第10話 それは不確かな望みだから

 書類に目を通していたサムタンは、ふと顔を上げて扉に目を向けた。シャルはもう眠っているだろうか。それとも起きて、物思いにふけっている?


「サムタン様」


 きっちりと衣服を整えたトリオローノが、ひそめた声でサムタンを呼んだ。


「なにか、お飲みになられますか?」


 聞きなれたセリフにサムタンは苦笑する。


「足音でシャルが気づいてしまう」


「私をなんだとお思いですか。あの娘に気づかれぬよう、階下へ行き茶を淹れて戻るなど、造作もないこと」


「茶葉が減っては、シャルが妙に思うだろうな」


「ぬかりなく」


 そう言ったトリオローノは、茶葉の詰まった瓶を取り出して見せた。


「まるで手品師だ」


 軽く目を伏せたサムタンは、足元まで完璧な装いのトリオローノに感心をした。彼はサムタンとシャルが港をながめている間に島の住人と連絡を取り、サムタンが命じた必要書類のみならず、己の衣服とサムタンの衣装、茶葉まで運ばせていた。


「お望みであれば、ご愛用の茶器も運ばせますが」


「必要ない」


 笑みを深めて、サムタンはペンを置いた。


「インクが乾くまでの間、お茶をお淹れいたしましょう」


「だから、必要ないと言っている」


「ですがいつも、お召し上がりになられておいでです」


「この状況は“いつも”ではないから問題ない」


 トリオローノが眉根をひそめ、なにか言いかけた口を閉じて一礼した。シャルの両親ふたりが過ごしていた部屋だから、トリオローノが人型を取っていても不自由はないが、城の生活に慣れているサムタンには狭く感じられる。


 ベッドに移動したサムタンは、窓の外に目を向けた。夜空に星々がまたたいている。サムタンやトリオローノが好む時間帯だ。


「外へお出かけになりますか」


「――いや」


 断りかけて、サムタンは気を変えた。


「出かけるとしようか」


「お供いたします」


 サッとトリオローノはランプを消して、ベッドの中に枕を入れて膨らませ、いかにも人が眠っているように細工した。


「これであの娘が部屋に入ってきたとしても、問題ありません」


「布団をまくられたら、どうするつもりだ?」


 冗談交じりにサムタンが言えば、トリオローノが顔を険しくした。


「そこまで礼儀知らずな娘なのですか」


「たとえ話だ。それに、庶民の暮らしはどうやら僕たちとは違っているらしい。それが礼儀知らずな行為ではないかもしれないぞ」


「なるほど」


 生真面目に受け止めるトリオローノから目を離し、サムタンはふたたび扉に目を向けた。


「気になるのでしたら、娘が眠っているか確認してまいりましょう」


「女性の部屋にノックもなしに入り込むつもりか? それこそ礼儀知らずだぞ、トリオローノ」


「礼儀を尽くす相手ではありませんので」


 滑るように移動したトリオローノの手がドアノブにかかる。サムタンはその手の上に手を置いた。


「行かなくていい」


「気になるのでしょう」


「そうじゃない」


「では、なぜあちら側を気になさっておられるのです」


「それは……」


 言いよどむサムタンを、トリオローノの薄青の瞳が見つめる。暗く沈んだ室内で輝くその目は、いくら人の姿をしていても獣の本性を隠せていない。自分もそうなのだろうなと、サムタンは目元に手を置いた。


「空腹でいらっしゃいますか」


「そうじゃない」


「瞳が赤うございます」


 ズキリとサムタンの心が痛んだ。


「赤いか」


「はい」


「昼間に、おまえの血を飲んだのだがな」


「日光に長く当たったせいで消耗なされたのでしょう」


「……そうか」


「はい」


 宵闇に沈んだ世界は静かすぎて、サムタンの心は不安にさざめく。ここまで来て、僕は化け物として成長をしてしまった。血を吸うだけに飽き足らず、精気を吸う技を身につけてしまった。――だが、あれはあの1度だけで、トリオローノの血は牙を立てて飲んだ。なにかの錯覚で、精気を吸ったように感じただけではないのか。しかし、僕はたしかにぬくもりを感じ、シャルは僕の瞳が紫になったと言った。そして彼女は青ざめ、震えていた。


 僕は、望みのものを得られるのだろうか。


 サムタンは扉の向こう――シャルの存在に視線を投げた。


 ここでの生活は城で過ごすよりも、ずっと長く日光を浴びていなくてはならない。つまり島での日々よりも、多くの血を飲むことになる。あのおぞましい心地を、いつも以上に味わわなくてはならない。それに耐えて過ごしても、吸血をしないでいられる身になれるかどうかはわからない。そもそも、愛とはなんだ。愛を知ればいいとは、どういうことなのか想像もつかない。


 シャルは愛を知っているのか。彼女に聞けば、わかるだろうか。島の誰も答えてはくれなかった問いに、シャルなら望む返事をくれそうな気がする。それは彼女が人間だから? それとも、シャルだから……、だろうか。


「もう、城へお戻りになられますか」


 主の逡巡に気づいたトリオローノは、重なった手を握ってサムタンの視線を自分に向けさせた。サムタンの瞳は赤味がかった紫に光っている。もうすぐワインのような色味に変わるだろう。


「あそこなら、ここよりもずっと不快な思いをせずにすみます」


 主が吸血をどれほど嫌っているか、トリオローノは知っていた。子どものころのサムタンは、血を吸っては吐き気を覚えて泣いていた。こんな体質はイヤだと震えて部屋に閉じこもり、あわや命を落としかけるほど断血をしたこともあった。


 そんなサムタンがしぶしぶながらも吸血を受け入れたのは、ひとえにトリオローノをはじめとした、島の住人たちの説得があったからだった。レムン伯爵家が途絶えては、領地が近隣の貴族の手に渡ってしまう。そうなれば人ならざる島の住人はどうなるのか。


 自分の命を大切に、などという言葉で納得をするサムタンではなかったから、島中の命を説得の材料とした。その効果はてきめんで、サムタンは必要最低限の量ならばと吸血を受け入れた。


 トリオローノや島の者たちの気持ちからすれば、サムタンが嫌いな吸血をせずとも生きていける体になるのは、歓迎すべき変化だった。しかしそのためには、愛などという意味不明なものを手に入れなくてはならない。


(愛など……)


 トリオローノは、それがいかにくだらないものかを知っていた。愛など腹の足しにもならない。役に立つどころか生きるのに邪魔なものだと、トリオローノは認識していた。愛を振りかざして、金品を巻き上げようとする者がいた。愛のためにと、親友に刃を向ける男を見た。愛のためだと言って、身を持ちくずす男がいた。愛する人のためだと言って、自分の身を危険に投げ込む女がいた。


(ばかげている)


 そんなものを手に入れたら、いかなる災いがサムタンに降りかかるか。それをトリオローノは危惧していた。ましてやそれを手に入れるために、島を出て生活をするなどとんでもない。


「トリオローノ。僕は、帰らない。……帰れない」


 ちいさく静かな声に覚悟を秘めて、サムタンは己の身を心底案じてくれている相手を見上げた。気高くゆるぎないトリオローノの瞳は常に冷静で、冬の湖面のように輝いている。けれどその瞳が激しく揺れ動くのを、サムタンは見たことがあった。血を飲むことを拒絶し、命を危険にさらしたときだ。トリオローノは蒼白となり、必死に自分の血をサムタンの喉へと流し込んでいた。あのときのトリオローノの取り乱した目を、サムタンは忘れられない。あの瞬間、この命は自分だけのものではないと理解した。


(だからこそ僕は、愛という未知のものを手に入れる)


 それを手に入れ、トリオローノや島の者たちと心穏やかに過ごしたい。愛とは狂おしくも悩ましいものだと、書物には書いてあった。また、それゆえに尊くかけがえのないものだと。そう簡単に見つかるとは思わない。だからこそトリオローノは島に帰ろうと言っている。いつ見つかるのか、見つけることができるのかすらもわからないものを求めて、危険な日々を送るのはばかげていると言いたいに違いない。


「僕がずっと、なにを求めているのか知っているだろう? トリオローノ」


 帰還をうながすトリオローノの言葉が、皮肉にもサムタンの不安を落ち着かせた。なんのために覚悟を決めて、島から出てきたんだ。希望を捨てきれなくて飛び出したんだろう? それなのに早々に尻尾を巻いて逃げるのか。


「まだ、2日目だ」


「あとどのくらい、こちらに滞在するおつもりですか」


「希望のものを見つけるまで」


 サムタンの覚悟がひたひたとトリオローノの胸に迫る。嘆息したトリオローノは、襟元を崩しながら膝をついた。


「どうぞ、お召し上がりください。そしてゆっくりとお休みになられますよう。――書類の処理は、いたしておきます」


「すまない。……ありがとう、トリオローノ」


 頼りになる男の肩に手を置いて、サムタンは彼の首元に顔を近づけた。

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