第9話 知りたくて知って欲しくて……、でも

 日光が落ち着くころまで、ふたりは窓から外の景色を飽くことなくながめていた。


 とくにこれといった会話をすることもなく、けれど時折サムタンからの質問を挟んで、ふたりはのんびりとそれぞれの時間を過ごす。


 シャルはなにを考えているのだろうと思いつつ、サムタンは景色を見ていた。シャルはシャルで、自分にとってはなんともない日常の景色が、サムタンにとっては珍しく新鮮な光景なんだろうなと、彼の邪魔をしないよう質問をされるまで黙っていた。


 正確に言えば、ひたひたと胸に迫る感傷に浸っていた。


 この店は家族でよく訪れていた店だった。この席がいちばん港を広く見渡せると、シャルの父親は言っていた。他の席では柱や他店の旗、停泊している船によっては視界が狭まると、胸をそらしてエールをあおりながら得意顔をしていたなと思い出す。


 ふたりがいなくなるなんて、想像すらもしなかった。唐突にいっぺんに、ひとりぼっちにされてしまうなんて、誰が予想できただろう。


 まだ2年。もう2年。


 あの事故の当事者と、第三者とでは時間に対する感覚が違っている。それは日を追うごとに溝を深くして、思い出を求めたがるシャルを息苦しくさせた。大丈夫だと笑顔を浮かべて、もう2年も前の話なんだからと自分に言い聞かせても、シャルの心はあの日の悲しみに凍ったままで動かない。冷たすぎて感覚がマヒしてしまっている。


 そのはずなのに、ふっとこうして思い出を引き寄せると、心の奥に熱が生まれて胸が痛くなり、鼻の奥がツンとする。


 事故に対する人々の気持ちの温度差が、態度となって現れる日々の中、シャルが安心して感傷に浸れる場所は、あの家かこの場所くらいしか残っていない。あとは、人気のなくなった月夜の街か……。


 誰かに語れば楽になると、頭ではわかっている。しかしその相手を、シャルは見つけられなかった。機会がなかったわけでも、相手がいないわけでもない。事故の直後、みなしごになったシャルを常連客は案じてくれた。そのうちの誰かに甘えることもできた。店を開くと決めたとき、手伝ってくれた人々や、そのために料理を教えてくれたここの店主、その妻から、やるせない気持ちをぶつけてもいいと、態度で示されたこともあった。


 けれどシャルはしなかった。自分だけが大切な人を失ったわけではない。他の人にはそれぞれの悲しみや生活、支えなければならないものがある。そこに寄りかかるわけにはいかない。両親の店を守らなくちゃいけない。


 弱味をさらす強さも、甘えを発する弱さも、シャルは持てなかった。そうしているうちに嘆くチャンスはどんどん減って、いまでは事故に向き合う勇気も失っていた。


 それなのに、とシャルは横目でサムタンを見た。彼は目を細めて、湖面を滑る船影をながめている。視線はふいっと港に落ちて、行き交う人々の姿を映し、ふたたび湖面に移動した。


 せわしなく動くのではなく、ゆったりとそれぞれを噛みしめ味わうように、目の前の光景を受け止めているサムタンの横顔に、シャルは妙な親しみを感じていた。なにか、自分に似たものがある気がするのはなぜだろう。地位も立場も違うのに、どうして――?


 頬にシャルの視線を感じつつ、サムタンは景色をながめていた。なにか言いたいことがあるのだろうか。気にはなるが、彼女に目を戻せば物思いの邪魔をしてしまいそうで、サムタンは気づかぬふりをした。


 この景色はシャルにとって、当たり前の光景なのだろう。サムタンにとっての島の姿とおなじで、シャルの一部ともいえる情景なのだ。そう思うと、なぜか目に映るすべてが尊く美しいものに感じられた。あたたかなものが胸に広がる。この心地よい感情は、なんという言葉で表せばいいのだろう。


 サムタンは景色を見たままカップに手を伸ばし、口をつけた。空になっていることに気づいて、テーブルに目を向ける。彼を見ていたシャルが気づき、ポットを掴むと軽かった。


「ずいぶんと長く居座っちゃったみたいね」


「そのようだ」


 肩をすくめたシャルは、人の声がふくらんできた階下の様子を気にして、席を立った。


「そろそろ行きましょうか」


「ああ」


 サムタンに異論はない。ずっとここでシャルとともに過ごしていたい、という気持ちがないではないが、彼女とふたり、そぞろ歩きたくもあった。


 ごちそうさまとシャルが店主に声をかけると、いつでも気軽に来てくれと笑顔を返された。それを受けて外に出たふたりの傍に、トリオローノがのっそりと近づいてくる。すっかり彼の存在を忘れていたサムタンは、じろりと見上げられて苦笑した。


「待たせたな、トリオローノ」


「退屈だったでしょう? ごめんね、トリオローノ」


 フンッと鼻を鳴らしたトリオローノはサムタンの足元に落ち着いた。その姿を見て、やはり彼は護衛のようだとシャルはほほえむ。


「ちょっと港を歩きましょうか。もうすぐ日が暮れてしまうから、船はどれも動かなくなるけれど」


 提案に、サムタンはうなずいた。


「すまない」


「どうしてあやまるの?」


「僕が日差しを苦手としているからだ」


「なんだ、そんなこと」


 シャルがやわらかく目を細める。


「人には得意不得意があるんだから、しかたないわ。自分でもどうしようもないことで、人に謝ることなんてないわよ」


「だが……」


 視線を落としたサムタンを、シャルがのぞき込む。


「サムタンはそれがイヤなのね」


 断言されて、サムタンは目をまるくした。


「そうなんでしょう?」


 小首をかしげられ、そのとおりだと無言でうなずくと「やっぱり」とシャルが得意顔になる。


「そういうのって、なかなか受け入れられないわよね」


 実感のこもったシャルの様子に、サムタンは首をかしげた。


「そういうものが、シャルにもあるのか」


「あるわ」


 ふっと目を落としてから、シャルは湖の向こうに視線を投げた。強さを増したオレンジが空に境界を作り、空が薄青の闇へと変化していく。


 それはなに、と問うことを全身で拒絶するシャルの姿を、サムタンは静かに見つめた。彼女はなにを感じ、なにを求めているのだろう。それが知りたい。――なぜ? わからない。ただ、シャルの望みを知りたかった。そしてそれを叶えたいと願っている。理由はわからない。ないのかもしれない。ただ単に、そういう欲求が自分の内側にあると、サムタンは自覚していた。そんなサムタンを、トリオローノは探る眼でじっと見上げる。


「ねえ、サムタン」


 全身に孤独という名の鎧をまとっていたシャルは、すぐにほがらかな娘に戻った。その変化が、なぜかサムタンは悲しかった。さきほど浮かべていた暗く冷たい感情を見せてほしい。抱きしめて、癒したい。――だが、また彼女に恐怖を与えてしまったら? 無意識に精気を吸って、怯えさせるわけにはいかない。


(トリオローノの言う通りだとすれば、僕は無意識に吸っていた。もしも加減がわからずに、シャルの精気をすべて奪ってしまったら)


 ゾッとサムタンの背筋が凍る。


 シャルの笑みが恐怖に歪み、バラ色の頬が色味を消して冷たく硬くなる想像に、吐き気がした。


「サムタン?」


「なんでもない」


 夕暮れ時とはいえ、日が差しているからつらいのだろうと、シャルは考えた。日中の日差しよりも、夕方の光のほうが目に刺さるようで痛かったりする。それが、サムタンはつらいのかも。


「ねえ、サムタン」


 考えるより先に、シャルはサムタンに手を伸ばしていた。


「つらかったら、ちゃんとつらいって言ってね。やせ我慢なんてしないで」


 差し出された手を見つめて、それはこちらのセリフだとサムタンは思う。やせ我慢をしているのは、シャルだろう? さきほど身にまとっていた孤独の理由を僕に教えてくれ。どうしてあんな気配を隠して、そんなふうに木漏れ日に似た笑みを浮かべていられるんだ。――ああ、そうか。シャルは森の妖精だから。だから日が暮れると違う顔を見せるのか。太陽が沈むとともに、暗く沈んで濃い影をにじませるんだな。


 伸ばされた手を取らず、サムタンは「大丈夫だ」と笑みを浮かべた。日中で輝くシャルと、日中の外出が苦しい自分。夜の闇に沈むシャルと、宵闇に生き生きと活動できる自分。対極のふたりが出会ったのは、やはり偶然ではないとサムタンは思う。


 では、どんな導きの末に僕らは出会ったのだろう。


 サムタンの手が動かないので、シャルは伸ばした手を下ろした。こんなところで手をつないで歩いたら、変に誤解されるかもしれないものね。そう自分に言い聞かせるシャルは、触れたかったのは自分だと気づいていた。港に来るたびに浮かぶ郷愁(きょうしゅう)と哀惜(あいせき)を、こぼしたいと望んでいる。ひとりぼっちで誰もいない港にたたずむ夜よりもずっと強く、心の奥底に無理やり押し込んで眠らせている暗く冷たい感情を、受け止められたがっている。


 きっと彼の前で泣いてしまったからだと、シャルは結論づけた。一度弱さを見せてしまった相手だから、甘えてもいいと思ってしまったんだ。


 シャルは体の底から嘆き悲しんだ時間を思い出した。彼に包まれて、ひどく安心した。もう大丈夫だと、ひとりではないのだと心の底から感じられた。それなのに、たゆたう波間をイメージして恐怖にかられ、彼を突き飛ばしてしまった。


(私、ひどいことをしちゃった)


 いきなり突き飛ばされて、サムタンはさぞ驚いたことだろう。謝罪をしたけれど、その理由は言っていない。――まだ、言葉にできるほど心を強く持てないでいる。波間から船を連想し、そこから事故当初の感情が誘発されたと説明すれば、きっとまた泣いてしまう。サムタンに心配をかけてしまう。


 こうして出会うまで存在を知らなかった領主でも、サムタンはまぎれもなく伯爵であり領主なのだから、領内での事故について責任という名の心の負担を持つだろう。短い期間ながらサムタンと接したシャルは、そんな印象を持っていた。だから余計な気がかりを彼に与えたくはない。事故のことは、過ごしている間に知っていくだろうし、私個人にばかり目を向けさせることは避けないとね。だって、サムタンはレムン伯爵なんだから。領内のすべての人々を気にかけなくちゃいけない、領主様なんだもの。


 言動の端々に滲む育ちのよさを思い出し、シャルは自分に言い聞かせた。心がさみしさを浮かべて、理性が言い訳を重ねる。


 互いに相手を気遣いながら、かみ合わないでいるふたりを、チラチラと瞬きはじめた星々が見下ろしていた。

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