第17話 木漏れ日に焦がれて

「苦しめたくはないって、どういうこと? ねえ、サムタン。私、サムタンが吸血鬼でも平気よ。サムタンがサムタンなら怖くないわ。……最近よそよそしかったのは、そのことが原因なの?」


 シャルが近づくと、サムタンは窓の桟に飛び移った。


「それ以上、近づくのはやめてくれ。シャル、僕は吸血鬼なんだ」


「人間じゃないってことは理解したわ。人は猫になんてなれないもの。――吸血鬼が猫になれるなんて、はじめて知ったけど。でも、サムタンがそう言うのなら信じるわ」


 言いながら、シャルは苦しくなった。サムタンが吸血鬼だなんて、冗談だと笑い飛ばしていた。そのときのサムタンは、どんな気持ちだったろう。


「ねえ、サムタン」


「シャル。たのむから、そこで止まってくれ」


 腹の底からうなるサムタンの声が、悲哀に満ちている。シャルは足を止めた。彼の根本を疑い、いないものだと言い切っていたから、サムタンはこれ以上ともにいられないと考えたのかもしれない。シャルはサムタンのあいまいな笑みを思い浮かべた。あれは自分の存在を否定された、悲しみの顔だったのね。私、なんてひどいことを――。


「ああ、ごめんなさい。私、ぜんぜん信じていなくて。サムタンを傷つけていたのね」


「いいんだ、シャル。存在を隠していたのだから、信じられなくて当然だ」


 サムタンの口の端がわずかに持ち上がる。黒猫姿なので表情がわかりづらいが、シャルの目には自嘲めいたものを浮かべる人間のサムタンが見えていた。


「それに、僕自身が吸血鬼であることを嫌っているから」


「え?」


 まぶたを閉じたサムタンは、首を振った。


「僕は吸血が嫌いなんだ。――それをしないでいられる方法を見つけるために、島を抜け出した。抜け出してからの経緯は知っているだろう?」


 うなずき、シャルは肌が白くなるほど強く指を組んだ。


「拾ったのは私だし、それからずっといっしょに過ごしているんだもの」


 祈る気持ちを言葉に込めて、シャルはサムタンを見つめた。どうか、帰ってしまうなんて言わないで。


「僕はここで、いろいろなことを学ばせてもらったよ」


 静かに語るサムタンの声に別れの気配がにじんでいる。シャルはゆるく首を動かし、別れの気配を否定した。


「サムタンはまだなにも知らないわ。街の一部しか知らないじゃない。もっともっと、知るべきことがたくさんある。やることだって、いろいろあるんじゃない?」


 声が震えてしまう。シャルは無理やり笑顔を作り、サムタンに手を伸ばした。


「ねえ、サムタン」


 サムタンは目を開けて、泣き出しそうなシャルを見た。かろうじて口だけが、笑みの形になっている。けれど震える唇は、すぐにでも口角を下げてしまいそうに弱々しい。シャルはどうして、そんな顔をしているのだろう。なにをそんなに怯えている? やはり僕が吸血鬼だという事実が怖いのだろう。トリオローノの言う通り、吸血鬼という種族は実害をもたらすイメージを作りやすいから。


「シャル。僕は吸血鬼だ。君の命を吸い取る可能性がある。――だから、それ以上は近づかないでくれ」


「そう言うってことは、サムタンは私の血を吸う気がないってことでしょう? だったら近づいても問題ないじゃない」


 なんとか距離を縮めたいシャルは、両腕を伸ばして手のひらを上に向けた。おいでと態度で示すシャルに、サムタンの心が痛む。その腕の中に飛び込みたい。いや……。僕の腕に、シャルを包みたい。


(だが、そんなことをすれば僕はまた、シャルの精気を吸い取ってしまう)


 チラリとトリオローノを見て、サムタンは目の奥に痛みを押し込んだ。感情に負けてはいけない。シャルを傷つけたくはない。


「シャル。さっき僕は吸血をしないでいられる方法を見つけるために、島を出たと言った」


「それを見つけたと言うの?」


「おそらく……、そうだ」


 サムタンはあいまいに答えて首を縦に動かした。トリオローノがベッドに飛び乗り、シャルとサムタンの間へ入る。


「サムタン様はこれ以上、ここにいる必要がなくなった。世話になった礼として、望みの物を贈るとしよう。なんでも、欲しいものを言え」


 息を呑み、シャルは胸元に手を入れた。硬いものが指に当たり、思い出したシャルは服の下からペリドットを取り出した。


「これを返すわ」


 首から外したシャルは、トリオローノの鼻先に夜会のエメラルドと呼ばれる、太陽の象徴を突き出す。


「私には不必要なものだもの」


「持っていてくれ、シャル」


 受け取ろうとしたトリオローノは、サムタンの声に動きを止める。


「いらないわ」


「持っていて欲しいんだ」


「どうして」


 理由などないと、サムタンは口をつぐむ。


「ねえ、どうして? 私、こんなものいらない。言ったでしょう? 食費とかの心配だったら、必要ないって。そのためじゃないって聞いたから持っていたの。こんな高価なもの、持っていたら緊張しちゃうって言ったわよね。――だから、いらない」


 サムタンが首に下げてくれてから、外したことのないネックレス。それを外すと、なぜかサムタンとの距離が離れた気がした。目の奥が熱くなり、鼻の奥がツンとして、シャルは歯を食いしばった。


「これもお礼の品だって言うのなら、持っていたくないわ。お礼なんて、受け取りたくないもの」


 それが別れの引き金になるのなら、持っていたくない。シャルはトリオローノの首にネックレスをかけた。


「シャル、どうして……」


「お礼なんて、絶対にいらない。必要ないもの。――必要のないものであってほしいの。別れのためのお礼なんて、受け取りたくない!」


 シャルの目じりから感情が流れ落ちる。サムタンは呆然とそれを見つめた。


「さよならなんて、したくないの。サムタンはレムン伯爵としての仕事があるから、ずっとここにはいられない。それはわかっているの。わかっているけど……」


 うまく言葉にできなくて、シャルはただ涙をこぼした。ハラハラと彼女の頬を伝うしずくを、サムタンは場違いな感想だと思いながらも美しいと感じていた。


「シャル、僕は……」


(僕は……)


 なにを言おうとしているのか、サムタンにもわからなかった。シャルの涙に、ひたすら胸が締めつけられる。どうにかして涙を止めたい。彼女の頬に触れて、抱きしめて、涙を胸に受け止めたい。けれどそれをすれば、シャルの精気を奪ってしまう。


 情動の先に、青ざめて怯えるシャルの姿があった。あの時のような恐怖を、彼女に味わわせたくない。


 どうすればいいのだろう。


 迷うサムタンをくわえて、トリオローノは自分の背中に乗せた。


「世話になった。礼がいらないというのであれば、この場ではなにも渡さずにいておこう。――いまは思いつかずとも、いずれ必要なものが思い浮かぶだろうからな」


「私に必要なのは、サムタンよ」


 涙を流しながらも、キッと眉を持ち上げてシャルは言った。まっすぐにサムタンをにらみつけ、手を伸ばす。


「行き倒れていたサムタンを拾ったのは、私よ。世話をしたのも私だし、いまの仕事を見つけられたのだって、私がいたからだわ。だから、私が納得のいく説明をして。こんな状態じゃ、はいそうですかって見送れないわよ。――吸血が嫌いって、どういうこと? 吸血をしなくていい方法ってなに? ほかにもいろいろと聞きたいことがありすぎて、どう質問をしていいのかわからないけれど、とにかく座って話を聞かせて。こんなの中途半端だわ」


 あくまでも受け入れる姿勢のシャルに、サムタンの心が揺れる。


「サムタン様」


 押しとどめようと、トリオローノは硬い声を出した。


「サムタン」


 引き留めようと、シャルは涙で濡れた瞳をサムタンに向ける。


(なんて、美しいのだろう)


 緑の瞳がみずみずしく潤み、輝いている。そこに明かりがチラチラ揺れて、サムタンは木漏れ日を思い出し、憧れに胸を焦がした。


(僕は、あの光の中で過ごしたい。そう思って生きてきた。――そのために、島を抜け出したんだ)


 ふわりと、サムタンの鼻孔にかぐわしい匂いが触れた。それはここへ彼を導いた香りで――。


(おいしそうな匂いの正体は、シャルだったのか)


 ふいに笑いがこみ上げてきて、サムタンはしっぽを揺らした。


「おもしろくない話だけれど、聞いてくれ」


「聞きたいって言ったのは、私よ。おもしろくなくても、最後まで聞かせてもらうわ」


 胸をなでおろしたシャルは、指先で目じりをぬぐった。

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