを凝視した。

 「先生、何か?」

 「どうか、なさいましたか?」

 矢崎、という声が、今度ははっきりと聞こえた。忍び笑いのような少女の声。天も思わず立ち上がった。

 「矢崎」

 亜里栖がはっとしたように執事の背を押す。それが何を意味するのか天にはわからなかった。しかし、従順な執事がバラ園の方に戻ろうと歩を進めた瞬間、弦バラの絡んだアーチが揺れた。

 「亜里栖、さん?」

 天は息を飲んだ。

 アーチの中ほどを両手で掴み、こちらを見て笑っているのは、亜里栖、その人だった。

 ぎょっとしてテーブルの向かいに佇んだ亜里栖を天は見たが、その顔は幽霊を見たかのように青ざめていた。

 「矢崎、置いていくなんてひどい……」

 亜里栖に良く似た、否、亜里栖と瓜二つの少女はそう言いながらガーデンテーブルの方へ歩み寄ってきた。

 「どうして急にいなくなったの?」

 甘えた声で矢崎の腕に腕を絡ませ、亜里栖ではない少女は男の顔を見上げた。

 「お嬢様」

 矢崎は慌てた様子で少女の腕を払いのけ、女主人である亜里栖へ顔を向けた。

 「申し訳ございません」

 「どういうこと?」

 晴治と天の存在を忘れ去ってしまったかのように、亜里栖は執事ともう一人の少女を凝視した。

 「貴方には関係ない。矢崎とわたしの秘密なの」

 「矢崎、まさか」

 申し訳ございませんと執事が言い終わる前に、女主人はその小さく華奢な手で、男の頬を力いっぱい平手打ちした。

 「亜里栖さん!」

 「亜里栖様!」

 崩れる落ちる白いワンピースの残像が、天には枝を離れた白いバラのように見えた。

 地面にしゃがみ込んだ亜里栖の傍らに矢崎は膝をついたが、触らないでという短い悲鳴に動きを止めた。

 「亜里栖さん、少し、お休みになった方がよさそうですね。僕が、お部屋までお連れします」

 晴治は矢崎に頷き、亜里栖の腕を引いてゆっくりと立ち上がらせた。

 「申し訳ありません」

 消え入りそうな声で告げた亜里栖はうな垂れたまま、天には表情をうかがい知ることは出来なかった。

 「天くん、こちらで少し待っていて下さい」

 「わかった」

 晴治はそう言い残すと、亜里栖を支えながら屋敷へ戻っていった。

 「あの……」

 すっかり無表情になったもう一人の亜里栖と、青ざめた矢崎とともに取り残され、天は居たたまれないどころか、混乱の境地だった。

 事情を聞いた方がいいのだろうかとようやく立ち上がった矢崎を見たが、自分一人でどうこうできそうな話題ではないと、沈黙を守る。

 エリーを、不意にそう声を発したのは少女だった。

 「エリーを、連れてきて」

 「かしこまりました」

 少女は天がそこにいることに気付いてさえいないような様子で、ふらりと海に面したベンチに向って歩き出した。

 矢崎は猫を追いかけ、庭の反対側に向って行く。

 どうすればいいのか。

 完全に一人で置き去りにされてしまったと、天はおろおろしたが、何ができるとも思えず、ひとまずガーデンチェアに腰をおろし、覚めた紅茶を飲んでみた。

 ベンチに腰掛けた少女の後ろ姿に、初めて屋敷にやってきた夜、同じ場所で見かけたのが亜里栖ではなく、彼女だったということに、天はようやく気が付いた。

 「エリー」

 矢崎から猫を抱き取り、少女は黒猫の背に顔を埋めた。いつかと同じ仕草だった。

 執事は不意に少女の足元に跪いて何か言葉を交わしたようだったが、天には聞き取れなかった。

 気付けば手の中のカップは空になっている。

 立ち上がった矢崎が、やっと天を認識したかのようにテーブルの方へ戻ってくる。

 今、何を言えばいいのか。何を聞けばいいのか。鼓動が速まるのを感じながら、天はじっと矢崎を見つめた。

 鼻筋の通った、綺麗な顔だ。この家の執事らしいとその時初めて天は思った。

 「大変、申し訳ございませんでした」

 天の前まで来ると、矢崎は深々と頭を下げた。

 「いえ……そんなこと、ないですけど……」

 天の戸惑いを見透かしたように、矢崎は顔を上げ、ゆっくりと視線だけを伏せた。

 「先生が、お戻りになったら、きちんとお話させて頂きますので、それまで、どうかお待ち下さい」

 「はぁ……」

 説明はしてもらえるようだと、天はそれだけを理解した。

 「紅茶が、冷めてしまいましたね。今新しい物をお持ちいたします」

 そういう状況なのだろうか、そう思いはしたが、天には矢崎を引きとめることはできなかった。

 むしろ息苦しい沈黙から逃れられると思うと、矢崎がこの場からいなくなってくれることは望ましくさえ感じられた。

 ティーポットを手に、矢崎は屋敷の方へ向って行った。

 月明かりの下、少女の手を引いて屋敷に戻っていった矢崎の後ろ姿が、不意に蘇る。

 確かに彼は少女を、お嬢様と呼び、亜里栖とは区別していた。

 何かがわかりかけ、またすぐに天の思考を混乱させる。

 もう考えるのは止めよう、天はそう決めて猫と戯れる少女の背を見つめた。

 しばらくすると叔父が戻ってきた。

 女性の方がいいだろうと、亜里栖を部屋に送り届けた後、お手伝いさんを捕まえて部屋に残してきたという。

 叔父の顔を見てこれほど安堵したのは生まれて初めてかも知れない。天は深くため息をついた。

 「何なのこれ?」

 視線の先には、猫を抱いてベンチに腰掛けた少女の後ろ姿がある。

 どこからどう見ても、亜里栖にしか見えない彼女は一体誰なのか。叔父はどこまでわかっているのだろう。

 わかっている範囲でいいから説明して欲しい、天がそう訴えようとした時、晴治は屋敷の方に目を向けた。

 「先生……先程は大変申し訳ございませんでした。亜里栖様のお具合はいかがでしょうか」

 トレーにティーポットを乗せ、場違いなほど優雅な矢崎が足早に戻ってきた。

 「大丈夫ですよ。少し、興奮されたんでしょう。軽い、貧血のようなものだと思います。今は、お手伝いさんに付き添って頂いています」

 「そうでしたか。お見苦しいところをお目にかけてしまい、大変失礼いたしました」

 「いいえ」

 こんなところで会話を止めていいのか、天は続きは?という眼差しを晴治に送ったが、晴治は何食わぬ顔で新しい紅茶が注ぎ足されたばかりのティーカップを手に取った。

 「ああ、そういえば、亜里栖さんのお部屋は、二階の西側の一番奥でいいんですよね?」

 「ええ。何か?」

 矢崎が戸惑ったように晴治を見る。

 「いえ。あの年頃のお嬢さんのお部屋にしては何と言うか……殺風景というか、少々寂しいような気がしまして」

 「そのことでしたら……亜里栖様は、物をたくさんお持ちになったり増やしたりなさるのがお嫌いなんです。この屋敷には歴代の当主が収集した美術品や工芸品なども数多くございますが、亜里栖様はそういった物を重荷に感じていらっしゃるようで」

 「なるほど。なかなか複雑な心境ですね」

 恐れ入りますと軽く会釈した矢崎。決意めいた一瞬の沈黙の後、先生、と静かに顔を上げた。

 「何でしょうか」

 「お嬢様のことですが」

 「亜里栖さんではなく?」

 「はい」

 矢崎は大きく頷き、背を向けたままの少女を振り返った。

 「お嬢様のことは、亜里栖様から直接先生にお話しになると思います。このことは、市長も含め、ごく僅かな方しか御存じありません」

 「わかりました。ですが、できれば、先程のお嬢さんのお名前を伺えないでしょうか」

 矢崎はじっと晴治を見つめ、それからゆっくりと唇を動かした。

 「真利亜まりあ様です」

 「真利亜さん、ですか」

 「ええ……」

 不安げにも動揺しているようにも見える矢崎は何かを言いかけたがそのまま俯き、それ以上何も話そうとはしなかった。

 晴治と天の待つ応接間に亜里栖が現れたのはそれから二時間ほどしてからだった。

 「お加減は、もうよろしいんですか?」

 「ええ。大変お恥ずかしいところをお目にかけてしまいました」

 いくらか落ち着いた様子で、亜里栖は晴治に頭を下げた。

 「とんでもない。大事なくてよかったです」

 晴治の言葉に無言で頷き、亜里栖は一度ゆっくりと息を吐いた。

 「もう、お気づきかと思いますが、先程庭でお目にかかりましたのは、私の双子の姉です」

 「お姉さまですか。通りでそっくりなわけですね」

 「ええ。真利亜と、申します」

 メイドが、人数分の紅茶を運んできた。場違いなほどにフルーティーな香りが室内に満ちていくのを、天はどこか不安に感じた。亜里栖はゆっくりと紅茶を飲むと、自分を落ち着かせるような沈黙を保ち、ゆっくりと晴治に顔を向けた。

 「私が、今からお話させて頂くこと、決して他言なさらないで下さいますか?」

 勿論ですと、晴治は頷き、真っ直ぐに亜里栖の目を見つめた。亜里栖は一瞬目を伏せ、大きく頷いた。

 「私と真利亜の両親は、実の姉弟でした」

 その告白に天はぎょっとしたが晴治は微かに頷いただけだった。亜里栖は晴治の反応に安堵したのか、再びゆっくりと唇を震わせた。

 「それを知ったのは、叔父が亡くなる直前でした。私たちは寝室のクローゼットに隠れて遊んでいたんです。そこに、母と叔父がやってきて、私たちが隠れていることに気付かず、言い争いを始めました……それまで、そんなこと一度もなかったので、私も姉も怖くて動けませんでしたし、何より、両親が話していることは理解できる年齢だったので……何もかも、とてもショックでした。貴方は私を裏切って、今も苦しめ続けている、貴方を今すぐ殺して私も死にたい、そんなことを、母は口走ったと思います」

 「裏切り、というのは、何のことかわかりますか?」

 晴治の言葉に、亜里栖はどこか苦しげに頷いた。

 「母は、叔父と他の女性との間に生まれた兄のことで、叔父を責めていました。私たちより二つ年上の、メイドの子どもが、屋敷にはいたんです。優しい男の子で、私たちはいつも一緒でした。それが、まさか異母兄だったなんて、考えたこともありませんでした」

 「お兄さんはそのメイドさんと秋宗さんのお子さんだったんですか?」

 「いえ。兄は、子どもの頃、住み込みで勤めていたメイドの子として、家にやってきました。ただ、それは叔父がこの家に引き取る為に、預けたということだったと思います。母が、そんな女性を家に置いておくことを許したとは、とても思えませんし」

 亜里栖はそう言うと、テーブルの上に一枚の写真をのせた。少年と、幼い真利亜と亜里栖が寄り添って楽しげに笑っている。

 「この写真を、破いたのは何故です?」

 晴治はその写真を手に取り、故意にそうしたとしか思えない細かい継ぎ目に目を細めた。

 「破いたのは、母です。三人で映ったそれ以外の写真は一枚も残っていません。それに、三人の写真を撮ることも、家の者にはきつく禁じていました」

 「ずいぶん大切になさっていたんでしょうね。これだけ細かく千切られた写真を綺麗に繋ぎ合わせるのは、きっと大変だっただろうと思いますよ」

 ええ、亜里栖は少し哀しそうに微笑んだ。

 「大変でしたが、見つけた時は、とても嬉しかったです。ほとんどの写真は、燃やされてしまいました。夏場だったから、暖炉にも火が入っていなくて……厨房のごみ箱から、兄を息子として引き取ったメイドが拾ってくれていたんです」

 言葉を選んで、亜里栖は一瞬息を止めた。

 「昔は、優しい母でした。姉にも、私にも、叔父にも、家の者にも」

 「お兄さんがお屋敷にやって来てから、変わってしまったということでしょうか」

 「ええ。姉弟ですから、当然結婚はできません。それでも、二人とも独身を通していましたから……子ども心にも、母と叔父は、とても仲がいいのだと思っていました。それが、当時は兄とは知りませんでしたが、兄が家にやってきて、全て変わってしまった」

 そうでしたか、晴治は頷いて写真をそっとテーブルに戻した。

 「母にとっては、叔父のしたことは、裏切りだったんだと思います。二人が、いつから姉弟以上の関係だったのか、私にはわかりませんが……自分以外の女性との間に、子どもがいたなんて、母には、許せなかったんでしょうね。例え自分の方が、間違っているとわかっていても……。嫉妬で、母は少しずつ正気を失っていったんだと思います。何をしたのかはわかりませんが、あの日叔父の運転する車が事故を起こしたのは、偶然と思えません」

 どこか遠くに視線を向けた亜里栖。晴治は何も言わずティーカップを手に取った。天はあまりの展開についていけず、ただ黙って二人のやり取りを聞いていた。晴治がカップをソーサーに戻す微かな音に、亜里栖ははっとしたようだった。何に対してか、すみませんと呟き、再び晴治に顔を向けた。悲劇のヒロインというのは、まさにこの人のことなんだなと天は不意に思った。血の気のない頬に触れればきっと、冷たく乾いているのだろう。その冷たさが彼女の悲しみの温度で、その手指を瞳を、澄んだ硬質に見せている。そんな気がした。

 「兄は、叔父が死んだ翌日、失踪しました。そんなこと考えたくはなかったですが、母の仕業だったと思います。姉は、幼い頃から兄が好きだったんです。勿論子ども同士ですから、何があるわけでもないんですが……叔父と兄がいなくなった後、姉は言いました。私は、ママみたいになりたくないって。母は、それから数日して、自殺しました。いつも使っていた水差しに、農薬が入っていたそうです。ですが、それを入れたのは、姉です」

 淀みなく語られた事実に、天は耳を疑う。この優雅で壮麗な洋館の中で起こった、恐ろしくも悲しくもある一連の事件。

 「姉も、母と同じでした。少しずつおかしなことを口走るようになって。だけど、私は姉を責められなかった。姉は母を恐れていました。自分も同じようになってしまうんじゃないかと。自分も、血を分けた兄を好きだったから。でもそれだけじゃなくて、姉は、母から私のことを守ろうとしてくれたんだと思います。叔父や兄のようにいつか私たちも殺されるかも知れない、そんな恐怖感も、私たちには、確かにありました」

 晴治はいつの間にか膝の上で指先を組み合わせ、目を閉じていた。亜里栖の言葉に頷きながら何を考えているのか。重たげな瞼がゆっくりと開かれた時、晴治はとても穏やかで優しげな表情をしていた。

 「辛かったでしょう。亜里栖さんも」

 その言葉にはっとしたように亜里栖は目を見開いた。

 「真利亜さんは、これまでお医者さんや病院にかかったことはありますか?」

 「いえ……事情が事情ですので、姉には申し訳ないと思いながら、ずっとひた隠しにしてきました」

 「そうでしたか。もし、お許し頂けるのであれば、真利亜さんとお話させて頂けないでしょうか」

 「姉と、ですか」

 亜里栖は目に見えて動揺した。晴治は優しく微笑みながら亜里栖に頷いて見せる。

 「亜里栖さんと真利亜さんが少しでも楽になるようなお手伝いがしたいだけです。このことは、勿論誰にも話しませんし、真利亜さんを追い詰めたり、傷つけたりすることも決してしませんから」

 しばらく沈黙した後、亜里栖はわかりましたと言って執事を呼んだ。しかし真利亜を呼びに行かせようとして、思い留まり、自分が呼んでくると応接室を出て行った。矢崎は三人のカップに新しい紅茶を無言で注いだ。

宗真むねまささん、でしょうか」

 「え?」

 声をかけられた矢崎だけではなく、天も唐突な叔父の発言に驚いた。

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