第16話 君が君なら

 驚きすぎて、身動きすらも忘れたシャルに、サムタンはおずおずと声をかけた。


「……シャル。僕はまぎれもなく、吸血鬼なんだ。そしてトリオローノは見ての通り」


 黒猫姿のサムタンは、トリオローノに鼻先を向けた。シャルは視線を黒猫の首の動きに合わせて動かし、見慣れたトリオローノに視線を置いた。


「こうして目の当たりにすれば、信じるほかはないだろう。さあ、娘。他言しないと約束ができるのであれば、命は残しておいてやろう」


「トリオローノ。どうしてそう物騒なことを言うんだ」


「青ざめた顔を見れば、おわかりになられるでしょう。サムタン様、娘は私たちを怖がっております。恐怖はやがて怒りのような熱を持ち、対象に襲いかかる。娘ひとりでは無理でも、街の者たちが暴動として島に押しかけて来たらどうなるか。……おわかりですね」


「どうしてそう決めつける」


「歴史がそのように証明しているのです。我等があの島に追いやられたのも、魔女狩りも、すべては恐怖が招いた結果。そしてその恐怖の根源は、多数派にとっての異物であること。いつか自分たちにはない能力に、危害を加えられるという疑心が攻撃性を生み出す。――なによりサムタン様。あなた様は吸血鬼であらせられる。血を吸われるという予測的恐怖を他者に与える種族であると、御自覚なされませ」


「そ、れは……」


 たしかに人狼よりも自分のほうが、実害的な意味を持って人々に恐怖を与えてしまう。


 サムタンはうつむいた。血を……、命そのものを吸い上げる鬼と知ったシャルは、いままで通り接してはくれなくなるのか。そこまで深くは考えていなかった自分に、サムタンは歯噛みした。トリオローノはそれを見越していた。僕はなんて浅はかなんだ。希望ばかりを追いかけて、現実とのすり合わせをしていなかった。


「サムタン」


 ふわりと体が浮かんで、サムタンは驚いた。シャルがサムタンを抱き上げて、困惑気味にほほえんでいる。


「サムタン……、なのよね」


「……ああ」


 シャルはベッドに腰かけて、トリオローノを見た。


「トリオローノは見慣れているから、トリオローノだってわかるわ。人間の言葉がしゃべれるなんて、知らなかった」


 そしてサムタンが吸血鬼だと信じていなかった。


 ぎゅっと腕の中に収まるサイズの黒猫を抱きしめて、シャルは深紅の瞳を見下ろした。


「たしかに、サムタンの目だわ」


「……怖く、ないのか」


「怖いわよ。すごく怖いし、いまだに信じられないし。というか、なんだかよくわからない感じ」


 でも、とシャルは黒猫の背中を撫でる。ビロードのような手触りが心地いい。


「サムタンなのよね」


「ああ……、僕だ」


 シャルの腕に包まれて、サムタンはじっと彼女を見上げた。背を撫でる指がやさしく、腕のぬくもりが心地いい。シャルの緑の瞳に恐怖はなかった。揺れているのはとまどいのせいだ。――シャルは僕の存在を受け入れようとしてくれている。


 鳥の羽の内側に包まれたような、やわらかくあたたかなものがサムタンの心に広がる。ふんわりとしたそれは心から体の隅々にまで広がり、酩酊に似た高揚にサムタンはうっとりとした。体中がほんのりと熱くなる。生き生きとしたものが体を巡り、満ち足りていく。そして――。


「あら。サムタンの目、青みがかってきたわ」


 ハッとして、サムタンはシャルの腕から抜け出した。


「あっ」


 いきなり飛び上がったサムタンにおどろき、シャルは立ち上がった。優雅な弧を描いてベッドに着地したサムタンは、窓の下に移動すると壁にピタリと身を寄せた。


「どうしたの、サムタン」


「シャル……、僕の瞳はさっき、赤かったんだな?」


「え? ええ、そうよ。抱き上げて見たときは、赤かったわ」


「だからいま、青みがかってきたと言った」


「――そうよ」


 ふうー、とサムタンが息をこぼす。シャルは不安にかられた。私、なにか悪いことでも言ったかしら。


「シャル。体調は、なんともないか」


「どういうこと?」


「その……、体がだるいとか、めまいがするとか、寒気があるとか、そういうことはないか」


 きょとんとまばたきをして、シャルは自分の体を確かめた。


「どこも具合は悪くないけど……。突然、どうしたの?」


「ああ、いや……。僕の目の色は空腹の度合いを示すものなんだ」


「どういうこと?」


「赤いと、血が足りていない。青に近ければ近いほど、満ち足りている。赤い目のときに日光は浴びられない。青味が強ければ、日中、外に出ていられる。――思い当たることがあるだろう?」


 すこし考え、シャルはうなずいた。


「外に出るときは目が青紫なのに、戻ってきたら赤色になっていたわ。朝は紫なのに、夜は赤色になっているのは、お腹が空いている、というか、血が足りていない……、消耗している、ということ?」


「ああ」


 苦々しく答えたサムタンに、わかりやすくていいわねと、シャルはのんきに笑った。


「でも。だとしたら、どうしていま青味が強くなってきたのかしら? サムタンはなにも食べていないのに」


「娘」


「なあに、トリオローノ」


 シャルはいつものクセで、トリオローノの頭に手を伸ばした。ふいっと首を振ってよけたトリオローノが、薄青の瞳にシャルを映す。


「なぜ、怖がらない」


「怖がってほしいの?」


「狼がしゃべるんだぞ」


「しゃべってるわね」


「サムタン様は黒猫の姿になられた」


「とってもかわいいわ」


 トリオローノは鼻の頭にシワを寄せ、不機嫌に鼻を鳴らした。


「恐怖心というものがないのか」


「あるわよ。人並みには」


「ならばなぜ、怖がらない」


「怖がってほしいの?」


「そういうことではない」


 グルルとうなるトリオローノと、いまにも窓の外に飛び出しそうなサムタンを見比べて、シャルは「うーん」と唇の下に手を当てた。


「でも、トリオローノはトリオローノで、サムタンはサムタンなのよね?」


「……それは、そうだが」


「じゃあ、怖がる必要はないんじゃない? だってふたりとは、短い期間だけどいっしょに暮しているんだし。危険な目にあったことなんてないもの」


 シャルはしゃがんで、トリオローノと目の高さを合わせた。


「トリオローノはサムタンを守ろうってがんばっていたし、サムタンはたくさん私の手伝いをしてくれて、気遣ってくれたわ。――動物の姿になっちゃうなんて、すごく驚いたけど……。でも、だからっていままでのことが消えるわけじゃないでしょう?」


「なにか裏があるとは考えないのか」


「裏がある人は、そんなふうには言わないんじゃない? それに、私はふたりが好きだし、感謝もしているの。誰かがいるってことが、こんなにもたのしいなんて忘れていたわ。ずっとここにいてほしいくらいよ」


 言って、シャルは思い出した。ふたりはいずれ島に帰らなくてはならない。事故の遺品引き取りのために、人々を島に連れていくというのは、彼等が島に帰るということではないか。


 シャルはギュッとスカートを握った。


「……もしかして、島に帰る前に正体を明かしておこうってこと? ほんとうは吸血鬼なんだって、島との連絡はトリオローノが取り持っていたんだって、種明かしをしてからバイバイをするつもりで、それで……、こんなことを――?」


 シャルはすがる目でサムタンを見た。帰って欲しくないとうったえるシャルの緑の瞳を、青味がかった紫の瞳でサムタンは受け止める。


 帰りたくはない、とサムタンは瞳の奥で想いを軋ませた。シャルと離れたくない。彼女とずっと、共に過ごしたい。これからの時間をシャルとともに生きていたい。


 どうしてそう思うのか、理由も理屈もわからなかった。ただ、情動がサムタンの魂を揺さぶっている。


(だが、そうすれば僕は必ずシャルの命を吸い取ってしまう。僕はやはり、精気を吸う鬼となってしまったんだ)


 そしてそれは想いをかけた相手の――シャルの精気を吸うことを意味した。彼女の傍にいては、無意識にシャルの命を奪ってしまう。さきほど無意識に精気を吸ってしまったように。


「ああ、シャル……」


 サムタンは悩ましく首を振った。


「僕は君を苦しめたくはないんだ」


 そのためには、ここで彼女にすべてを説明し、別れるほかはないとサムタンは思い極めた。

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