第7話 ぬくもりと恐怖
落ち着いたシャルは、ふうっと息を吐いて照れ笑いを浮かべた。
「ありがとう」
サムタンの視線がやわらかく、心までをも抱きしめられている気がして、シャルは頬を赤く染めた。
「なんだか、ちょっとスッキリしたかも」
「それは、よかった。だが、ちょっとではなく、思い切りスッキリしてもらえなかったのは残念だ。どうすれば、シャルは心の重みを軽くできる?」
ちいさな子どもにたずねるようなサムタンに、シャルは肩をすくめた。
「それがわかれば、苦労しないわ」
「ああ、そうか。……すまない」
顔を曇らせたサムタンに、シャルはびっくりした。
「どうしてサムタンがあやまるの?!」
「なにの力にもなれないからだ」
シャルはサムタンの頬に手を添えて、目尻を持ち上げた。
「泣いている私をずっとなぐさめてくれたわ。――ごめんなさい。私がちょっとだけスッキリした、なんて言ったから」
「いや。僕も、すまなかった。そんなに簡単に払しょくできる想いなら、これほど悩んではいないと予測ができなかった」
謝罪しあったふたりは、クスリと笑みを浮かべて離れた。その瞬間、漠然としたさみしさに見舞われる。どうして、とシャルは疑問を浮かべ、サムタンは気持ちのままにシャルに手を伸ばし、ふたたび彼女を腕に抱いた。
「サムタン?」
「なぜだろう。シャルと離れるのが惜しくなった」
パァッとシャルが赤くなる。それに気づかず、サムタンは目を閉じて天を仰ぎ、シャルのぬくもりを胸深くに確かめる。トクリ、トクリとあたたかなものが心臓に流れ込み、体の隅々までもがほんのりとあたたかくなった。
シャルはそっとサムタンの胸に頭を乗せて、彼の胸に耳を押し当てる。耳に触れているのは彼の心音なのか、自分の心音なのか。ゆったりとした時間の流れに包まれているのがわかる。なんておだやかで、あたたかくて、やさしい風なんだろう。髪を揺らすほどの力もない弱々しい風が、私のまわりで揺れている。まるで、ボートの上に寝転がって、波間にたゆたっているみたい。
そう思った瞬間、体中の血が凍りつくほどの恐怖をシャルは感じた。
「ヒッ」
鋭く短い悲鳴を上げて、力いっぱいサムタンを突き飛ばす。胸を押さえてうずくまったシャルは、恐怖に青ざめた顔をこわばらせて、荒く浅い呼吸を繰り返した。
突然のことにたたらを踏んだサムタンは、うずくまって震えるシャルを見下ろしたまま、身動きが取れなかった。なぜ彼女は唐突に僕を拒絶した? どうして真っ青な顔をして、激しくむさぼるような息をしているんだ。
さきほどまでの、あたたかくゆったりとした気分が霧消し、サムタンの肌身は冷たくなる。シャルの顔色は血の気が失せて、真っ白になっている。怯えた目は床に向けられ、こちらを見ようともしない。僕は……、僕は無意識に、彼女になにかをしてしまったのか?!
シャルは恐怖に見開いた瞳をうるませて、ぽたりぽたりと涙を落とした。床にちいさな涙のシミができる。どうして私、これほど恐怖を感じているの? なにが私に起こったというの?! 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――ッ!
グッと奥歯を噛みしめて自分を抱きしめ、叫びそうになるのを堪える。床が抜けて、漆黒の闇に落ちてしまいそうだ。突然、どうしてこんな気持ちに襲われたのか、シャルはすこしもわからなかった。
カタリと物音が聞こえて、サムタンは振り向いた。狼姿のトリオローノがじっとふたりを見つめている。
「ああ、トリオローノ」
こぼれた声が思うよりも動揺していて、サムタンはあらためて自分の困惑の深さを知った。
クイッとトリオローノが首を動かし、サムタンを呼ぶ。サムタンはうずくまるシャルに後ろ髪を引かれながらも、トリオローノとともに食堂フロアへ入った。
「シャルがいきなり真っ青になって、うずくまってしまったんだ。なにが起きたのか、さっぱりわからない」
壁際にしゃがんでささやくサムタンに、トリオローノがひそめた声で答える。
「どういった状況であったのか、詳しくお話願えますか? でなくば、判断できかねます」
そこでサムタンは、2年前にあった船の事故でシャルの両親だけでなく、街の多くの人が犠牲になったこと。シャルは気を張って生きてきたこと。けなげな姿に無知であった自分を恥じ、彼女をすこしでも楽にしたいと抱きしめたこと。シャルが泣き出し、泣き止んで、手を離すとさみしさを感じ、ふたたび抱きしめてぬくもりを味わっていると、唐突に突き飛ばされて、シャルがあの状態になったことを手短に説明した。
「なるほど」
キラリとトリオローノの薄青い瞳が、聡明な光を浮かべる。
「サムタン様は、ぬくもりを感じられたのですな」
「ああ。――とても、心地いいものだった」
ふむ、とトリオローノは鼻を鳴らし、そっとシャルの様子をうかがった。サムタンもトリオローノの頭上から顔を出して、調理場をのぞく。シャルはうずくまったまま、微動だにしていない。ただ、荒い呼吸は治まったようだ。胸に手を当てて、深呼吸をしている。
「シャル」
つぶやいたサムタンが彼女の傍に行こうとするのを、トリオローノが袖を噛んで止めた。
「なんだ」
「サムタン様。もしやあなたは、吸血をなされたのではありますまいか」
けげんに眉をひそめたサムタンに、トリオローノは鋭く目を細めた。
「牙を立ててはいない、とおっしゃりたいのでしょう? ですが、そのようなことをしなくとも、吸血をする方法はございます。精気を吸いとる、という言い方がふさわしいのかもしれません。皮膚表面にある精気をゆっくりと体内に取り入れる。それをサムタン様は、習得なされたのではありませんか?」
「そんなバカな。そのような方法を僕は知らない」
「ですが、そのような方法で精気を吸うものはおります。サムタン様は胸にあたたかなものを感じられたのでしょう? 体の隅々にまで、なにかが満ちる感じがしたとおっしゃった」
「僕は、そんなことはしていない!」
語気鋭く言い放ち、サムタンは大股にシャルに近づき膝をついた。
「……シャル」
(僕が彼女の精気を、抱きしめたまま吸い取っただと? トリオローノは、僕を城に戻したいがために、そんな戯言(ざれごと)を言ったんだ。そんなことがあるはずはない)
顔を上げたシャルの力ない笑みを見て、サムタンは息を呑んだ。吸血された人間のように、白く青い肌をしている。そんなまさかと不安にかられるサムタンに、シャルは「ごめんなさい」とつぶやきながら体を起こした。立ち上がろうとするシャルに手を差し伸べかけて、サムタンは迷う。もしもトリオローノが言うように、触れて精気を奪ってしまったのだとしたら――。
(私が突き飛ばしてしまったから、サムタンはどうしていいかわからないんだわ)
悪いことをしたな、とシャルは苦笑して立ち上がった。サムタンも立ち上がり、案じ顔をシャルに向けている。彼のうしろからトリオローノが現れて足元に来た。シャルは艶やかなトリオローノの毛並みを指先でたのしみ、心に残っている不安をなだめた。
(ほんとうに、私ってばどうしちゃったのかしら。ひさしぶりに泣きすぎて、情緒不安定になっているのかも。きっと、事故の報告を聞いたときの気持ちがよみがえって、それで怖くなってしまったんだわ)
なんにも悪くないどころか、なぐさめてくれたサムタンにはひどいことをしたと、シャルは気まずくなりながら頭を下げた。
「ごめんなさい、サムタン。私、乱暴なことをしちゃって」
「ああ、いや」
とまどうサムタンに、本当に悪いことをしたなとシャルは反省する。
「大丈夫なのか?」
「ええ、もう大丈夫」
まだすこしフラフラするけれど、サムタンを安心させたくてシャルは強がった。
「たくさん泣いたから、頭がクラクラしちゃったみたい」
「なら、いいんだが」
顔色をもっとよく見ようと身をかがめたサムタンに、元気な笑顔を作ったシャルは「あれっ」と声を上げた。
「サムタンの瞳、また紫になってるわ」
そのひと言に、サムタンはギクリとした。シャルはまじまじとサムタンの瞳を見る。
「すごくきれい。……不思議ねぇ」
言ってから、サムタンの顔がこわばっていることに気づいて、シャルは「あっ」と口を押さえた。サムタンは瞳がコンプレックスなんじゃないかって、思ったばっかりだったのに。私、不用意なことを言っちゃった。
「僕の瞳は、ほんとうに紫になっている?」
「ええ……。朝ほどではないけれど、さっき見たときよりも青味が強くなってるわ」
「――そうか」
低く落ちたサムタンの声に、シャルはオロオロした。
「あ、あの……、ごめんなさい。つい言ってしまって。その、とてもキレイだから……」
「うん。ありがとう」
ほほえむサムタンが泣き出しそうに見えて、シャルの胸は痛んだ。なぐさめてくれた人を突き飛ばした上に、不用意な言葉で傷つけるなんて。私、なんて考えなしなのかしら。どうにかして、サムタンにつぐないをしたいけれど、どうすればいいの?
指先にふれる毛並みに思い至って、シャルは笑顔を浮かべた。
「そうだ。ねえ、せっかく閉店にしたんだから、みんなで街を散歩してみない? サムタンは、街のことが知りたいんでしょう。トリオローノだって、家の中にいたら退屈だろうし」
「いや、僕は……」
日差しの強く明るい中に出るのは、と断りかけたサムタンは瞳が紫になっているというシャルの言葉を思い出した。もしも僕がトリオローノの言う通り、シャルの精気を吸っているのだとしたら――。
「すこし、準備をしてくる。部屋に上がってもいいか?」
「準備?」
「もし傘かなにか日差しを遮られるものがあるのなら、借りたいんだが」
「日傘も帽子もあるから、どちらでも好きなものを使って」
「ありがとう」
そそくさとトリオローノを連れてサムタンが2階へ上がる。シャルはカットしたカフェ用のケーキを油紙にひとつずつ包んだ。これを籠に入れて店先にテーブルを出して並べよう。無人販売にしておけばケーキは無駄にならないし、散歩にも出かけられるわ。
2階の部屋に入ったサムタンは、鏡の前に呆然と立ち尽くした。瞳がたしかに紫になっている。吸血鬼としての空腹を、思うよりも感じていない。
「そんな……、僕は、ほんとうに」
シャルの精気を吸い取ってしまったのかと、サムタンは青ざめた。その背後で、トリオローノが人型になる。
「日中に外に出るのは危険です。――が、出かけないわけにはいきますまい。どうぞ、私の血をお取りください」
裸身のトリオローノに振り向き、サムタンは瞳をうるませて救いを求めた。
「僕は、吸血をしないでいたいんだ」
「吸血をせずとも精気を得る技を得られたのですから、こちらに来られた意義はありましたな」
「そういうことじゃない」
ゆるゆるとかぶりを振って、サムタンはベッドによろめき座った。
「命を吸い、それを己の糧にするなど」
頭を抱えたサムタンの前に、トリオローノがひざまずく。
「どのような生き物も、方法は違えど他者の命を糧にしております」
「わかっている。わかっているのだが、そうではない」
これをなんと表現すればいいのか、サムタンにはわからない。砂を巻き込んだつむじの中にいるような、ザラザラとした不快感がサムタンの周囲に吹き荒れている。説明のできないもどかしさと、シャルの精気を吸ったという後悔にさいなまれているサムタンの手を、トリオローノが取った。
「あまりシャルを待たせてはなりますまい」
さあ、とうながされ、サムタンは苦悶の顔でトリオローノの肩に腕を回し、噛みついた。鉄臭く甘い独特の香りが鼻に抜ける。ふわりと体が浮くほどやわらかく、あたたかなものが喉を伝って四肢に満ちる。
(ああ……)
シャルを抱きしめたときも、こんなあたたかさに胸が満たされたと、サムタンは泣きたくなった。僕はやはり、シャルを抱きしめながら精気を奪っていたのか。食事だけで生きていける体になりたいと望みながら、触れるだけで精気を奪ってしまう技を得たとは、血を吸うよりも罪深いではないか。
静かに涙を流すサムタンを、トリオローノは己の血を与えながら抱きしめる。
「今宵にでも城に戻りましょう、サムタン様。我等は人と深く関わり合うべきではないのです。人と我々は、相容れぬものなのですから」
その言葉に締めつけられるサムタンの胸には、シャルの笑顔が浮かんでいた。
「いいや、ダメだ」
口を拭ったサムタンは、トリオローノの問いの視線をまっすぐに見つめ返した。
「シャルを……、僕を拾ってくれた彼女の悲しみを癒すまでは、城には帰れない」
「また精気を吸うかもしれないのですよ」
「なるべく触れないように気をつけるさ」
「あの人間に、なぜそれほど関わろうとなさるのですか」
「なぜだろうな。僕にもわからない」
シャルを見ていると木漏れ日の中にいる気分になる。それだけでは理由にならないだろうか。深く明るい森の中で過ごしている気持ちになれる、と言ってもトリオローノは理解できないに違いない。そう考えたサムタンは、領主の顔をして答えた。
「ただ、彼女を通して街のことを深く知れる気がするんだ。シャルの心を救うことが、僕が知らずにいた2年前の事故で傷ついた人々へのつぐないになるのではないかと。――領主として、領民をおもんぱかるのは当然だろう」
フン、と鼻を鳴らしたトリオローノが獣の姿になる。しぶしぶながらも滞在を許可してくれたトリオローノに礼を言い、サムタンはクローゼットを開けて帽子を探した。
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