第19話 氷解とよろこび

「シャル。――本当に、僕に触れてもなんともなかったんだな? どちらとも」


「ええ」


 弾むサムタンの声を怪訝に思いながら、シャルは首をかしげた。サムタンは机の上から身を乗り出して、ふたたび確認する。


「体がふわっとなったり、力が抜けていく感覚は?」


「ええ……、と」


「どうなんだ、シャル」


 興奮しているサムタンに急かされて、シャルはすこし照れながら答えた。


「ふわっとなるっていうか、あたたかかったっていうか。――すごくやさしい心地がして、ほっとして」


 そして離れたくないと強く感じた。


 シャルの口許が花が咲くようにほころびて、サムタンは机を蹴って飛んだ。


「シャル!」


 飛んでくる黒猫を受け止めようと、シャルは両腕を開く。すると黒猫は空中で人の姿になり、シャルを抱きしめた。


「きゃっ」


 ベッドに倒れ込んだシャルを抱きしめ、サムタンが快活に安堵の笑いを響かせる。


「ああ、シャル……、よかった…………、僕はてっきり…………」


 サムタンに全身をくるむように抱きしめられたシャルは、体中からよろこびをにじませるサムタンの背中にそっと手を置き目を伏せた。心の奥がふんわりとあたためられて、真綿の中に浮かんでいるような気分になる。ふわふわとやわらかくて、おだやかな陽だまりで眠りの淵にいるような、心地いい安堵が体の隅々にまで満ちていく。


 両親に抱きしめられたときとは違った、けれどとても似ている深くてゆるぎない情愛。それをシャルはひしひしと感じていた。サムタンも、おなじ心地を味わっていてほしい。


(でも――)


 シャルは目を開けた。サムタンは陽だまりのような人を見つけたと言っていた。サムタンはその人にこの心地よさを見いだしたのだと、シャルはさみしさをよぎらせた。ぬくもりの中にそっと冷たい風が吹く。


「シャル」


 サムタンは体中の愛おしさをすべて集めて声にした。腕の中でシャルがちいさく震えたのがわかる。背中に彼女の指があり、受け入れられていると肌に伝わってくる。けれどなにか、シャルの奥深くでまだ閉じている場所がある。彼女は完全に心を開いてくれていない。それは僕が異種族だから? それとも、別のなにかが原因なのだろうか。


「シャル」


 サムタンは彼女の頬に頬を寄せ、ささやいた。


「君といたい」


「――え?」


「瞳の色が飢えの原因だと言ったことを、覚えている?」


「覚えているわ。赤色が飢えていて、青色になればなるほど満足をしているのよね」


「そう」


 サムタンは顔を上げて、シャルの緑の瞳に自分の顔を映した。


「僕はいま、どんな色をしている?」


 シャルはサムタンの頬に手を添えてつぶやいた。


「青いわ……、すごく深い青。藍色、と言った方がいいかもしれない。とても鮮やかな色よ。キラキラと輝いていて、日が沈んですぐの淡い夜空みたいなキレイな色」


「そんなに、濃い色なのか」


「ええ、とっても」


「赤の要素は?」


「ちっともないわ」


 にっこりとしたサムタンは、ふたたびシャルを抱きしめた。


「ああ、これがそうだ。――これがそうだったんだ、シャル。よかった……、あの手記は願望でも間違いでもなかったんだ。これが、そうか……、やはりこの感情がそうだったんだ」


 声を震わせるサムタンはシャルの耳にささやく。


「お願いだ、シャル。どうか、僕とともに島に来てほしい。そして、すべてを見てくれないか。……僕を知って、そして判断をしてほしい。受け入れられるかどうかを」


「どういうこと? ねえ、サムタン。ちゃんと説明して」


「君なんだ」


「え」


「僕が探し、求めていた相手は君なんだよ、シャル」


「わ、たし……?」


 サムタンはふたたび顔を上げ、シャルの額に額を重ねた。


「そう。陽だまりのような人。――日の光を受けて輝く、森の草木のような瞳を見たときに、僕は君を森の妖精のようだと思った。僕のあこがれる日中の森そのものだと」


「サムタン。私、そんな……」


 健康的な肌色のシャルの頬に朱が差して、サムタンは目を細め指先で慈しんだ。


「こうして触れていても、隅々まで満ち足りても、君はとても血色がいいままだ。――僕は飢えを忘れたのに、君の血も精気も吸っていない」


 奇跡だ、と漏らすサムタンがどれほどのよろこびを味わっているのか、シャルは理解した。そしてそれを与えているのが自分だと実感し、シャルもまた歓喜に体をふくらませる。


「私はなにも奪われていないし、悪寒もめまいもしてないわ。逆に、すごくあたたかくなっているの。サムタンがうれしそうで、私もうれしい」


「シャル」


「信じなくて、ごめんなさい。……その、あなたが吸血鬼だってことを」


「いいんだ。――僕はもう吸血をしなくてもよくなったから。黒猫の姿にはなれるけれど。……ただ、でもそれはシャルが傍にいてこそだ。君がいてくれなければ、僕はまた誰かの血を吸って生きなければいけなくなる。だから、シャル……、もしも君がイヤじゃなければ、僕の傍で生きていてほしい。…………ああ、でも、これじゃあ僕の都合ばかりだな」


「サムタン」


 シャルはほほえみ、シワのよったサムタンの眉間を人差し指でそっと押した。


「そんな顔しないで。――私がいれば、サムタンは血を吸わないでいられるって、本当?」


「ああ。瞳の色がその証拠だ。深い藍色なんだろう? そんな色になったのは、はじめてだ。シャルがいれば僕は吸血鬼としての飢えを味わわずにすむ。だが、それはあくまで僕の都合だ。君が僕の傍にいる理由は……、ないな」


 すこし考えたサムタンは落胆にまぶたを伏せた。


「島に来てしまうと、店を経営できなくなる。君と両親との思い出の店を手放せと言っているも同然だ」


 震えるサムタンの長いまつげを、シャルは見つめた。閉じられたまぶたの奥の瞳を、もっと見ていたい。


「ねえ、サムタン。目を開けて。藍色の瞳を見せてほしいの」


 サムタンはそっと目を開け、藍色に輝く瞳をシャルに向けた。


「すごくステキな色よ、サムタン。深くて、落ち着いていて、安心できる色。――あのね、サムタン。私、さっきも言ったけど、船がとても怖いの。見る分には平気だけど、乗るかもしれないって思っただけで、立っていられなくなるくらいになるわ」


 うん、とサムタンはうなずいてシャルの茶色の前髪をかき上げた。もっとよく、彼女の顔を見たい。


「でもね、サムタンといっしょなら平気かもしれないって思ったの。サムタンが傍にいてくれたら、ちゃんと恐怖と向き合えるかもって。こんなふうに思ったのは、はじめてよ。――だから」


 はにかみ、シャルはサムタンの頬に両手を添えた。


「私もサムタンといたいから……、だから、大丈夫」


「シャル」


「サムタン」


 見つめ合い、ふたりは額を重ねてクスクス笑った。どちらの想いもおなじものだと知った瞳は、安堵とよろこびにきらめいている。


 そこに、咳払いが割り込んできた。


「では、そのことについての詳しい確認事項などは後にいたしまして。その娘を島に連れていくのに、船が都合悪いとなれば、ハルピュイアを呼び空を行けばいいでしょう。その場合、人目のつかぬ深夜に移動となりますが、まあ、店の定休日の前日に出立と考えれば、娘の都合を考慮しても問題はないかと。その娘が人ならざる者たちの姿を目の当たりにしてからあらためて、はたして島に遺族を連れてきてもいいいものか、聞いてみることにいたしましょう」


「ああ、……そうだな。うん、トリオローノの案で僕はかまわない」


 すっかり存在を忘れていたトリオローノの冷静な言葉に、サムタンは気まずい笑みを浮かべて答えた。


「シャルは、どう?」


 身を起こしながら問うサムタンから視線をそらし、シャルは真っ赤になった。


「シャル?」


「私も、平気」


 シャルは両手で顔をおおう。そんなに恥ずかしかったのかと、サムタンは申し訳なくなった。若い娘がベッドに押し倒され、抱きしめられていたのだから当然だなと、サムタンは起き上がった。


「そうと決まれば、そのように手配をしよう。さあ、シャル。すっかり遅くなってしまった。そろそろ部屋に戻って眠ったほうがいい。――ほら」


 手を差し出したサムタンを、チラリと指の隙間から見たシャルは体をまるめて言った。


「その前に、服を着るか猫の姿になるかしてちょうだい、サムタン。でないと私、起きられないわ」

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