第8話 街の様子と思惑と
サムタンの望みにかなうほどツバの広い帽子がなかったので、黒い日傘をさして出かけることになった。
目の覚めるような鮮やかな蒼穹(そうきゅう)の下、サムタンとシャルは微妙な距離を隔てて歩いている。その間に、トリオローノがいた。ふたりと1匹は無言のまま、ただシャルの足が動くとおりに進んでいた。
声をかけてくる顔見知りに笑顔でサムタンを紹介しながら、シャルはふたりの間に横たわる気まずい距離を気にしていた。
このままでは散歩をすこしも楽しめないと思っても、それをぬぐういい考えは浮かばない。トリオローノをはさんでいるので、はたから見れば不自然ではない距離だろうが、シャルもサムタンも、いままでとはあきらかに違った空気を感じていた。
気もそぞろになりながら、シャルは自然と港に向かっていた。湖面のきらめきが見える距離に来て、サムタンはドキリとした。やはり城に帰れとシャルに言われるのでは、と危惧するサムタンに気づかず、シャルはずんずん進んでいく。港は大勢の人でにぎわっていた。
これほど多くの人間を見るのがはじめてのサムタンは、目をまるくして立ち止まった。
(これが、僕の民たちなのか)
紙面の上でしか知らない人々の営みを目の当たりにして、圧倒されるサムタンを守るように、トリオローノが足元に立って周囲をにらみつける。
気づいたシャルは足を止め、振り向いた。
「どうしたの?」
「ああ、いや……」
この気持ちは、どう表現すればいいのだろう。サムタンは行きかう人々の、活気あふれる笑顔や声に呆然と見とれていた。ここを経由してシャルの家にたどり着いたはずなのに、すこしも港の記憶がない。これほどにぎわっている場所だったのかと、サムタンは港の様子をかみしめた。
シャルは港のはるか向こうに見える島影に視線を向けた。あそこはどんな場所なんだろう。サムタンの反応から、こことはまったく違うものであると予測はできる。けれど具体的に、どんな情景なのかは想像すらできなかった。ウワサどおりなら、船着き場はひとつだけ。しかも決まった商人が行き来する以外には、どんな船も停泊しない。
きっとさみしくて静かな港に違いない。ちょっと聞いてみたいなと、シャルはサムタンを見た。サムタンは目を輝かせて、生き生きとした人々をながめている。その足元で警戒をしているトリオローノの姿に、シャルの心はホッとなごんだ。
シャルの視線に気づいたサムタンは、硬くぎこちなかったシャルの雰囲気がやわらかくなったことに安堵した。
「すこし歩く? それとも、もうちょっとながめておく?」
シャルの提案に、サムタンは人々の流れを見ながらすこし考え、自分の傘を見上げて答えた。
「傘がきっと邪魔になるだろう。だから、ながめることにするよ」
うなずき、シャルは港がよく見える店にサムタンを案内した。そこは船乗りたちが仕事の合間に立ち寄る店で、朝のはやい時間や昼間、日が落ちてからはたくましい男たちでにぎわうが、いまの時間は空いていた。
「おじさん。2階の窓際の席に入ってもいい?」
ここの店主はシャルが店を再開するときに、いろいろとアドバイスをくれた人で、シャルにとっては気安い相手だった。顔を出した店主は日に焼けた赤い顔を笑み崩して、サムタンに声をかける。
「やあ。あんたがシャルの親戚だな」
驚くサムタンの横で、シャルは軽く肩をすくめた。
「やっぱり、もう広まっていたのね」
「ダズがあちこちでしゃべっているぞ」
「この街では隠しごとなんてできないのよ」
困った顔でほほえむシャルに、サムタンもおなじ顔を返した。僕が吸血鬼であり伯爵であることも、すぐに知れ渡るのだろうか。そうなったとき、親切そうなこの店主は、トリオローノの言うように僕を追い出そうとしたり、退治しようとするのか。
店主に短く「よろしく」と言いながら、サムタンは無意識にトリオローノの頭に触れた。
「それは、狼か? にしては、毛色が銀だな。てことは、狼に似た犬なのか」
店主のつぶやきに、シャルは「あっ」と声を上げてしゃがみ、トリオローノを抱きしめた。
「ねえ、今日だけ特別にトリオローノもお店に上げてほしいの。この子はサムタンが大好きで、サムタンを守ろうとする気持ちが強い子なのよ」
うーんと店主は腕を組み、渋面になった。
「いいさ、シャル。トリオローノは店の外で待っていてもらおう。なあ、いいだろう? トリオローノ」
サムタンがうながすと、トリオローノは鼻を鳴らして店の外に出て行った。
「大丈夫かしら」
「大丈夫だ」
素直なトリオローノ行動に、店主は感心した。
「頭のいいヤツなんだな。よし、生肉を出しておいてやろう。ふたりは2階の、どこでも好きな席に座るといい」
そういった店主は従業員を呼びながら、厨房へと入っていった。入り口を気にしながら、シャルはサムタンを2階へうながす。
2階に客の姿はなく、シャルはいちばん見晴らしのいい席へサムタンを案内した。
「ここからなら、港の様子がよく見えるわ」
腰かけたサムタンは窓の外に目を向け、目の前に停泊している大きな船を見た。甲板の様子は見えないが、人々が元気に動き回っているのはわかる。滑車とロープを使って下ろされる木箱。それを運ぶ男たち。指示をする男に声をかけているのは荷主だろうか。ほかの男たちと比べると、やや細身に見えるし服装が違っている。
男たちの間を動きやすそうなワンピース姿の女性が歩いていく。手には魚の入った籠があった。
「彼女は、なにをしているんだ?」
「ああ。あれは魚を買ってきたところね。これから帰って料理をするんだわ」
「自分たちで必要なものを買いに行くのか」
「そうよ。うちの店のように、欲しいものを欲しい人がそれぞれの店に買いに行くの」
店員が現れて、注文もしていないのにお茶と焼き菓子、サンドイッチなどがテーブルに並べられた。
「店主から、あなたへの歓迎のしるしですって」
にっこりした店員に、サムタンはどう反応をすべきか迷った。シャルの店で働いて、庶民の収入が己の生活にかかる金額よりもずっと、微々たるものだと知ってしまった。気軽に受けてもいいのか、礼としてなにかを差し出すべきなのか。
「ありがとうって、伝えておいてください」
さらりと言ったシャルに、店員は笑みを深めて「ごゆっくり」と言うと去っていった。
「なにか、返礼をすべきだろうか」
「好意は気持ちよく、ありがとうって受け取ればいいのよ。感謝をきちんと示せば、それでおしまい。無理にお礼をしようとしなくても、なにか役に立てるときがあれば、そのときに返せばいいの」
「もしもその機会がなかったら?」
「そのときは、別の人に親切にすればいいわ。――あっ。トリオローノがあそこに」
窓の下をのぞきこんで、シャルが指さす方向を見ると、店主が肉の塊をトリオローノに出していた。
「お店の角にいるなんて、トリオローノはほんとうに賢(かしこ)いわね。入り口にいたら、怖がって入れないお客さんがいるかもしれないって、わかっているんだわ」
感心するシャルにほほえみながら、サムタンは考える。あの肉の塊は、どのくらいの値段なのか。庶民生活の相場がすこしもわからない。こんな状態で、僕はよく領内の経営ができていたな。ここに来た目的とは別に、きちんと庶民の暮らしを勉強しなくては。
テーブルに目を戻したサムタンは、お茶に口をつけた。大皿の上にある焼き菓子やサンドイッチは、ふたり分にしては多い気がする。ここで働く人々にとっては、通常の量なのだろうか。
「おじさん、すっごくたくさんくれたわね」
そうではないと、シャルのつぶやきで知ったサムタンは、魚の酢漬けと野菜のサンドイッチに手を伸ばした。ほどよい酸味と砕かれた木の実のアクセントが口を楽しませてくれる。
「おいしいな」
「私の料理は、だいたいがおじさんに習ったものなの。――親に教えてもらう時間は、なかったから」
さみしげにしつつ、なんでもない笑顔を作るシャルのいじらしさに、サムタンの胸が淡く痛んだ。
「シャル」
「サムタンにも知られちゃったし、ウソをついてもしかたないものね」
いい加減に自分の中で折り合いをつけなきゃと、シャルは焼き菓子に手を伸ばした。さっくりと軽い歯ごたえに、胸が締めつけられる。パイ生地に木の実を練り込んで、ハチミツを絡めるこの菓子は、シャルの母がよく作っていたものだ。母の味はこれに果物のアクセントが入る。それはレモンだったりキイチゴだったり、季節によって違っていたが、シャルのいちばん好きな菓子だった。
「じゃあ、シャルの味はこの店の味、ということか」
わずかに湿った気配を感じ、サムタンは彼女の気持ちを引き上げようとした。
「まるっきり、そのまんまってわけじゃないわ。基本は教わったけれど、私の覚えている両親の味に近づけているから」
「じゃあ、僕がいただいたのはシャルが慣れ親しんだ、シャルを育んできた味なんだな」
「そんな、たいそうなものじゃないわ」
クスリと愁(うれ)いのない笑みがこぼれて、サムタンの胸があたたまる。なぜかシャルの笑顔がうれしく、彼女が沈んでいると心が痛む。どういった作用でそんなことになるのか、さっぱりわからない。ほんのちいさな悲しみでも、自分の手で取り除きたいと願ってしまう。こんな感情があるなんて、サムタンは知らなかった。
(きっと、島の中ではそんなことがなかったからだろう)
島の住人とは親しく過ごしていたが、こうして誰かと食卓を囲んだ記憶はない。食事はいつも、誰かに見守られながらひとりでしていた。そういう距離感の差が感情の動きに作用しているのだと、サムタンは判断した。
(シャルの悲しみを感じると、触れたくなるのもそのためだろう)
そっとこぶしを握ったサムタンは、窓の外に目を向けるシャルの横顔を見つめた。シャルを抱きしめたときの、胸に流れてきたあたたかなものを思い出し、サムタンはゾッとする。耳奥にトリオローノの声が響いた。
――皮膚表面にある精気をゆっくりと体内に取り入れる。それをサムタン様は、習得なされたのではありませんか?
そんなことはないと、サムタンは心の中で強く否定した。しかしあの心地よさは、体の記憶として残っている。たしかに血を吸ったときに似た感覚だった。けれど吸血のときに必ず走る悪寒は、みじんも感じられなかった。どれほど慣れ親しんだ相手の血だったとしても、それから逃れられず、だからこそ僕は吸血を嫌い、そうしなくとも生きていける方法を求め続けた。出かける前にトリオローノから血を分けられたときも、おぞましい感覚があった。
外の景色に目を向けたサムタンは、店の角でうずくまっているトリオローノを見た。体の隅々にまで広がるぬくもりと嫌悪感。シャルを抱きしめたときには、ただぬくもりだけがあった。精気を吸うだけであれば、僕は受け入れられるのか。血の匂いがしなければ、悪寒は走らないのか。
怯え震えるシャルの姿を思い出し、サムタンは唇を噛んだ。あんなに怖がらせたのは、やはり僕が精気を吸い、力が抜けていく感覚をシャルに味わわせたからなのか。僕が吸血鬼であるとシャルは信じていないが、本能的に危険を察知し、僕を突き飛ばしたのかもしれない。
「あ、サムタン。ほら、見て! あの船が出航するわ」
シャルの声に考えに沈めていた意識を持ち上げたサムタンは、ゆっくりと離れていく巨大な商船をながめた。視界の端に、青ざめて祈るシャルがいる。両親の命を奪った事故を思い出し、航海の無事を祈っているのだろう。
熱心に祈る姿に、サムタンの心がきしむ。シャルはどんな思いで、店にくる船乗りたちを相手にしているのか。今日も会えたと、客の顔を見て喜んでいるのかもしれない。無事で帰ってきますようにと祈りを込めて、料理を作っているのだろうなと、サムタンは想像した。そう思わせられるほど、船に向かって祈りを捧げるシャルは真剣だった。
(島と連絡が取れれば、誰かに船の護衛をするよう伝えられるのだがな)
おだやかな湖面の向こうに、うっすらと見えている島影に視線を投げて、サムタンは考える。あそこには人ではないものばかりが住んでいる。彼等の能力を生かせば、シャルの両親を奪ったような、悲しい事故は防げるのではないか。あるいは事故が起こっても、被害を最小限に食い止められるのでは?
(トリオローノに相談をしてみるか)
人を嫌っているトリオローノのことだから、きっと反対をされるだろう。しかし会話をしているうちに、彼を説得できる方法が見つかるかもしれない。なにごとも動いてみなければ進まない。
そんな決心をしつつ、サムタンは遠ざかってゆく船と見送る人々を見つめていた。
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