第3話 少年の話 1-3 出会い
帰宅して早々に怒号が聞こえてきた。それも俺の知らない女の人の声だった。
「あんた、既婚者だったの!」
赤い口紅をしたその女は父に向って罵倒を浴びせた。父は怒鳴られているにも関わらず、にやにやしながら半ば嬉しそうな顔をしていた。もう、これで何回目だよ。
「いやあ、ごめんよ。聞かれなかったから言わなかっただけなんだ」
「そんなの言い訳だわ。そんな半端でふらふらしてるから会社も首になったのよ」
「それは別の話だろ。管理職でも不倫してる男女なんていくらでもいるだろう」
女はヒステリックに声にもならない声を上げながら、父の頬をぶった。俺はこういう時、決まってトイレに逃げ込むことにしている。巻き込まれてしまうのが厄介で面倒だからだ。
「死ね」その女はそう叫んで家を飛び出した。母親が仕事で出ていたのが幸いだった。
「蓮さん、出ていていいよ」
父は俺のことをさん付けで呼ぶ、信司にはいつも呼び方が変わっていると笑われるが、十四年間も呼ばれていたら案外慣れてしまうものだ。
俺はのそのそとトイレを出てリビングへ向かった。リビングではクッションやぬいぐるみがありとあらゆる方向に散らばっていた。ああ、やはりそういうタイプの女だよな。と妙に納得してしまった。
「お母さんには言わないでくれよ」
勿論言うはずがない。父は知らないのだろうが、俺が一度だけ母にばらしてしまったことがある。母はなぜか俺に当たり散らしたのだ。「どうしてパパが浮気していたことを言ってしまったの! あんたは人の気持ちを考えられないから」と。
「いやいや、俺は微塵も関係ないだろう。不倫した張本人に言ってくれよ」と言いたかったが、ここで余計な言葉を言ってしまうとヒートアップしてしまうだろうと嗅ぎ取って、ひたすら黙って母の気が収まるまで待ち続けるのが賢明だと判断した。
もうあんなことにはなりたくないので、母にばれないように部屋を片付けて、においを消すスプレーを部屋中に撒き、母の帰りを待つようになった。
そうやって気を使ってる僕とは裏腹に父は反省もせず不倫を繰り返すのだが。
「父ちゃんってどうして不倫するの?」
携帯のソーシャルゲームに夢中な父は目を落としたまま、
「お母さんが俺の為に怒ってる姿を見たいからさ」
はた迷惑だ。処理するのは全部俺なんだぞ。
「ふうん、趣味が悪いね」
「ごくごく一般的な感情だと思うんだけどな。昔勤めてた会社にいた小太りのおっさんも同じことを言っていたぞ」
案外、不倫はそこら中に溢れているらしい。ああ、そんなリアルを知りたくなかった。
「ま、お前も大人になれば分かることだよ」
はあ、と口にした。父は「あー負けっちゃった」とぼそぼそと独り言をぼやきながら、鮮やかな画面を指で叩いていた。
洗濯機を回している途中で、洗剤がなくなっていることに気が付いた。今日は二回は回す予定なのに。
うちの父と母は車を所持していない。地方都市の都市部に住んでいるので、公共交通機関で事足りるし、二人とも免許だけは持っているのでレンタカーを利用すれば遠出もできる。そうは言ってもやはり周りを見たら車を所持している家庭が大半だ。
薬局まで徒歩で二十分はかかる、親が車を持っていればなあと思うのだが、父は無職でろくに収入がないので維持費が賄えられないようだ。
洗濯機はがたがたと大きな音を鳴らしながら水を注いでいる。あと四十分はかかると機械は教えてくれた。自転車なら片道十分で行けるはずだ。制服のままの俺は、そのまま外出するために、携帯を持ち出した。
「父さん、行ってくるよ」
父からの返事はなかった。どうせソーシャルゲームをしているのだろう。
薬局になくなった洗剤があったので、俺は購入し、自転車で急いで帰宅しようとした。学校から徒歩五分の場所にある薬局付近に大きなカメラを背負った大人がわらわらと集まっていた。
「十四歳の少年は何を抱えていたのでしょうか」
カメラの前で訴えかけるように話す女性を横目に、俺は逃げるように自転車を漕いだ。恐ろしかった。俺の周りで起きた俺が関与していることが報道されて、あることないことをネットやテレビで議論されることが。そんな混沌の中じゃ、当事者の声なんて届かない。
自転車で漕いでると、いつもは行かない小道を走ってしまっていた。薄暗く、空き家が多い場所で母にも避けるように言われていた場所だった。
人通りも少なく、お化け屋敷のアトラクションのような雰囲気を漂わせている小道はなぜだか懐かしさを感じた。俺は小道の右端に自転車を置き、手入れされていないコンクリートの雑草を踏みつけながらしゃがみこんだ。
制服のズボンポケットに入れていたものを取り出して熟視した。伊藤の下駄箱にあったものだ。
十の文字列を心の中で唱えながら、スマホの画面に指を滑らせた。
着信ボタンを押してしまって良いのかどうか悩んだが、いつもの俺らしくなく、好奇心が勝った。
いつもより、着信音が長く感じた。
「もしもし」電話に出たのは若い女性だった。伊藤君のお友達? と落ち着いた声は言った。
「違います。クラスメイトです」
自分でも分かるくらいに声は震えている。へえ、と声とともに金属音が響いた。
「ごめんね、煙草を吸いながら話すよ」
ジッポの音だったのだろうか、映画やドラマの中でしか見たことがない。父も母も吸わないから知らないのだ。
「クラスメイト君がどうして私の番号を知っているのかな」
「伊藤君の下駄箱を覗いたらあったので」
「じゃあ、白いブツも持ってるんだ?」
はい、と答えるとふうん、と返事をしながら煙を吐いた。まあ、いいや。とくつくつ笑っている。時々、息がかかるのだが、それが妙に色っぽくて胸が高鳴った。
「つーか、今さ、空き家がたくさんあるとこにいるでしょ」
はい、と返事をする。
「あんたが今いるところの右隣の空き家あるでしょ」
瓦作りの大きな一軒家は窓とカーテンは閉められていて、外からじゃ中がよく見えなかった。
「そこに私がいるから。入ってきてもいいよ」
と電話は切られた。
一軒家の出入り口にある石畳を踏みつけながら、見慣れない屋根の瓦をじっと眺めた。俺の家はマンションだけど隼斗の家は一軒家だし、新興住宅街もある。それらとは全く違った。堂々とした風貌で威嚇しているように思えた。
俺は高鳴る胸を押さえながら、玄関の扉を叩いた。「すみません」と声を発するとすぐに、がらがらと音を立てて開かれた。
「いいよ、入って」
扉の隙間から顔をだし、言い終わった後に反転して去った。それを俺は追った。煙草の煙は女性の後を追うように漂い、彼女の姿をすぐに見つけられた。
畳が敷き詰められた和室の一部屋に彼女は座り込んで、たんまりと吸い殻が溜まった灰皿に煙草を押し付けた。ちゃぶ台の上には文庫本が二冊ほど置いてあった。
「伊藤君のクラスメイト、だっけ」
上目遣いをした目は赤く充血していた。
「はい。今朝は驚きました。知っていますか」
「もちろん。いずれああなるとは思っていたけどね」
あの子は酷く危うかったんだよ、とちゃぶ台に肘をつく。あ、君もそこに座りなよ、と彼女の向かい側を指さした。
俺は彼女に向かい合う形で座り込む、肘は折れそうなほどに細く、きめ細やかな白色だった。クラスメイトの女子も細くて白い奴はいくらでもいるのに、比べることがおこがましいと思えてしまうほど、目の前の女性にはどこか、儚さがあった。たとえるならば、握りつぶしたらはらはらと崩れて、壊れてしまう初冬の雪のようだと思った。
「あの白いブツは、ここに置いていきなよ。少年院には行きたくないだろう」
慌ててそれをポケットから取りだしてちゃぶ台に置いた。女性は肩を上下しながら笑う、面白いね、君。
「でもよかったよ。君みたいな物わかりがいいガキの手に渡ってさ。私もひやひやしたんだ。もしも警察や教師の元に渡ってたらと考えると食べ物が喉も通らなくって。煙草ばっか吸ってたよ」
動揺しているようには思えなかった。大人の余裕が少しはあるんだろう。女性は胡坐をかいた右足を立てた。
「ここって、空き家ですよね」
「そうよ、他に何に見える?」
「いやいや、不法侵入でしょう、それ。この部屋もほかの部屋も誰かが住んでるように見えましたけど」
室内には砂砂利の一つも落ちていないし、廊下にはクイックルワイパーまで置いてあった。ゲーム機からぬいぐるみまで様々な私物が置いてあるし、恐らく彼女一人ではないのだろう。
外郭は雑草が生い茂って何も手入れをされていないように見えるし、あからさまに空き家の風貌をしているのだが。
「一応、私の友人のじいちゃんの家ではあるんだよ。友人に許可も取ってるしさ。空き家って処理が大変なんだよ。ここら辺の家はほとんど処理が面倒だからって放置され続けた家ばかりなのだろうな」
へえ、そうなんですか、と納得するしかなかった。彼女の語り口には説得力がある、なめらかで一切の歪みがない。
「伊藤君はどうしてあの白いものを持っていたんですか」
「お守りなんだってよ。ほんとアイツは馬鹿な野郎なんだ」
女性はまた煙草に火をつけた。シルバーのジッポは気持ちの良い金属音を鳴らす。
「アイツさ、いつもここに来て冷たいのを欲しがるふりをするんだ。あいつはきっと、寂しかっただけなのに」
煙を吸って、吐き出す。
「自殺するってずっと言ってたけど、そんなこという奴に限ってしないもんだと思ってた。本当にするなら、もっと優しくすればよかったな」
女性の目は潤み始めた。薄くマスカラをつけてあるまつ毛はさっきよりも瞬きを繰り返す。俺は様々なことを察してしまった。
「アイツ良い奴だったのに、こんなことなら童貞くらい奪っておけばよかった」
涙を我慢することもなく声を上げた。父が余所の女を連れているときより、焦ったし困った。とっさに何を言えばいいのかわからず、
「それ、犯罪ですよ」
としか言うことができなかった。女性はきょとん、とした顔をして、涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま大口を開けて笑いだす。
「それ、この場で言うことかよ」
俺も、言った後に後悔していたところだった。
「そんなに、伊藤君のことが好きだったんですね、アイツも天国で喜んでいますよ」
女性は顔を真っ赤にして、俯いた。別に、と口をひん曲げて、目が泳いでいた。
「俺も、これから暇なときに来てもいいですか」
即答だった。
「是非来てくれ」
クールな印象が一転するほど無邪気な笑みを浮かべていた。
彼女は奈々子という名前なのだという。彼女は古風な名前を嫌がっていて、自分はあまり好きではないと言っていた。俺からすれば古風な名前のほうが個性があって素敵なのに、と思うけど。
結局、長話をしていたら夕日が今にも山の奥に落ちてしまう頃になっていて、時刻は七時を過ぎてしまっていた。すっかり、洗濯物のことを忘れていたことに、妙な焦りがあった。生乾きの臭いがついてしまうからだ。
それに母も帰宅する時間帯だ。
帰りたくない、と駄々をこねたくなった。それを察したのか奈々子さんはこうたしなめた
「でも、蓮君には帰る家があんだから、さっさと子供は家に帰りなさい」
どうにも言えなくて、しぶしぶ家に帰るしかなくなった俺は、自転車をいつもよりのろのろと漕いだ。奈々子さんの、別れ際の「またね」が耳から離れない。
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