第71話「もうバイバイ…」

「真美!」


社宅のアパートは倒壊していなかったが、窓は割れ、壁にヒビが入っていて、いつ潰れてもおかしくないように見えた。


俺は自宅のある二階建てのアパートの角部屋に向かって、真美の名前を連呼しながら今にも崩れ落ちそうな階段を駆け上がった。


「真美!真美!」


ドアノブを回して入ろうとしたが、鍵が掛かっている。


それは即ち、家の中にまだ真美がいることを示していた。


俺はポケットから鍵を出して玄関のドアを開けた。


ぐしゃぐしゃの家の中で、真美が俺のパソコンを脇に抱えたままリビングに座り込んでいた。


「…司。…良かった、無事で。」


薄目を開けて真美が言った。


「真美!大丈夫か!」


「…うん。怖くて動けなくなっただけ。」


「真美、立てるか?」


「うん。」


俺は真美に手を差しのべて彼女を起こし、玄関に置いてあるスクーター用のヘルメットを手に取った。


「何で俺のパソコンなんか抱えてんの?」


ヘルメットを急いで彼女に被せたあと、コートを着せて避難するための準備をしながら俺は聞いた。


「だって、これには司の〈夢〉が詰まってるんでしょ。」


真美はそう言うと、今度は両腕でパソコンをギュッと抱いた。


「…真美。」


真美は当然、俺が夜な夜な小説をそのパソコンに打ち込んでいるのを知っている。


俺は、本当はパソコンなんか置いていけと言おうと思っていたのだが、真っ先に守ろうとしたのが俺の〈夢〉だと知って、改めて真美のことを〈いい女〉で、俺には過ぎた人だと思った。


「寒くない?」


「うん。」


「じゃあ、行こう。」


俺たちは余震の続く中、急いで家を出た。


階段を降りたところで、大きな余震がきて、そのすぐ後、俺たちの社宅アパートは倒壊した…。


だが、それに驚き嘆いている暇はなく、少しでも早く逃げようと、地震の揺れで倒れていた俺のスクーターを起こしてキーを差し込んだ。


しかし、倒れた衝撃と寒さでか分からないが、2、3回まわしてもエンジンがかからない。


「かかって!お願い!」


真美がそう叫んだ次の瞬間、エンジンがかかった。


やはり神様は俺の願いより真美の願いを聞いてくれるようだ。


俺のスクーターは50ccで、本来二人乗りは禁止だが、この緊急事態にそんなことは構っていられない。


俺はスクーターの後ろに真美を乗せ、この辺の緊急避難場所となっている小学校に向かって走り出した。


役所から絶え間なく避難警報がアナウンスされていたが、スクーターの音とヒビ割れた悪路での慣れない二人乗りの運転に集中していたことで俺には内容が聞き取れなかったが、津波警報が流れていたらしい。


憧れの海からの魔の手は、もう目前まで迫っていた…。


…………………………


「もう津波がやってくるぞ!屋上へ急げ、爽子(さわこ)!」


焦った声で、俺と同じくらいの歳であろう男が妻か恋人らしき女性を連れて、小学校の校庭から校舎の屋上へ向かっていた。


目的地の小学校に着いた俺たちは、ようやく役所から流れている津波警報の内容を聞き、校庭にスクーターを乗り捨てて、皆と同じように校舎に向かった。


「俺たちも急ごう。」


俺はヘルメットを被ったままの真美の手を引き、先を行く夫婦らしき2人に続いた。


「司、怖いよ…。」


水恐怖症の真美は、アナウンスや避難してくる人々の言葉を聞き、確実に津波がやってくるだろう近い未来にお腹を触りながら震えていた。


「大丈夫!俺が真美とお腹の子を必ず守るから!」


俺はそう言ったが、津波から彼女とお腹の子を守れる根拠など、どこにもなかった。


俺自身もこの先何が起こって、どうなるかなんて全くわからなく、彼女と同じように怖かったからだ。


いや、この時は日本人の誰一人としてこの先に起こる悲劇をわかっている者などいなかっただろう。


だが、俺は弱気な姿を彼女に見せないように精一杯、強がって見せた。


身ごもる彼女の心と体の震えが少しでも和らぐように…。


…………………………


「健一、待って…。」


前を走っていた爽子と言うらしき女性が、校舎の入り口手前の校庭とコンクリートの間の小さな段差につまずいて転んだ。


旦那か恋人らしき健一は、爽子の声に一瞬振り向いたが、迫り来る津波に対する恐怖が勝ったのか、一人で校舎の中に入っていった。


俺は真美の手を引きながら、残されて立ち上がれない爽子を抱きかかえ校舎の入り口に急いだ。


「司!この人は任せな!」


そう後ろから声を掛けてきたのは、お昼まで一緒にいた仕事仲間の理恵だった。


「理恵さん!…じゃあ、お願いします!」


理恵は俺より10コほど年下だが、〈石巻水産〉においては当然先輩で、 さらに生来の〈姉御肌〉気質もあって、俺は弟分みたいな扱いを受けていた。しかし、俺は理恵がその言葉尻から俺のことを気に入ってくれているのがわかっていたので悪い気はしていなかった。


俺は本間さんや他の仲間が無事に避難できているかを聞きたかったが、それは後回しだ。

すぐそこまで津波は迫っているのだ。


「死にたくなかったら立て!」


理恵はそう叫ぶと、うずくまってる爽子の背中を〈バンッ〉と一度叩いた。


爽子は理恵に〈活〉を入れられて、生きるための本能が呼び覚められたように凛として自ら立ち上がり、理恵と一緒に校舎の入り口に向かって再び走り出した。


俺と真美もすぐ後に続いた。


そして、なんとか俺たちが校舎の中に入った次の瞬間、その場にいる誰もが見たことのない大津波が誰も聞いたことのない恐ろしい音と共についに襲ってきた。


これは現実なのか認識できないまま、俺はただ本能で真美とお腹の我が子を守ろうと、片腕で彼女を抱き寄せた。


瞬く間に俺たちは大津波に飲まれたが、校舎の中にいる分だけ流されずに、入り口の扉の縦に長い取っ手に俺の空いている片腕でしがみつくことができた。


その濁流の勢いを必死に取っ手にしがみつきながら感じていたが、しばらくして凪(なぎ)のような状態になった。


俺は今の状況がどういう状況か理解できなかったが、校舎の何階まで浸水しているのか分からないし、もう息が続かないので校舎の外から、その濁流の上に浮かび上がろうと凪の水の中を泳ぎ上がった。


真美はフルフェイスのヘルメットをしたままだったので、その中に多少の空気が残ってい息は持ちそうだ。


俺の方は、しがみついている時に体力を使い切っているので、もう限界だった。


俺が最後の息を吐き出した後、真美はその両足で俺の体を挟み込み、俺の首に回していた両腕を離した。


そしてヘルメットの中の空気を思い切り吸い込み自由になった両腕でヘルメットを脱ぎ捨てた。


彼女は水中で俺に口唇を押しあて、その思い切り吸い込んでいた最後の空気を俺に吹き込んだ。


彼女の最後の空気をもらった俺は文字通り息を吹き返し、水上へ再び向かった。


真美は俺にぎゅっと抱きつき、俺の肩口に顔を埋めた。すべてを俺に委ねているかのようだった。


(必ず守ってみせるから…)


そう俺は心の中で真美に誓った。


(まだかよ…。早くたどり着いてくれ…)


真美にもらった空気の酸素を使い切った俺は、本当に最後の息を吐き出し、最後の力を振り絞って水中を掻いた。


「ぷはー、ハア、ハア、ハア。」


ようやく水面にたどり着いた俺は、大きく呼吸をした。


水上を見渡すと校舎の2階の窓から、理恵が爽子を引き上げているところだった。


理恵は海女(あま)になる修行をしているから泳ぎは得意だったのを思い出した。


俺も理恵ほどではないが、幼い頃にスイミングスクールに嫌々ながら通っていたので、泳ぎは得意な方だ。


俺の首に手を回し抱きついている真美を背中に背負い変えて、残りの力を振り絞って平泳ぎで校舎2階の窓に向かった。


「司!あと少し!頑張れ!」


校舎の2階の窓から理恵が俺を呼んでいる声が聞こえた。


俺は声のする方へ必死に泳いだ。


俺は泳ぎながら、スイミングスクールに通っていた時のことを思い出していた。


苦しい時、真美やみんなが応援してくれていると勝手に想像して25メートルプールを何度も往復した。


その時の想像と同じように、理恵が声を掛け応援してくれているのがわかったが、もう体力の限界だ…。


「…司。ごめんね。スイミングスクールやめちゃって…。もういいから…。私、手を離すね…。司は生きて…。今までありがとう…。愛してるよ。バイバイ…。」


真美は俺の想像が見えているかのように、そう俺の耳元でささやいて、首に巻きつけていた両腕をそっと離した。


(…俺のために死ねる女なんてそうはいない。そんな女を一人で死なせるわけないだろ…)


俺は、離れた真美の両腕の片方を掴み、体を引き寄せて水中で抱きしめた。


顔を一瞬水上に上げて大きく息を吸い込んだ時、校舎の2階の窓から水面に飛び込む理恵が見えた。


俺と真美は抱き合いながら、水中に沈んだ…。


俺は水中で大きく吸い込んだその息を真美に吹き込んだ。


そして、それが真美との最後の口づけとなった…





挿入歌

「もうバイバイ」 Hilcrhyme




第72話(最終話)に続く













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