第12話 気づいたこと、気づきたくなかったこと

 最後の客から代金を受け取ったシャルは、扉のプレートをクローズに変えて厨房に戻り、お茶の残りをカップに注いでテーブルに着いた。


 ふうっと息を吐き出して、静かになった店内でぼんやりとする。いつもならすぐに掃除をはじめて午後の準備に取りかかるのに、そんな気分になれなかった。


(なんだかすごく、お店が広くなった気がするわ)


 もちろん、そんなはずはない。店の広さはシャルが子どものころから変わっていない。子どものころと比べて、成長をしたから狭く感じる、というのならばわかるが、広く感じるのは妙な話だ。


 けれどその妙な理由に、シャルは気づいていた。サムタンがいないからだ。


 彼がいないだけで、とても空間が広くてさみしい。その上、物足りない。いまごろはなにをしているのだろうかと、サンドイッチを持ってトリオローノとともに新しい仕事へと赴くサムタンの笑顔を思い出す。


(うまくいっているといいけれど)


 相談に行った翌日、仕事場が見つかったと連絡が入った。そして家主に仕事の内容を説明したら、ぜひとも依頼したいという連中がいたから、宣伝をしなくとも口コミで仕事の話は広まるだろうと言われた。


 忙しくしているのだろうか。準備期間がいるだろうと思っていたのに、紙やペン、インクなど必要なものを、サムタンはすぐに用意した。まだ紹介されていない、城との取次をしている人物が手配をしたらしい。


(いったい、どんな人なのかしら)


 いずれ紹介すると言われたが、それはいつになるのか。サムタンのことが気になってしかたがない。


「ああ……、もう」


 昼の仕込みをしなければならないし、市場に出るついでに仕事場を見学しに行こうか。お客様がいたら迷惑になるから、やめておいたほうがいい。サムタンにはサンドイッチを渡してあるし、トリオローノの食事は向こうで新鮮な生肉を買うから大丈夫だと言われている。シャルが様子を見に行く理由は残っていない。


 ただ、気になったから。


 そう言ってもいいのだろうが、気が引けた。どうしてこんなにサムタンが気になるのだろう。――心配だから? ううん、違う。私がさみしいからだ。


 じゃあなぜ、さみしいの?


 わからない。


 シャルは困り顔で席を立った。いつもの習慣で買い物籠を手に取り、昨夜から仕込んでおいた香草入りの塩漬け肉の具合を確かめ、外に出る。今日のメニューは塩漬け肉と根菜のソテーか、野菜と魚の蒸し物にする予定でいる。ティータイム用のパウンドケーキはできているし、いつもどおりの手順でいけば問題はない。


 なのになぜか、心の片隅に不安に似た焦燥があった。なにかが物足りない。なにかを忘れている気がする。けれどそれがなんなのか、シャルにはさっぱりわからない。


 そんなふうに不思議な心地を抱えたシャルが市場に向かうころ、サムタンもまた落ち着かない心地でペンを走らせていた。


 初日にしては、仕事は順調だと思っている。相場がわからないので仕事場の家主と相談をし、金額を決めた。朝から店が開くのを待っていたと訪ねて来た客はその金額で納得をし、前金として半分を支払うと昼過ぎに取りに来ると言って去っていった。


 初仕事はおなじ書類の複製だった。荷物のひとつひとつに手紙を添えたいのだという。依頼主は字が書けるが、忙しくて手紙をいくつも書く余裕がないと言っていた。ひとりきり――正確には、トリオローノがいるのでふたりきりだが――で仕事ができるのはありがたく、サムタンはたわいない美辞麗句の書写にいそしみながら、トリオローノに声をかけた。


「なあ、トリオローノ」


「いかがいたしました、サムタン様。お疲れになられたのでしたら、いつでも変わりますが」


「そうじゃない。仕事はきちんと僕がひとりでやりおおせるさ」


「ですが、買い物に行かれる間に私が進めておけば、より多くの仕事をこなせます。ひいてはあの娘にわずかでも多く宿賃を渡せることになるとはお思いになりませんか」


「買い物? ああ、そうか。もう昼時なんだな」


 ふっと息を吐いて、サムタンはほほえんだ。


「空腹なのか、トリオローノ。すまなかった。すぐに生肉を買ってくるとしよう」


 トリオローノは鼻の頭にシワを寄せる。


「主に使いをさせるなど、なんとも奇妙なことになりまして」


「なにを言う。こちらに来てから、僕はいろいろなことを知ったぞ、トリオローノ。僕はおまえたちに賃金を払っていない。つまり、主とは言い難いんだ!」


 胸をそらすサムタンに、トリオローノはあたたか味のある苦笑を浮かべた。


「いいえ、サムタン様。あなた様はたしかに、私たちの主です」


「なぜだ。収支報告におまえたちの給与が載っていたことはないぞ」


「あの島で生き続けられる。それが報酬なのです」


「どういうことだ」


「人間は異物を嫌います。敬われていたとしても、条件が変われば迫害される。そうして追い詰められた私たちの祖先が生きる場所を、あの島に城を造ることで作ってくださったのが、初代レムン伯爵様であらせられるのです」


「それは知っている」


「ですから、レムン伯爵として君臨してくださり、選ばれし人間のみを島に入れる、という形式を続けていただくことが、人ならざる我々の命を守っていると言っているのです」


「それが報酬だと言いたいわけだな」


「はい」


 ふうっと息を吐いて、サムタンは首を振った。


「それほど重要なことだとは気づかなかったな。やはり、島を抜け出してよかった。なあ、トリオローノ?」


 いたずらめいた笑みをひらめかせたサムタンに、トリオローノはツンと取り澄まして言った。


「これ以上、わがままを仰せになっても聞く耳は持てません」


「どうして僕が、頼みごとをするとわかったんだ」


「わからないほうが、どうかしています」


「そうなのか?」


「はい」


 ふうん? とサムタンは不思議に思いつつ、まあいいと言って席を立った。


「とりあえず先に、トリオローノの食事を買ってくるとしよう」


「私が人の形を取って買い物に行くほうが楽ではありませんか? 客を装い、出入りもできるでしょう」


「毎回それをするのか? 顔を覚えられるぞ」


「常連客、ということにすればよろしいかと。外は日差しがございます」


「だが、服はどうする」


「ぬかりなく」


 机の奥に鼻を突っ込んだトリオローノが、木箱の取っ手をくわえて引きずり出した。


「運び入れていたのか」


「念のために」


「なら、はじめからそう言えばいいだろう? 僕が買い物に行く前提で会話をしていたじゃないか」


「サムタン様が、私にお命じになられるものと思っておりましたので」


 しれっと言われて、サムタンは妙な顔をした。


「僕が必ず頼ると思っているんだな」


「私の思い上がりでしたらご容赦ください」


 サムタンは唇をモゴモゴと動かし、ふうっと息を吐いた。


「思い上がりじゃない。僕はおまえを頼りにしている。――だが、買い物のことじゃないぞ。別のことを頼もうと思っていた」


「そのためにも、私は人の姿となって外に出た方がよろしいのでは?」


「ああ。まったくその通りだ、トリオローノ。調べてほしいことがある」


「あの娘の両親が犠牲となった、船の事故についてですね」


「なにもかもお見通しというわけか? なら、おまえのことだから、すでに手回しをしているんだろう」


 獣から人の姿になったトリオローノはニヤリと口の端を持ち上げ、うやうやしく頭を下げた。


「水中探索を行わせております。船は引き上げられてはいないようですから。ですが、なにをお知りになりたいのかは、わかりかねます」


「わからないまま、探索をさせているのか」


「いかなるご質問にも答えられるよう、あらゆる情報を拾えと命じておきました」


「あらゆる情報、か」


 サムタンは机の上の手紙に目を落とした。商品に関する説明と購入に対する礼を述べたもの。これは品物に添えられて船に乗せられ、どこかへ運ばれてゆく。沈んだ船にも、このようなものが乗っていただろう。もしかすると、誰かが特別な意味を持って書いた手紙が沈んでいるのかもしれないと考える。


(犠牲者はシャルの両親だけじゃない)


 きっとシャルは、自分だけでなく他者の心の傷も気にするだろう。


「苦労をかけるが、そのまま探索をしておいてくれ。僕もどういう情報が必要か、わからないんだ。どんな些末なものでもいい。見つけたもの、気がついたことがあれば報告をくれ。領主として、領民の中に深く刻まれているものを知りたいんだ」


「かしこまりました」


 身支度を整えたトリオローノが、耳を澄ませて人の気配のないことを確認してから外に出る。ひとりになったサムタンは手紙を机の隅に寄せて、シャルの作ったサンドイッチを取り出した。


「シャル」


 いまごろ、なにをしているだろう。


 彼女の笑顔が見たくなって、苦笑する。まだ半日しか経っていないじゃないか。それなのに、彼女を恋しく思うなど――。


(恋しい?)


 浮かんだ単語に、サムタンは驚いた。


(僕はいま、たしかに恋しいと思った。――シャルが、恋しい?)


 ハッとして、サムタンは口元を手で押さえる。


(血を吸わなくとも生きていけるようになる、というのはまさか……)


 青ざめたシャルと、精気を吸うと言ったトリオローノの顔が交互に浮かび、サムタンは愕然とした。


(血を吸う変わりに精気を吸うようになる、ということだったのか――?!)

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